坦々塾報告(第十回)(一)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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坦々塾第10回勉強会報告(平成20年8月9日)
                                     
 坦々塾最初の集まりは、約2年前、平成18年9月10日だった。安倍内閣成立の前夜で、「つくる会」の騒動もほぼ大勢が決していた。八木秀次氏を会長とする、教育再生機構が発足しており、以後しばらく「つくる会」と「機構」との間の人事・組織の混乱はなお続いていたように思うが、ことの「正邪」については、既に決着していた。

 今回の勉強会の1週間前に「つくる会」の総会が終わったところで、そこでは、自由社版「新しい歴史教科書」の検定本が文科省に提出済みであり、対して「教科書改善の会」の新教科書の編集は検定に間に合わず、つまり教科書編集に関する限り、「つくる会」の「勝利」が明白になったのである。

 しかし、大会での質疑を見ても、保守運動全体における混迷はなお残ることは当然予想されるところではある。

 そのような状況下、坦々塾の勉強会のテーマと講師は次の通りであった。(敬称略)

    国家中枢の陥没      西尾 幹二
    保守概念の再考      岩田 温 (坦々塾メンバー)
    保守運動の挫折と再生  平田 文昭(外部招待講師)

(1)
 福田内閣の姿・その所作自体が、国家中枢の陥没を表しているようなものだが、西尾先生の話の中心は、保守言論の閉塞状況である。

 マスメディアの広告主・上位数千社が中国ビジネスに関わっており、従って、そこでは本質的な中国批判はできない。

 「文藝春秋」は、かつては「朝日新聞」に対抗する主要メディアだったが、知らず知らずのうちに「左方」に移動し、中性化・無性格化しているように見える。「諸君」さえもそれに引きずられている。「正論」、「WiLL」、「Voice」、「SAPIO」、「月刊日本」などが保守メディアとして存在しており、「激論ムック」のような新しいメディアも登場しているが、果たしてそれらは、ガス抜きとして許される以上のものなのだろうか。

 最大の問題は、政治家による然るべき発言が全く途絶えていることだ。北朝鮮の核武装をほとんど容認するが如き6カ国協議が進展しているにも拘わらず、わが国の安全保障や日米同盟の前途についての議論は、寂として起こらない。それは、言ってもどうにもならないと諦めているのか、何らかの圧力に屈しているのか、そもそも無関心なのか。――筆者には、その三つの全てが当たっているように思われるのだが。

(2)
 平田文昭氏は、一年ほどドバイに滞在し、帰国してみると、日本は何と情報閉鎖空間であることか、という。国内にいる我々にとって耳の痛いところだが、日本に入ってくる画像情報は、ほとんどアメリカからタイまでの空間のものであり、シンガポール以西の情報は少ない。しかも、それらはもっぱらアメリカによって提供・管理されている。

 中近東からシンガポールまでの、西アジア世界における日本の存在感は、希薄である。一方そこでのインドの存在感は巨大だが、そのような情報は日本にはほとんど伝わってこない。この地域の情報を圧えているのは、旧宗主国イギリスであり、BBCの影響力が大きい。もしお金があって、アルジャジーラの提供する画像情報をそのまま日本に流すことが出来たら、そのような情報の壁を破れるのだが、というのが、平田さんの壮大な感慨である。

(3)
 岩田温氏の話には、思わず聞き耳をたてるところがあった。

 西尾先生は、保守的態度、というものはあるが、保守主義というものはない、といわれるが、岩田氏の立場はそれに反対だ、というのである。西尾先生は、岩田氏達の発行する「澪標」に寄稿してそう述べておられるのだが、岩田氏の主宰する団体は、堂々と「日本保守主義研究会」を名乗っている。一体どうなっているのだろうと、気になっていたところではある。

 保守主義とは、たんなる現状維持ではない。それは現状維持を超えた、あるいは岩田氏は保守イデオロギーを超えた、という言葉を使っていたと思うが、そういう思想、超越的な何ものかが必要であり、保守主義とは、それによって国体を守ることである、という。

 そして続ける。――そう考えることによって、保守主義は、融通の利く、柔軟なイデオロギーとなる。――何となれば、国体についての考え方は、唯一絶対ではなく、多様だからである。

 この考え方は、筆者にとっては、極めて得心のいくものであった。

 天壌無窮の詔勅によって直接形成された国体、という考え方もあり得るが、近代的な国体論ならば、神話に淵源を持つ天皇が歴史的にその立場を確立し、またその天皇を中心として、さらに統治制度が発展してきたと考える。近代国民国家は天皇の名の下に形成され、それは立憲君主制として民主化の道を歩むが、一時期戦争によって、その歩みは停滞し後退する。しかし、占領下においては、その歴史の連続性は強制的に断絶され、戦後民主主義が導入された。――従って、歴史と伝統に立脚し、国家の意義を尊重する保守派ならば、その歴史の継続性を回復し、国体を保守することをもって、自らの任務と捉え、保守主義を名乗る。――筆者は、そのように解釈する。

 いつの時代にも通ずる、万国共通の保守主義なる概念はあり得ない。そのような概念は、具体的な歴史・伝統を尊重する保守的態度とは、相容れないからである。それに反して、上記の保守主義は、今日・現代、この日本の保守主義として、全く相応しいものと考える。

(3-2)
 たまたま、本日8月15日付「産経新聞」『正論』欄に、櫻田淳氏が、高坂正堯氏を引用して、「自分の過去の実績に基づく安らぎと自信」こそが、保守主義の基盤である、という趣旨を述べている。それは、現状維持主義とは言わないが、完全に現状肯定主義以外のものではない。

 特に、戦前を体験したことのない若い世代にとって、戦前の歴史は、それが自ら経験し達成した結果ではあり得ないから、それへの回帰を主張することは、観念論のレッテルを貼られ、否定される。すなわち、戦前の歴史との継続性を回復する経路は閉ざされてしまうことなのである。

 それは決して保守主義ではなく、ただの戦後民主主義礼賛ということになろう。

 真の保守主義者が、主権回復といった実際的課題に立ち向かう場合には、上のような自称保守の戦後民主主義者よりも、むしろ常識的な範囲での伝統や歴史を尊重する進歩主義者の方が、よりよき政治的同盟者になりうるだろう。

つづく

坦々塾報告(第九回)(三)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 最後に、田久保忠衛先生のお話となりました。

 田久保先生と言えば、小川揚司さんの言うとおり、外交・安全保障問題の権威として、常に大所高所に立って、バランスのとれた正論を、堂々と展開していらっしゃる。まさに、時宜に適したお話が期待できます。

 実は、田久保先生は、5月13日付『産経新聞』のコラム「正論」の「『胡訪日』以後」というシリーズの第一弾として、「日米同盟と中国の微妙な関係」と題する一文を寄せておられます。
 先生の演題は「最近の国際情勢と日本」ということですが、そこで語られた情勢分析の部分は、『産経新聞』のコラムと重なる部分がありますので、そこには収まらない、先生の思いや、私どもにアピールされたことを中心にまとめてみたいと思います。

 冒頭、先生は、自分は米国に対する批判は人一倍強いのだ、とおっしゃいました。
 西尾さんの対米批判を読んだりすると、すぐにでもアメリカ大使館に抗議に行きたくなる。そこを抑えて冷静になって、「外交上アメリカと対立してはならない。」と自分に言い聞かせる。外交とは、”How to survive.” だからだ、というのです
 ややもすると、(保守派の)反米主義者は、紳士的で論理的整合性のある先生の論調を誤解し、親米一辺倒・対米追随であるかのように批判します。それに対して先生は、逐一丁寧に反論なさるのですが、その反論がまた紳士的かつ論理性を重んじているために、批判者に痛痒を感じさせないということがある。
 そんなとき、悔しい思いを禁じ得ないのですが、先生の上記のお話を伺い、胸のつかえが取れた思いがします。

 先生は26年間時事通信社に勤務され、退職後、ほぼ同期間の研究生活・評論活動を続けてこられたそうです。
 時事通信社では、本土復帰前の沖縄那覇、東京、ワシントンの各支局に勤務されました。その経験を通じて得られた教訓は、アメリカの外交は全世界を通じて展開しており、アメリカを理解するためには世界中を見ている必要がある。反対に、世界を理解するためには、ワシントンに観測の軸足を置かなければならない、ということです。
 
 那覇勤務の頃、佐藤政権は沖縄の本土復帰を、ニクソン=キッシンジャー外交は中国との関係改善を(中ソ対立の中で、敵の敵は味方の論理で)、それぞれ模索していました。
 アメリカは、中国に関係改善を望むシグナルを、様々なルートを通じて北京に送っていましたが、最後の決め手は、沖縄基地からの核撤去だと考えていました。
 アメリカは、シグナルの一つとして、台湾周辺の第七艦隊のパトロールを3分の1に減らすことを声明しました。
 また、中国渡航者の現地でのドル使用の金額制限の撤廃を声明しました。その記者会見に田久保先生は出ていたのですが、隣にいた筑紫哲也氏が、「ニクソンは旅行会社から賄賂を受け取っているのだ。」といったというのです。何とも頓珍漢で独りよがりの内向き議論か、という笑い話。
 一方、佐藤政権は、核抜き本土並み返還が目標。しかし沖縄を含む日本の安全保障のためには、沖縄に核がある方が有利。その核撤去を最も喜ぶのは北京に違いない。しかし、アメリカは、中国との取引の切り札として、沖縄の核を撤去しようとしている。
 佐藤首相は、ワシントンを訪問して、沖縄の核撤去をニクソン大統領にお願いした。ニクソンはその本心はおくびにも出さず、それを拒否した。
 田久保先生曰く、ニクソンはキッシンジャーと二人で大笑いをしたことだろう。
 もし、佐藤さんが、沖縄の核は撤去しないでくれ、といったら、ニクソンは窮したに違いない。キッシンジャーに、日本が沖縄の核撤去を承知するよう説得させただろう。
 そうすれば、日本は核撤去の代償に、どれだけのものを得られたことか。

 この話は、日本の保守政権が、まだまだしっかりしていた時期におけることだけに、考え込まずにいられません。

 ブレジンスキーは、日本を「被保護国」といったことについて、日本を侮辱しているとして非難される。確かに、日本をモナコやアンゴラ並み扱っているわけだから無理もないが、しかしよく考えてみると、彼は如何に日本の現状を正確に捉えていることか。(ブレジンスキー侮るべからず。)

 モンデール大使が、尖閣列島がもし攻められたとき、アメリカは日米安保を適用しない、といった廉で非難する向きがあるが、それも、モンデール氏の言うことが当然ではないか。何となれば、尖閣列島は日本の領土、それは日本人が守るべきものであって、そのためにアメリカが血を流す筋はない。

 上記2点は、先生の何とも痛烈な逆説、しかもハッとさせられる指摘です。

 台湾問題。
 馬英九は、天安門事件を非難している。(チベット問題で北京を非難したことは周知の通り。)
 宮崎正弘さんが、馬英九はアメリカの意向に忠実に沿っている政治家であり、北京に靡くことはない、と補足。
 西尾先生から、馬英九は大丈夫、と聞いて安心した、というコメントがありました。
 馬英九に対して北京は表だった批判はしにくい関係にあるわけですから、日本としては、有力政治家・政府関係者が非公式に接触する機会を多くもち(しかも正式就任以前には出来るだけ大っぴらに接触し)、日台関係強化の既成事実を積み上げるチャンスとすべきではないだろうか。

 アメリカ大統領選挙について。
 民主党候補はオバマにほぼ決定。
 レーガン的=ブッシュ的な、善悪判断(モラル)に立つ保守派で、ストロング・ジャパン派の共和党マケイン有利、という先生の「希望的観測」は、みんなを喜ばせ力づけてくれましたが、アメリカの選挙結果の如何を問わず、ストロング・ジャパンへの歩みを強めなければならないことは、言うまでもありません。

 最後に、日米同盟といえども、それは「政略結婚」。同盟関係に「恋愛結婚」はありえない、という指摘。
 その上に立って、先生が日頃強調されている、「民主主義、人権、法の支配」という「日米共通の価値観」という考え方に、私は全面的な支持を送りたいと思います。
 日本人が命をかけるべきものは、日本の歴史と伝統、日本文明の中にあるのであって、日米共通の価値観とは、その一部・その表層に過ぎないことは当然です。しかし、表層的とはいえ、価値観における共通性の意味は重要である。
 アメリカにしても、その共通価値観にそれほど忠実であるとは限らない。その場合、日本として、逆にアメリカにその共通価値観の遵守を迫ることが重要である。(特に、アメリカの対中・対北朝鮮宥和が前面に出たり、台湾の自立を抑制しているような今日において。そうしてこそ、初めて対等な同盟になりうる。)
 その「共通価値観」の延長上にあると思われる、麻生さんの提起した「自由と繁栄の弧」といったスローガンは、その内容実体は兎も角、中華帝国正面に対峙する我が国の戦略的立場を支えるものとして、過小評価してはならないと考えます。

 順序は前後しましたが、西尾先生のお仕事について。
 「GHQによる『焚書』図書」の出版については、日録でも報じられていますので省略します。6月には出版されるそうなので、待ちたいと思います。
 それに関連して、田久保先生が、先のお話の中で江藤淳氏に触れています。
 アメリカで『閉ざされた言語空間』の執筆準備期間中のこと。GHQの憲法案起草の中心人物・ケーディスに面と向かって、言論統制について非難の言葉を浴びせた時、その場に立ち会ったのだそうです。そのときの江藤さんは本当に偉かった、尊敬している、とおっしゃいました。

 西尾先生のお仕事は、常に政治と関わりを持ってきました。これからもそうでありましょう。
 高校時代にも、哲学・文学を目指しながらも、「講和条約の欺瞞性」といったレポートを書いて、「一般社会」(社会科の一科目。)の先生にほめられた、というエピソードを、ご自分から紹介されました。
 思想と政治、その関係、西尾先生にとっても坦々塾にとっても、それは今後とも、引き続き重要問題でありましょう。

 懇親会は、初めて立食パーティ形式。アッという間の充実した2時間でした。
 ただ、私としたことが、このようなレポートを準備する立場にありながら、田久保先生にご挨拶もお話もせずにすませてしまった失礼が、心残りでありました。

 次回は8月、再会を楽しみにしております。

 おわり

文:等々力孝一

坦々塾報告(第九回)(二)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 次に、小川揚司さんのお話です。

 小川さんは、冒頭、正面の田久保先生に、外交・安全保障問題の権威であられる田久保先生の前で、このようなお話が出来ることの光栄を述べ、田久保先生はそれに応えて頷いておられました。

 小川さんの話のレジュメは、

 1.防衛庁・自衛隊での勤務の経歴
 2.防衛省・自衛隊が抱える根本的な問題点
 3.防衛政策(防衛構想)の根本的な問題点

 と、大項目が並んでいますが、時間の関係で、第1項・第2項は省略し、第3項の話をするとのこと。(おやおや、本当は、第1項からの、生の話を聞きたかったのですが。――これは陰の声。またの機会もありましょう。)
 
 因みに、小川さんの入庁は、三島事件の翌年。「事件」に感じて教師になる道を捨て、入庁された由、憂国忌に参加したときにチラッと聞いた覚えがあります。防衛庁の反応の冷淡さ、自衛隊は一体どうなっているんだ。小川さんの苛立ちやフラストレーションが、レジュメの簡単な文面からも伺い知ることができます。

 小川さんは、防衛政策・防衛構想の根本的問題点に入る前に、自衛隊の根本問題として、普通の主権国家の軍隊において当然とされている、法的に「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」という禁止項目(ネガティブ・リスト)を列挙して、それ以外は何をしても良い(「原則自由」)という方式(「ネガ・リスト方式」)を採用せず、「これはしても良い、あれはしても良い」という、行うべき項目(ポジティブ・リスト)を列挙し、「それ以外のことはしてはいけない」とする方式(「ポジ・リスト方式」)を採っていることを指摘しました。
 
 これは、去る4月28日、九段会館で行われた「主権回復の日を祝う会」(井尻千男・入江隆則・小堀桂一郎の三先生の呼びかけで、毎年この日に開催している。)で、田久保先生が、この場で防衛問題について、ただ一点だけ述べたいとして発言なさったことであり、小川さんはそれを引用される形で、問題点を指摘しました。

 つまり、自衛隊は、この点において「軍隊」ではなく、「警察」同然の縛りを受けている、というわけです。

 小川さんは、入庁10年目(昭和55年4月)にして、内局防衛局の計画官付計画係長に就いた時、警察予備隊から自衛隊誕生に至るまでの内部資料の原本を整理する機会に恵まれ、それが問題意識をもつ契機になった、ということです。

 その小川さんが語るには:――

 戦後、GHQの占領政策が転換、日本の再軍備が認められ、その建軍の基礎を何処に求めるか、となったとき、旧軍の幹部達はほとんど公職追放になっており、その上徹底的に旧軍を嫌っていた吉田茂の下、GHQの意向にも沿いながら、旧内務(警察)官僚を起用して警察予備隊を建設した、

というのです。

 彼らは優秀な内務官僚ではあったが、やがて旧軍幹部の追放も解除され、警察予備隊・保安隊に配属されるようになったとき、前者は内局の背広組、後者が制服組(幕僚監部・部隊など)になるという構図が形成された。そこから、我が国のシビリアン・コントロールが「文官統制」の意味に矮小化され、偏向されていく。

 
 なるほど、自衛隊を巡る宿痾は、建軍当時に遡る・極めて根の深い問題だと分かります。

 やがて、我が国の防衛構想・防衛計画の具体化が図られ、自衛隊の規模や装備の充実が求められます。

 しかし、憲法の制約があり、その制約を当然のこととして受け入れているマスコミ世論や野党から、再軍備反対や非武装中立が大声で叫ばれ、また経済的にもまだ充分な力を持っておらず、財政規模も小さかった当時において、充分満足のいく防衛計画が策定できなかったとしても、それはやむを得ないことでしょう。

 けれども、小川さんの話を聞いているうち、エッと耳を疑うような言葉が聞こえてきました。

我が国の「本当の脅威」に対処できる「所用防衛力」なんて、予算上不可能ですよ。だから、「そんな脅威」は無いことにしましょう。 

 予算上実現可能な防衛力で「対応出来る脅威」のことを「実際の脅威」といいましょうよ。

 まあ、言葉は正確ではありませんが(実際にはもっと多くの専門用語で説明されていたので)、私が率直に理解した限り、ざっとこんな理屈です。昭和50~55年頃のことのようです。
 「平時」にはそれで何事もない。「本当の脅威」が問題になるなんて滅多に起こらないことだ。(それは「政治的リスク」だ。)
 
 防衛庁と大蔵省(いずれも当時)の間で、ざっと、こんなふうに了解したというのです。

 いくら何でもこれはひどいんじゃありませんか。

 私たちは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」なんていう脳天気な憲法をもっているから、防衛計画もなかなか進まないものと思ってきた。しかし、防衛の実際の掌に当たる、その中枢の人たちがこんな考えだったら、どうにもならない。
 
 多くの国民が、「平和憲法」のお陰で平和が保たれた、と誤解し、周囲の国際情勢に眼をふさいでいるというのも、所詮、防衛所轄当事者の意向(希望?)に沿った結果ではないのか、といいたくなります
 
 「軍事的合理性」を犠牲にした「政治的妥当性」との整合を図った苦肉の策。

 一般に、こんなふうに表現されているようですが、確かにそれは言い得て妙かも知れませんが、小川さんの尊敬する元統幕議長・来栖弘臣氏の喝破しているところを、正面に据えるべきでしょう。すなわち:――

世界にも歴史的にも通用しない空論。
謂わば「日米安保」を魔法の杖と考えて、吾が方の足りないところは呪文を唱えれば幾らでもアメリカが援助してくれるという大前提での立論。
基盤的防衛力でカバーしていないところは政治的リスクであるといって逃げる無責任な議論。

 これらの話を聞いて、日本は「被保護国」だ(この言葉は、後ほど田久保先生のお話の中にも登場します。)と、よくいわれるが、初めてその本当の意味が分かったような気がします。

 小川さんには、退職されて「野に放たれた」のですから、そんな無責任防衛論に縛られることなく、歯に衣着せぬ「防衛の語り部」になって頂きたい。

 「政治的配慮」やマスコミに通用するような、オブラートに包んだ物言いではなく、リアルに率直に、防衛問題を生の言葉で語って頂きたい。

 それも一人ではなく、志を同じくする防衛問題の専門家を巻き込み、連れだって。

 数年前、民主党の前原誠二氏が中国の軍事的脅威について触れたとき、集中砲火を浴びたことがありますが、今日では、幸いにも(!?)その脅威はより明らかになっています。反対勢力も依然として強力だとしても、多くの国民の理解を得やすい状況が拡大しています。

 国防の精神を、倦まず弛まず、強力に説き続ける集団が無くては、国家主権の回復・再興などあり得ません。
 

 集団的自衛権の行使、
  武器使用基準の国際標準採用、
  主権的判断による自衛隊の国際協力に対する一般法の制定、
  非核三原則・武器輸出三原則(注)・専守防衛論等の見直し乃至は廃止等々、
   (注)「武器輸出三原則」:本来は、「共産圏諸国・国連決議により武器等の輸出が禁止されている国・国際紛争の当事国又はそのおそれのある国」に対する武器輸出を認めないという原則。
 三木内閣の時代に、上記地域以外の国に対しても、武器輸出を原則的に行わないよう拡張解釈されるようになった。
 中曽根内閣の時代に、同盟国アメリカへの武器技術供与を例外として認めることとし、現在に至る。

 これらを全て進捗させるには、専門家の技術的対応だけでは全く不足で、国民的防衛意識の昂揚が不可欠です。まして憲法改正についてはなおさらです。

 まあ、釈迦に説法みたいで恐縮ですが、これも小川さんのお話に触発された結果としてご了承下さい。

 必要防衛力整備を、予算不足を理由に怠ったり、削除したり、ましてや財政再建の犠牲にするなどとは、もってのほかです。防衛費をGDPの1%程度に抑制するなどという規制を見直し、諸外国並みの2~3%に増額することについても、決してタブー視すべきではありません。

 予算なんて、政府がお札を刷ればよいのです。いや、これは政府の貨幣発行大権(セイニアリッジ)といって、長年黙殺され、封印されてきたもので、こういう安直な言い方は絶対すまいと思ってきたことなのですが、そして、それを主張しているマクロ経済学者の方々が、気安くそのような言い方をすることが、却ってそれが黙殺され封印される原因の一つになってきたと考えるのですが、簡単に分かりやすくするために、敢えて安直な言い方をしました。

 本気で国家主権を再興しようとするならば、お金なんか後からついてくるのです。(かつて春日一幸さんが「理屈は後から列車に乗ってやってくる」とか言ったのを思い出しました。)

 いずれ別の機会に論ずべきことでありますが、今日すでに、経済・財政、保険・医療、公共事業や農林漁業、税制や地方自治、その他さまざまな国家の根本を解決するには、セイニアリッジの発動しかないところに来ていると考えますので、敢えて踏み込みました。

 さらにもう一つ、かつて西尾先生が雑誌の座談でリニアモーターカーの建設に言及したのを把らえて、財政危機を無視した経済知らず、と知ったふうな非難をする無礼かつ軽薄な輩が日録に舞い込んできたことがありましたが、そのような「反論」にあらかじめ釘を刺しておく、という意味も込めてあります。

文:等々力孝一

坦々塾報告(第九回)(一)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 70歳

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 坦々塾の勉強会も第9回を数え、間もなく発足してから2年を迎えます。不肖私は「日録」を愛読し、投稿していた関係でご案内を頂き、初回より参加して今日に至っております。この2年弱の期間は、アッという間に過ぎたには違いないのですが、坦々塾の勉強会に参加して開かれた視野の拡がりからは、もっとずっと長い時間の壁を通り抜けてきたような気が致します。
 
 今回の勉強会は、過去8回のどの会よりも熱気に満ちていたように感じられます。いや、どの会とて、熱気に欠けたことなどはないのですが、今回は特にそれが外に向かって放射していたように思われるのです。

 西尾先生のお仕事が、多かれ少なかれその時々の勉強会に影響するのは当然のことですが、このたびは雑誌『飢餓陣営』に発表された「三島由紀夫の死と私」、同じく『WILL』に連載された「皇太子殿下へのご忠言」、そして前々回の勉強会で講義頂いた萩野貞樹先生の急逝と、大きな衝撃が相次ぎました。それらについて、「日録」にも紹介され、コメントも掲載されたので、お読みになった方も多いと思います。

 さらに、3月10日、チベットにおける僧侶・市民のささやかなデモに対する中共政府の無慈悲で血腥い弾圧のニュースは全世界を駆け巡り、五輪聖火に対する抗議の嵐を巻き起こしました。

 我が国においても、善光寺が聖火の出発地点となることを辞退する一方で、長野市内には数千本の赤旗が林立するという、かつての都内におけるメーデーでさえ滅多に見られなかったような異様な光景が現出しました。

 そのような情勢下に、胡錦濤が国賓として来日したのですから、連日「フリーチベット」を叫ぶ抗議の集会・デモが繰り返されたのは当然のことでしょう。従来は、数百人程度の集会・デモならば黙殺したであろうマスメディアも、今回ばかりは、多少控えめではあっても報道せざるを得ない状況になっていました。

 第9回の勉強会は、そんな胡錦濤が離日する10日に予定され、
①、西尾先生の「徂徠の論語解釈は抜群」
②、37年の防衛省勤務を定年退職された坦々塾メンバー小川揚司さんの「吾が国の『防衛政策』変遷と根本的な問題点 ――防衛事務官37年間の勤務を通じて痛感したこと――」
③、田久保忠衛先生の「最近の国際情勢と日本」
というテーマが決められていました。どのテーマをとっても現今の情勢の直面する課題と切り結ぶものばかりで、いやが上にも10日の勉強会は待ち望まれるところでした。

 そこに、さらに決定的な一打がもたらされました。

 西尾先生の大学時代の同クラス以来のおつきあいで、坦々塾メンバーの粕谷哲夫さんが、初めての中国旅行から帰ってきて、その報告の文章が寄せられたので、先生の「徂徠」の持ち時間を粕谷さんの中国旅行の報告に回したい、というメールが配信されたのです。

 先ずは、先生の熱い言葉をお聞き下さい。
 

私は「これだ!」と叫びました。粕谷さんの文字に驚きがあり、感動があります。是非彼の生の声で生の話を聞きたいと思いました。

 宮崎(正弘)さん、桶泉(克夫)さんという二人の中国専門家、高山(正之)さんという人間通と一緒の旅で目にし耳にするものが新しく、心が震えています。

 プラトンが「驚き」(タウマゼイン)こそ知の始まりと言った、そのような新鮮な感覚の消えぬうちに、彼が専門家ではないからこそ、彼の見聞を語らせたいのです。

 願わくば、あと5日、余計なものを読んだり、見たりしないで欲しい。感じたまゝ考えたまゝ、見聞きしたまゝを語って欲しい。

 粕谷さんの「報告」というのは、

昨夜 無事 中国・湖南省の旅から帰国することが出来ました。
強行軍でいささか疲れました。
見ると聞くとは大違いというか、今まで想像だにしなかったことを いろいろ見聞したいへん有意義でした。

と書き出し、以下A4版2枚にびっしりと感嘆の言葉が記されています。(このコピーが当日の粕谷さんの話のレジュメ代わりになりましたので、以下この文書を『レジュメ』ということにします。)

 さて、10日当日は、その粕谷さんの話から始まります。50人分に近い机と椅子が教室風に整列された部屋に、皆さん心なしかいつもより緊張した面もちで着席し、粕谷さんの話に耳を傾けました。

 始まって間もなく、早くも田久保先生がお見えになり、最前列の西尾先生と並んで以後の話をともに聞かれることとなりました。

 今回の粕谷さんの旅行は、昨年から始められた一連の中国旅行企画の第2回目で、「中国歴史・愛国主義教育基地探訪」というテーマです。4月26日に東京を発ち、上海を経て武漢に入り、翌日以後、長沙から湖南省各地を回り、5月3日長沙に戻り広州に飛び、翌4日帰国という、1週間超の旅程です。
 
 スケジュールによると、毎日4~5カ所以上を汽車や車で周遊移動し、見学するという、可なりの強行軍であったことが分かります。

 世界数十カ国以上、何百回となく海外渡航をされた粕谷さんが、中国に限って初めてというのは不思議に思っていたのですが、冷戦時代の商社の仕事は、旧共産圏については「東西貿易」という特殊な機関を通じて全く別の担当者が当たっていので、中国に限らず旧共産圏には足を踏み入れる機会がなかったとのこと。――納得。

 粕谷さんが、西尾先生の希望通り5日の間、これというものを読んだり見たりせず、帰国直後の状態を保持してきた、その思いのままを、1時間にわたって語ってくれました。その迫力を、私の筆力ではとても充分に伝えることは出来ません。
 
 粕谷さんのレジュメの躍動した表現を紹介しながら、私の感想を述べることで替えさせて頂きたい。それによっていささか陳腐な表現に陥ることになるかも知れませんが、どうぞ、お許しの程を。

 レジュメの冒頭は次のとおりです。

広州の里子取引(人身売買市場)(宮崎さんも現場を見るのははじめてと)。
文化大革命の負の遺産を捨てきれない中共の悩み。
それにしても影の薄い胡錦濤。
蒋介石と国民党は中国共産党に都合よく利用されている。

 広州は旅程の最後。その高級ホテルのロビーで公然と里子取引=人身売買が行われているとのこと。引き取り手(里親)は、中国人のみならず、欧米人も含まれているらしい。必要とあれば近くの医師が健康診断?もしてくれるようになっているという。
 
 そればかりか、それ以前の移動中にも、人骨の陳列、人骨売買・死体の取引らしきものを目撃しているというのです。
 
 そのような驚くべき中国社会の現実を、粕谷さんは、中国社会の「下半身」と呼びます。勿論、下半身があるからには上半身もある。上下両方を見る必要がある、と粕谷さんは言います。
 
 上半身だけを見て「友好」を唱える有識者・マスコミ・政治家達は大甘だ、ということです。一般論として分かり切ったことであっても、現地を見て改めて実感した上では、言うことの迫力が違います。

 世界各地を広く見聞してきた粕谷さんは、中国の下半身についても相対化してみることが出来ます。
 
 例えば、中国のトイレは、汚いことは汚いが、インドネシヤはジャカルタの中心部においてさえ、高いところから海にウンコを落としているのとどっちが汚いのか、と言います。
 
 一方、インドの汚さも、衛生的な不潔の意味では中国と変わらないが、ただ、宗教的な穢れ(けがれ)を嫌うという規範があるが、中国の汚さは、衛生的に汚いことは勿論、宗教的・道徳的な規制を全く欠いた汚さだ、ということです。

 武漢の街が本当に汚いとも、嘆いています。

 再び、レジュメの一部を引用します。

人口の都市集中は 休耕田を増やしている、意外に多い休耕田。
車窓から見る武漢⇒長沙の田園風景は唐詩の情感を誘う。
毒餃子事件は中国製品輸出拡大阻止を企てる外国製造業者の妨害行為という庶民認識。
紅衛兵は毛沢東をどう見ていたか、四人組逮捕直後の紅衛兵たちの歓喜⇒市中の酒・爆竹はオール売り切れになった。
紅衛兵の熱狂狂乱とその後の冷却、そして4人組み逮捕時の興奮は、チベット/オリンピックの愛国熱狂も同じパターンならん。
紅衛兵の破壊活動はタリバンと酷似、紅衛兵は交通費タダ・食事宿泊タダ。

 中国の高速道路は立派なもの。その建設投資は海外の華僑富豪の手によっているが、決して愛国的意識で投資しているわけではない。手数料収入で30年回収ということになっているが、実際はもっと短期回収のカラクリがあるという。ちゃっかりカントリーリスクを計算しているわけです。日本人の投資とは全く違う。(台湾人の場合はどうなのだろうか。――筆者の疑問。)

 粕谷さんは、フライング・タイガーズに関する展示に特別に関心を寄せられたようです。
 
 フライング・タイガーズとは、蒋介石軍の一翼として、米国の退役軍人シェンノート将軍(支那名:陳納徳)のもと、米国製戦闘機カーチスP-40(この戦闘機の通称がフライング・タイガー)数百機で編成された空軍部隊(飛虎隊)。義勇軍ということになっているが、歩兵部隊ならいざ知らず、戦闘機百機単位の部隊が米政府の支持・承認なしに派遣できるわけがない。昭和16年4月(つまり日本の対米宣戦布告の半年前。)には、ルーズベルトが秘密裏に調印していたという。
 
 粕谷さんは、戦時中・少年の頃、P-40のことなどよく知っていた、と半ば懐かしそうに語っておられたが(緒戦の頃は、日本の零戦の方が強かったようだ。)、内心、沸々たる怒りをたぎらせていたに違いない。
 
 「真珠湾攻撃を不意打ちだのといって非難するが、これは国際法の中立義務に対する公然たる侵犯である。」
 
 米中の、このような卑劣さは一部で指摘されては来たのだが、それが「抗日戦争」の一環として堂々と展示されているとすれば、その厚顔さに呆れるよりは、日本人を舐めきっているそのことに、怒りを新たにしなければならない。

 さて、話は尽きませんが、レジュメのうち、2~3を引用してこの辺で筆者の報告を締めさせて頂きます。
 
 粕谷さんの、その人柄を通じて、このたびの体験が、きっと多くの日本人に影響を与え、拡げていくことを期待し、また確信しています。

チベットと新疆で中国政府はどうすればいいのか分からず困っている模様。
反日・抗日宣伝には 蒋介石・国民党を肯定することなくしてはありえない中国共産党の矛盾。
中国共産党員には簡単にはなれない⇒大紀元の党員脱党の過剰な報道はウソ・・・・・共産党員の特権をすてるはずがない。

 なお、このたびの旅行には、坦々塾メンバーの鵜野幸一郎さんも参加しており、その感想を述べています。その要点は、――
 ① 世界は悪意に満ちている。特に米中共同。(例:フライング・タイガーズ)
 ② 裏社会と表社会の連続体。net社会に対するウィルスばらまきの脅威。
 ③ 裕福な中国人が、自国を嫌って海外にますます出てゆこうとしている。

[追記]
 坦々塾の翌々日(一二日)、中国四川省でマグニチュード7.8大地震が発生。
 地図でみると、湖南省長沙と四川省成都とは直線距離で800キロはありますから、粕谷さんの行かれたところには被害は及んでいないでしょうが、被害の規模は見当がつきません。
 犠牲者にはご冥福を祈念し、被害者にはお見舞いを申し上げます。
 この大地震が、中国情勢をさらに複雑なものにすることは、疑いありません。

つづく

文:等々力孝一

坦々塾報告(第八回)

 伊藤悠可
坦々塾会員 記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 坦々塾(第八回)が二月二十四日に開かれました。この日は朝から春嵐が吹き荒れ、首都圏の多くの鉄道が運休するほどの強風で、会場にたどりつけない遠方の方々もおられました。二カ月に一度お目にかかる機会を失い、残念です。

 渡辺望さんが前回、坦々塾の由来を詳しく書いて下さいました。今回は、実質的にはことし最初の坦々塾のご報告を申し上げます。

 思いがけない季節風の到来で、この日の予定は変更を余儀なくされました。前半前段に予定していた西尾先生の「徂來の『論語』解釈は抜群」(第三回)はお休みし、約一時間半、サブプライム問題に端を発するアメリカの金融不安と中国、日本の運命について、同先生の講義をいただき自由討議を行いました。このテーマは、『Voice』四月号の[特集 日本の明日を壊す政治家たち]のなかで『金融カオスへの無知無関心』と題する論文で詳しく書かれ、まもなく本質的な課題を世に問われます。

 後半二時間は、宮脇淳子先生が「モンゴル帝国から満州帝国へ」という壮大なテーマで講義下さいました。宮脇先生は『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』『モンゴルの歴史』『中央ユーラシアの世界』などを著された方で、従来の東洋史の枠組みを越えて中央ユーラシアの視点に立った遊牧民の歴史と、総合的な中国史研究で知られています。

 西尾先生の講義は、私たちに新たな課題を投げかけられました。私たちが有している日常の糟粕的知識のかたまりをここで捨て去って、もう一度、世界を日本を凝視してみなさい、という意味での新しい課題です。むしろ態度と言って良いかもしれません。

 西尾先生が最近、「金融は軍事以上に軍事ですよ」と口にされているのを私たちは知っています。政治、外交、軍事、教育、その他先生の視野はどこにでも及びますが、先生は経済という漠然とした対象ではなく、いわゆる企業経済人が商売の範囲で語っている経済・市場各分野の部品的知識の集合ではなく、現代の金融というものを論じられました。私には「国家の生殺与奪を握る金融」という重大な意味で迫ってきました。

 米国に端を発した「サブプライムローン問題」があります。それが世界に金融不安の波紋を広げていることは、私のように新聞的常識しか持たない人間でも関心が及びます。けれど、こうした問題に深く潜んでいる真実の像をとらえようとはしません。サブプライム以降に生じているさまざまな世界の変化には、当世のエコノミストが相変わらずその場しのぎの安心・不安両面からの批評や観測をしています。日本は上から下まで無定見を自ら許して気にかけることはないように見えます。

 米国の危機は本当なのか、ドルの基軸通貨の地位は存続するのか転落するのか、〈デカップリング理論〉なるもので中国は安定を続けるのか、バブル崩壊は間近なのか、そもそも米国という国が仕掛け動かしているのか、それともいわゆる国際金融資本という存在が後ろから揺り動かしているのか……。これらについても単眼的な一つの常識的技術の按配でみることはできないし、予見もまたむずかしい。

 しかし、複雑でむずかしい現実に対して、私たちはどのような見方をしているのかというと、日頃私たちが批判しているテレビ画面のエコノミストたちの世界把握とさして違わない。

 私自身も、サププライム禍は欧州を襲ってひどいことになっているが、日本は偶然手を出していなかったから助かっているという記事を読んで、どこかで安堵していたり、また中国のような国の繁栄を決して歓迎しないが、中国経済が一瞬に崩壊すると、アメリカの足腰はもう立てないだろうから、日本はさらに困るというふうに連想ゲームのように心配してみたりしている自分に気がつきます。つまり、米国が駄目なら中国がある、中国が駄目なら米国があるという大変無責任で甘い観測をしていることになります。

 先生は、それがダメだと言います。どうして世界を現実を堂々と見つめないのかと言うのです。金融や経済に限りません、われわれは好きな一つの現実を取って、現実そのものを見ないという誤りをしている。それを指摘されました。

 先生は八十年代に立ち寄られた英国で、英国人が抱く勤労感や立身のすえの自己理想像から、この国の〈金融優位〉というべき生き方を看破する体験を話されました。産業革命の発祥地の人々が、実は非産業資本主義を骨の髄から嗜好し標榜していることを私は初めて知りました。驚きです。驚きと同時に、わかったつもりでいる常識的見地がどれほど当てにならないものかと考えさせられます。

 毒ギョーザ事件から私たちはスーパーでまじめに商品を選択します。けれど、その他のことはたいがい無防備無定見になりがちです。過去に遡って原因を疑ってみることもしません。不愉快な事を回避、忘れたいという傾向が働くのです。知的にも勇気のない態度だから、「日本はこんなふうにさせられてしまったのか」と地団駄踏んでいる。私も地団駄ばかりです。

 日本人は貿易立国だと胸を張っていましたが、今では所得収支が貿易収支を上回ってこの国はファンド化への道を皆で歩いています。これは言い換えると「ものづくり」は「ファッド」に勝てないということでしょうか。構造改革というのは先生によると、日本人の人体の強制的解剖にも似た暴虐な行為なのですが、なぜか詐術的手術で冒された患者のほうがアメリカに協力し、もっと真剣にやろうと掛け声をかけています。

 日本を内部から壊してこれまでと違う日本をつくろうと米国が動き出したのは八〇年代に遡る。抵抗するどころか率先してそれに協力し、その後、日本と日本人がどうなるのかについて一瞥もしなかった政治家がいたという地点から、すでに日本の自己喪失が始まっていたということに気づかされます。

 「金融は軍事以上に軍事」というからにはそこに国家が生きていけるかどうかという生殺の岐路がかかっているということです。世界がとっくに戦略兵器とみなしている。この金融と経済を論じなければいけないと先生は諭されます。私たちは習慣的に「それは経済の問題だから」と言いながらそれはその領域の問題として取り扱っています。以前にも先生は「経済を正面から論じられない知識人が多すぎる」と嘆かれたことがありました。

 一つの好きな現実を見て現実そのものを見ない態度。それでは戦えないということである。講義のなかで幾度か「われわれ自身の眼に問題がある」と先生が指摘されたことは極めて重要なこととしてわれわれ自身が受け止めなければなりません。

 金融は軍事、それは軍事以上の軍事。一度、身震いしてみることが大切な言葉であるとさえ思っています。

 帰って翌日、私はこんな昔の記事が自宅の書棚にあったのを思い出しました。昭和四十七年の文藝春秋十月号「中華民国断腸の記」で紹介されている蒋経国(当時、中華民国行政院院長)の発言です。

 「共産党はコトバをわれわれとまったく違った解釈で使います。わたしたちには戦争、平和、協力、対話、文化交流、相互訪問、親善、そういったコトバがいろいろありますが、かれらの解釈は、戦争は戦争である。平和も戦争である。対話も戦争である。友好訪問、これも戦争で親善もまたしかり、これを総称して、わたしたちは『統戦』と呼んでいます。目的は一つ。すべてはいろいろな策略、方式をもって自由国家に入り込み、浸透、転覆、社会体制をひっくりかえし、経済を攪乱し、最終的にその国を赤化するという唯一の目的からきているのです」

 この文中の「赤化」というところを今、「支配」「操縦」「隷属化」と変えてみれば、今でも全然、文章が色褪せているとは感じられません。「その国」というのを「日本」に置き換えて見ると、そのまま自然に当てはまってしまう。米国は、中共ではないが、ほとんどこの「コトバの解釈」は同じであろう。日本だけは「戦争」以外は全部「平和」もしくは「平和のため」と言ってきました。おそらく「金融も平和である」と考えてきたのです。

 

 後半は「モンゴル帝国から満州帝国へ」と題して宮脇淳子先生からお話をいただきました。

 壮大でスケールの大きい視野でモンゴル論を展開されました。「世界史はモンゴル帝国から始まった」という題名がそれを示唆していると思います。刺激的で新鮮で、場面転換の速いスペクタクルを見せられているようなお話でした。想像力を駆使しました。

 私自身、高校までの世界史の雑知識しかありません。今でも内陸の貧しく広い国、朝昇龍の国といった一般のイメージを脱しません。モンゴル帝国が東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸を一つにした。そこまではわかりますが、歴史的にはモンゴル帝国を〈親〉とし、その〈子孫たち〉が中国やロシア、トルコなどであると説かれたので驚きました。先生が作成された継承図をつぶさに見て納得がいきます。

 冒頭から高校生以前の知識で素朴な疑問を発したくなりました。それを次々と説明のなかで氷解させてくださったので大変面白い。遊牧各部族には系図がない。チンギス・ハーン一族だけが大事であって、それ以前はない(無視されている)ということになっている。十三世紀以前は、旧世界とされているそうです。確かにユーラシアの国々はチンギス・ハーン一家と呼ぼうと思えば呼べるわけです。先生が仰った「チンギス統原理」という一族の男系だけが皇帝になれるという掟が働いています。

 欧州の考え方は「世界は移転する」「興亡がある」というものだが、中国はよく言われるように「天命」が支配し、「皇帝は天命が決める」ものです。先生はこうも言われます。「マルクスは内在的要因から世界は変化を起こす」と言ったが、ユーラシアの視点では「外からの刺激によって世界は変化した」というべきだと。

 遊牧民に土地所有の観念がない。大草原があって常に移動する。坪当たりの地価など思いつくはずもありません。財産は家畜と人間。私は途中で、どのように戦争をしかけ征服し続けられたのか、というまた素朴な問いが起こりました。ふつう戦争で勝利しても次には統治という永続的課題に悩まされるからです。しかし、ここでもモンゴル帝国の大雑把に見えて、実に有効な決めごとがありました。君主は掠奪品(戦勝品)の公平な分配を実施すること、部族内の紛争処理能力を持っていることが求められる。

 ところで、彼らはなぜ強いのでしょうか。征服をしたその土地の部族を支配下に置く。彼らは次の戦争でその部族を率いて戦う。フビライが発令した日本征伐、蒙古襲来のいわゆる「元寇」のときも征東軍には満洲生まれの高麗人が多く含まれていたと『世界史のなかの満洲帝国』で説いておられます。私はもとへ戻って、なぜ戦争が上手なのかということに興味を持ちました。ヨーロッパまで押し込んで勝った「遊牧民の兵法」といった研究があるのでしょうか。個人的興味です。

 先生によると、彼らにとって戦争は「儲け仕事」であります。「勤務」として理解すると、彼らの強さも磨かれるだろうという想像が成り立ちます。また遊牧民は自然、天候を他の誰よりも掌握し、活用する知識や勘を持っていたのかもしれません。

 掠奪した品を山分けする。また戦後はきっちりと取り分の税金を徴収する。統治と交易面では、幹線道路の一定距離ごとに「駅站」を置き、ハーンの旅行為替(牌子)を持たせて「駅伝制」を敷いたというお話でした。また、征服しても宗教に対して優劣をつけず、平等に扱っていたということも、なるほどという気がする。集団への内政干渉から生まれる新しい葛藤を引き起こさないで済みますから。

 モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、陸上貿易の利権を独占してしまいましたが、その外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人だけが活路を求めて海上貿易に進出したとされます。スペイン、ポルトガル、イギリスなどが侵されなかった海洋帝国とみると、世界はモンゴル帝国を指し、そのほかに例外の国があっただけになります。日本は例外の国で、世界と関係がなかったというところに、当時の思いを馳せてしまいます。

 元朝の中国支配、北元と明朝について触れられ(講義時間の都合もあり)、最後に日本人とって密接な「満洲」についての基礎的講義がありました。満洲はもともと地名ではないということ(「洲」の字のサンズイに着目)、清の太祖に諡号を贈られたヌルハチが、女直を統一した際に「マンジュ・グルン」と名付け、彼の息子ホンタイジが女直(ジャシェン)とい種族名を禁止し「マンジュ」(満洲)と解明したのがはじまりだと教えてくださいました。

 満洲(マンジュ)は文殊菩薩の原語「マンジュシェリ」から来ているというのを聞いたことがありますがそれは誤りだそうです。歴史の上では、転訛というものとは関係なく、風聞が固まるという意味での発明もあるという一例かもしれません。

 満洲という地名は高橋景保がつくった地図(1809~1810)にはじめて登場し、これがヨーロッパに伝わり「マンチュリア」になったと言います。日清日露の背景を語られ、辛亥革命から清朝崩壊、ロシア革命と中国のナショナリズム誕生から満州事変、満洲国建国、そして満洲帝国の成立までを説かれましたが、「満洲」だけでも別に集中講義を所望したいほどのボリウムでした。私自身、歴史の基礎的な素地を欠く〈生徒〉であり、基礎勉強を怠ってお話を受けるのは申し訳ないことである、と率直に感じ入りました。

 宮脇淳子先生は著作『世界史のなかの満洲帝国』のはしがきでこう書いておられます。

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宮脇 淳子

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 「歴史学は、政治学や国際関係論とは違う。歴史は、個人や国家のある行動が、道徳的に正義だったか、それとも罪悪だったかを判断する場ではない。また、それがある目的にとって都合がよかったか、それとも都合が悪かったかを判断する場でもない」。眼睛に清涼を覚えさせられる言葉だと思います。

文:伊藤悠可

坦々塾・新年の会

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渡辺 望 35歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了

  この日録でも幾度か紹介されていますが、西尾先生を囲む坦々塾という研究会が年に4回のペースで営まれています。

 西尾先生が参加されていた「九段下会議」が解散した後、最後まで会議に残ったメンバーの中で、西尾先生の周囲で志を同じくする13人の有志が、これからも先生を囲み勉強研究を続けたいと希望しこの坦々塾は結成されました。その後、西尾先生とその有志の努力によって会は大きく拡大し、私のような者も、その末端に加えていただくことができました。現在、メンバーは50人を数えるに至っています。

 休日の午後の早い時間に集まり、まず西尾先生の講義、そしてその後、外部から講師の先生をお呼びして講義していただき、それをもとにして討議を重ね、いったん散会したのち懇親会に移行して夜遅くまで談論風発する。これが、坦々塾の会の毎回の基本的なスケージュールです。
 
 1月12日の坦々塾の会は、当初、新年会のみをおこなう予定でした。しかし新年会のみをおこなうというのはいかがなものか、新年会の前に勉強・討論の時間を入れようということになりました。西尾先生以外の講師を坦々塾の中から選んで、諸氏が取り組んでいる問題について報告・そしてその報告に基づいて坦々塾の皆さんで討議するということになりました。

 当初は40人以上の参加が見込まれていましたが、予定変更などで残念ながら参加できない方もあり、参加者は35名ということになりました。  

 一言で言うと坦々塾は「混成部隊」と言っていいように私は思います。19世紀のイギリスの思想家J・S・ミルを評して「・・・J・S・ミルという人は何々学者と呼ぶのが困難な人であった・・・」という加藤尚武の言葉があり、私は加藤のこの言葉がとても好きなのですが、坦々塾という「混成部隊」 について考えるとき、いつも加藤のミル評を私は思い起こします。

 加藤の言わんとするところは、各分野に旺盛な関心をもちそれらを凌駕していたミルにとって、「専門」というものはついになかった、自分の好奇心と世界とのかかわりだけがあり、ミルはそのかかわりを一般化する能力に生涯長けていた、ということなのでしょう。坦々塾には、原子力問題の最先端の専門家がいらっしゃるかと思うと、金融問題の専門家も多数いる、あるいは、政治党派集会について緻密に調査していらっしゃる行動家、私のように西尾先生の哲学書や文芸評論を敬愛していることがきっかけで参加させていただいている人間もいます。

 びっくりするのは、これだけ違う各分野の人物が、討論会や懇親会で全く違和感なく話しあうことができて、充足感と次回への会の期待感をもって、いつも必ずその日を終えることができる。皆さんが自分の専門について、一般化して語る言葉の術をもたれていること、そして相手の専門に対して好奇心と敬意を絶やさないこと、それを失わないことによって、坦々塾という「混成部隊」は、不思議なまとまりをもって、国内でも稀にみるマルチな「総合部隊」になっていく実力を醸成しつつあるように思えます。

 もちろん、坦々塾がカバーする知識のこうした幅の広さは、西尾先生の知性の幅の広さに基づいてデザインされているものだ、といえるでしょう。西尾先生とミルをだぶらせるのは西尾先生にとって不本意かもしれませんが、実質が似ているという意味ではなく、「何々学者」という言葉でおさまりきらないような、いろんな分野をすばやくしっかりと渡り歩いているという加藤のミルへの形容は、西尾先生の思想のスタイルへの形容として相応しく、また坦々塾全体のこれからの可能性を形容するにも相応しい形容でもあると私は思うのです。

 さて、1月12日の坦々塾の新年の勉強会は西尾先生の、「徂徠の『論語』解釈は抜群」という坦々塾の会で毎回連続している講義から始まりました。その後、坦々塾 のメンバーの方々の「反日左翼勢力の動向」「ディーリングルームの世界」「エネルギー危機と日本の原発」の各テーマについて発表討論がおこなわれました。

 西尾先生の徂徠の解釈論は、坦々塾の会で毎回内容的に連続しているもので、また言うまでもなく「江戸のダイナミズム」の最重要のテーマの一つでもあります。儒学の文献を解釈することは中国の社会構造を理解することと、あまりにも密接不可分であって、従来の日本の大半の儒学の文献学者はこのことを見落としており、そしてそのことが、日本の中国へのあらゆる誤解を誘引していったということを西尾先生は徂徠以外の学者と徂徠のさまざまな対比の中で指摘されます。

 毒にも薬にもならないような儒学解釈を展開してきた数々の解釈者と、本物の解釈、すなわち中国社会の想像もつかないような構造を見極めた徂 徠の解釈を比較される西尾先生のお話は毎回ユーモアにも富んでいて、伝統的解釈と徂徠の斬新な解釈の比較に、講義の最中、和やかな笑いの雰囲気が絶えません。徂徠の「論語」解釈は本当に,私達の意表をつきながら,いつのまにか中国社会の真実に私達を連れていってくれる、刺激の連続なのです。坦々塾の皆さん は先生の講義を楽しまれながら、現実の中国の表層を批判することはもちろん大切だけれども、その表層の下の深淵を見据えること、現実への「批判」を確かな 「全体的批評」としていってほしい、という先生のメッセージをしっかりと感じられているように思われます。

 講義の本旨からはややずれてしまうことかもしれませんが、徂徠を語る上でよく叩き台にされる伊藤仁斎について語りながら、西尾先生が仁斎と山本七平をなぞらえて、両者がビジネス文明に追随した形でしか孔子の文献を解釈していない、存在論が欠如している、つまり浅い、ときっぱりとおっしゃるあたり、たいへん面白いと私は思いました。司馬遼太郎や山崎正和に対しても西尾先生は批判的ですが、要するに、ビジネス文明に受けがよい形で、儒学に対してにせよ歴史に対してにせよ、薄められたことしか語らない思想家を先生は概して非常に嫌われているのだなあ、と妙に納得する思いを感じました。

 「反日左翼勢力の動向」についての報告討論に参加しながら私は「左翼とは何であるか?」ということについて改めて思いを張り巡らさざるをえませんでした。 たとえばかつて江藤淳は「ユダの季節」という論文で、「左翼とは何であるか?」という問いについて、「徒党」と「私語」という言葉を使い、人格論から「左翼とは何であるか?」を説明しましたが、私はその「ユダの季節」の「左翼」の基準をその日の報告討議を通じて改めて考えました。

 何でもかんでもかまわないので、日本という国を否定するテーマを選び「徒党」を組む。そして「徒党」の中でもちあげあい、かつ相互検閲して、彼らの中だけしか通用しない「私語」を語り合う。やがてその「徒党」と「私語」を国民的に拡大しようとする陰謀ならぬ陽謀をたくらむ。江藤はキリストを裏切ったユダがこの「徒党」と「私語」のロジックによる人格論としての「左翼」だったといいます。江藤の論旨に疑問もないわけではありませんが、「左翼」は実は「人格」の問題である、という指摘は現在の日本の現状からすればかなりの正当性をもっているのではないでしょうか。

 この国には、江藤が「ユダ」と喩えた左翼は依然驚くほどの数、形を変えて延命しているようです。なぜ延命できるのかといえば、結びつくはずのないテーマを「私語」でお互いを結んで、「徒党」を組むがゆえに、なのです。たとえば、本当は矛盾した論理関係にあるはずの「護憲」と「反皇室」の主張に、同じ人物が多数集うというような醜悪な現象が続いています。

 次は「ディーリングルームの世界」と題された金融についての抽象性と流動性に富んだ金融の世界というものについて、一般には理解しにくいことを、なるべくわかりやすく噛み砕いて説明してくださる報告でした。私のような金融の素人にも理解しやすいものであったのはありがたい説明でした。

 「資本主義」というものを、金融という面から考える思考法に私達はなかなか慣れていません。歴史なり時間なり国家なり、いわば「安定した」概念を使い考えがちです。
  しかしたとえば、「何でもお見通しの相場のプロ」というものは古今東西絶対に一人もいない、そういう人間がいるという思考法自体を、相場の世界を知らない証拠だ、という報告説明は、私のような金融の素人の頭脳にビシリと矢を射込むものでした。金融相場の事情を左右する諸要素はあまりにも多岐に渡り、しかもその影響がどう動くかは経験則からも不明としかいいようがない。歴史や政治を語るようには金融を語れない根本がここらあたりにある、といえましょう。そういう「何でもお見通しのプロ」がいるとすれば、戦争や天災その他、人間社会に起こりうるあらゆるリスクまで見通す神のような人間がいる、と想定しなければならないのでしょう。政治の天才がいるようには金融の天才はいないのに、私達はつい金融の世界に独自の論理があることに気づかないでいろいろな失敗をしてしまいます。

 金融面からみた資本主義というものはそういうものでありつつ、しかし、アメリカのヒビだらけのドル体制がアメリカの軍事力によってかろうじて担保されているにすぎない、それは明日にでも急激な崩壊を来たすものなのかもしれない、というような生々しい政治的現実にも関係している、ということが この日の報告と討議で実によく認識されました。

 ・・・この新年会から数日後、アメリカの株値崩壊が起きましたが、報告討議を思い出して、不思議なほどにあわてる気持ちなく、事態を冷静に考えることができらのも、この日の報告討議に拠るものが大きかったといえるでしょう。  

 「エネルギー危機と日本の原発」での日本のエネルギー問題の報告は、悲観面と楽観面の双方からの緻密に指摘に始まり、日本のこれからにおける原子力エネルギー供給増大の不可避を熱心に説かれました。私に関して言えば、今まで意外に曖昧であった原発問題への姿勢が、この日の報告討論で、完全に肯定派に定まるほどの説得力を、この報告から感じるほどでした。

 エネルギー価格の変動が私達の生活全般にかかわっていること、食料自給率も実のところはエネルギー自給率から大きく影響を受けざるをえないことは、最近の原油価格の変化が思いもかけない食料品の価格に影響を与えていることからしてあまりにも明白というべきです。食料自給率に関しての観念的・農本主義的な議論でなく、エネルギー自給率に関しての実質的な議論をこれからの日本人は厳しくしていかなけばならないのでしょう。

 報告では、原油の残存埋蔵量や産出量のデータにさまざまな誤謬やカラクリがあること、そしてそれに代替する原子力エネルギーというものがどういうものであって、また原子力の安全性を「安全」の意味をわかりやすく説明することによって論証されていました。

 論証の中で、日本のエネルギー問題への意識は呆れるほど低い、しかし日本の原子力エネルギーの技術は突出するほど優秀である、という奇妙な二面性への苛立ちが幾度もあらわれ、私は実にしっかりと共有できたように思えます。そしてこの奇妙な二面性は何処となく日本人らしいという匂いも私はふと感 じました。現状への認識対応の全国民的鈍感さと、その現状にありながら世界的に突出した技術力をもてあましているという二面性は、日本が幾度も直面してきたことであるのでしょう。あるいは「もてあまさせられている」のかもしれませんが。

 苛立ちが共有できたのは、切迫している現実(原油価格)とあまりにも近接している問題であったせいもあるでしょう。ただ、多くの貴重な資料を丁寧に説明されたせいもあり、時間が不足してしまい、幾つかの説明を省かざるをえませんでした。報告検討はこれからも続きます。 

 儒学思想の受容の在り方、左翼政治集会の現状、金融市場の問題、そしてエネルギー自給率の問題と、新年早々、いかにも「混成部隊」の坦々塾ら しい幅の広い、しかし日本という国のこれからを模索する上で、どこかでしっかりとつながっている幾つかのテーマが語られて、少なくとも私には、たいへん刺激的な時間でした。

 報告者の講演を終えた後、会は懇親会に移行しました。先輩諸氏は酒杯を傾けながら、新年会の勉強の成果、今年のこれからの日本の展望、各々の抱負などを遅い時間まで楽しく過ごされていました。懇親会の時間もあわせて、私にとって新年早々、忘れられない一日となりました。

文:渡辺 望