『WiLL』7月号の「脱原発こそ国家永続の道」に先立って同誌6月号に私は「最悪を想定できない『和』の病理」を書いた。(これは違う題名になって掲載されているが、私の本意とする題名は表記の通りである。)
6月号と7月号の二論文はセットとなって私の今の考えを表現しているので、6月号論文を以下に全文一括掲示する。雑誌で読み落としている方もいると思うので、二論文を併読していただきたい。
原子力安全・保安院の「未必の故意」
日本永久占領
震災の起こる直前に、米国務省日本部長のメア氏の沖縄に関する問題発言があった。地震と津波と原発の印象があまりにも強くて、大概の人は忘れてしまったと思うが、沖縄人は「ごまかし」と「ゆすり」が得意という彼のもの言いが侮辱発言だと騒ぎになり、米国政府が平謝りし、メア氏をあっさり更迭したので、もちろん、今さらここで何も取り上げるべきことではない。
ただ、メア氏の発言のなかには「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなり、米国にとってかえってまずい」というもう一つの問題の言葉があった。ここにアメリカの本音が漏れていて、騒ぎが大きくなるのは日本永久占領意志がばれて困るという米当局の思惑からの更迭だろう、と私は推察し、沖縄人侮辱発言のせいでは必ずしもない、と思っていた。
つまりこうだ。日本列島はアメリカ帝国の西太平洋上の国境線であって、いまだに日本に主権はないと考えねばならない。アメリカはここを失えば、かつてイギリスがインドを失った場合のように世界覇権の場からいよいよ滑り落ちる。日本はいわば最後の砦である。
アメリカが必死なのは当然である。ルーピー鳩山以後の日本政府の子供っぽい「反抗」にも我慢して、ぐらつく普天間にも忍耐づよく振る舞っているのは、帝国の襟度を守りたいからであるが、しかし、それが見えている日本人は、だからこそ、真の独立をめざして必死にここを突破しなければ、日本復活のシナリオは生まれてはこないのだと考える。日本の政治が三流に甘んじていてダメなのは、いまだに日本があらゆる点で主権国家であることを放棄して恥じないからに外ならない。そう考えるべきだし、私はそう考えていた──。
福島原発とリビア軍事介入
と、ちょうどそのとき、地震と津波が起こった。アメリカは救援に大艦隊を派遣した。「ともだち作戦」とそれを名づけた。
アメリカは、苦境に陥っている人や国を救助する能力のある国だということをあらためて証明した。迅速で有効な展開力と行動力は、見事ですらあった。日本人の多くが心強く思い、感謝したのは当然である。さすがアメリカだ、と。私もその一人であることを正直に申し上げる。ここに何もことさらに下心や邪心を読む必要はない。アメリカ人らしい明るさと公正さと善良さに、我々は大きく包まれる思いがした。
もちろん、アメリカは日本の原子力開発には他人事ならぬ関心と期待を寄せつづける理由があった。この国は軍事的な核大国であり、核技術の蓄積も日本の比ではないが、スリーマイルの事故以来、原発は後退している。ウェスティング社を日本に託して、産業政策としての原発の未来の可能性はいつに日本のこの分野の進歩にかかっているとさえ見られていた。
原子力発電の新規拡大には国内に反対勢力が強く、オバマ大統領がそれでも原発を目玉政策に掲げざるを得ないのはCO2削減もあるが、原油の値上げもあって、世界各国の動向がいよいよこれから原発の増大にはずみのかかっている折も折だったからだ。アメリカもフランスも、日本の失敗は他人事ではなく気が気でなかった。中東政策にも影を落とさざるを得ない。リビアへの軍事介入は、福島の事故が起こってからそれを横目に見ての出来事だった。
もとより、「ともだち作戦」は地震と津波に襲われ、呆然としたわが国の自然災害の救助に向けられたのであって、福島第一原発の事故対応は直接の目的ではなかった。が、ほぼ時を移さずして、事故はアメリカ政府の最大の関心事となった。クリントン国務長官は冷却法の提供など技術援助を惜しまぬと語ったが、廃炉を恐れた東京電力がこれを断った。アメリカは不信を募らせた。日本政府の政治意志はこの間、ほとんど存在しなかったに等しい。
事実上の無政府状態
「政治主導」は民主党政権が成立して以来、偉そうに言われてきた言葉であるが、政治家に官僚や企業人を超える知性と現実に対する謙虚さがなければ、逆にマイナスに働いてしまう事柄である。菅政権は知的指導力もなければ謙虚さもなく、いたずらに政治家が采配を振るおうとして、結果的に東京電力の情報に振り回されたり、官僚を使いこなせなかったり、惨憺たる有り様だった。
菅総理には、自分にも分からないものがあるのだという政治家の限界への認識がない。それゆえ、すぐに特別災害救済法を発令するというようなことも思いつかず、他人の力に任せるという度量もない。それでいて、結果的には政治家が自らの力でできることはほとんど何もない。原発事故に関しては、司令塔は東京電力の内にあったに等しく、官房長官は東京電力のスポークスマンにすぎなかった。しかも、失敗すると責任を他人のせいにするのがこの政権の始末の悪い処で、その最悪のケースは低レベル汚染水の海中放出の事件であった。
原子力規制の基となる通称「原子炉等規制法」というのがあり、第十五条にすべての決定は政府の管理下でなされると書かれていて、この法令がすでに発令されていた。第六十四条には「危険時の措置」が示されていて、応急の措置は大臣の命令による裁可に基づくと書かれている。放射能汚染水の海中放出は「危険時の措置」に外ならない。
海江田経産大臣が、東電は何でこんな危ないことをやったのか自分は知らなかった、などと後から責任逃れのようなことを言うのはまったく筋が通らない。韓国政府が日本政府に抗議したのは当然である。外務大臣はあのとき謝罪すべきであって、醜い反論をしたのはさらにおかしい。
菅総理が後から閣内不統一を認めてこれから指導すると弁解したのは、外国に事実上の無政府状態を告白したようなものである。韓国が「日本政府は無能」と追い討ちをかけたのは、残念ながら正鵠を射た罵倒語であった。
日本国家消滅の可能性
アメリカは、こうしたいきさつをすべて見ているはずである。日本の政治がもう何年も低迷し、「権力の不在」という病理現象を呈していることを知り抜いている。少し前に中国の尖閣揺さぶりがあり、ロシア大統領の北方領土訪問の威嚇があったのも、日本の政治が真空化しかけているしるしだった。民主党政権が自らの危うさに気がつかず、空威張りの政権しがみつきを継続していること自体が、極東のこの地域一帯の政治権力の空洞化の危険な徴候である。
そういう状態で巨大な災害、地震と津波と原発事故が起こった。これをアメリカが見ればどう見えるだろうか。オバマ大統領はなぜ空母を含む大艦隊を急派し、同盟国としての援助を惜しまぬと大見得を切ったのだろうか。
「ともだち作戦」は、もちろん友愛と同情のしるしだが、ただそれだけの目的の行動力の展開だろうか。百五十名の核特殊部隊は横田基地に待機している。ほかにも、軍人や軍属は日本の許可なしに出入りし、艦隊の移動も自由であるのは日米安保条約六条に基づく日米地位協定に由る。安保条約は発動され、緊急事態に対処しはじめているのである。
アメリカから見れば、日本列島もアフガンもイラクも、あるいはかつてのフィリピンもベトナムも南朝鮮も、政権がしっかりしていないこと、単独で危機に対処する能力がないこと、いざとなれば米軍のてこ入れで臨時政府をつくる必要がある地域であることは同じであって、つねに国家漂流の可能性は計算されているはずである。何とも情けない話だが、日本のこの現実を今の日本政府は増幅させている。
もちろん、そんな可能性は万に一つもないと日米ともに平常時には考えているし、福島第一原発の小休止状態──不安をはらんだままの──である四月半ば過ぎの段階においては、考慮する必要はまだないのかもしれない。しかし、アメリカが日本支援に起ち上がったあの原発事故の初期の時期には、日本という国家の突然の消滅の可能性を想定していたはずだ。そして、原発の今後の動向いかんでは、再び想定せざるを得ない場合もあり得るだろう。
放射能放出が止まらず、冷却水の循環装置の修復も困難となった場合に、国際社会ははたして黙っているだろうか。日本は原発事故の収拾権をIAEA(国際原子力機関)に奪われ、この点に関するかぎり、国家主権を制限される羽目に陥るのではないだろうか。否、ひょっとすると我々が知らないだけで、すでにそうなっているのかもしれない。
『週刊文春』四月二十一日号によると、アメリカ政府は当初から東電本社の対策統合本部の近くに会議室を強引に借り受け、そこから矢継ぎ早に・進言・を下しているという。今やあらゆる原発事故のデータはワシントンへ届き、分析されている。そして、日本政府のさまざまな分野に・助言・がなされているらしい。「おともだち」の単なる支援救援を越え、日本の首相が決断すべき国家の意志決定のプロセスに事実上、介入する事態に立ち至っているようである。
もし万が一に、四千万人の避難民が西に移動する東日本崩壊という事態になったら、日本は完全な無政府状態に陥るだろう。そのとき頼りになるのはアメリカだと考えるのは、じつはあまりにも安易である。アメリカは政治的に干渉するが、実力部隊は介入すまい。
つねに最悪を考える
三月十六日頃の原子炉内のメルトダウンと温度急上昇によって、大量の放射能の出ることが予測され、東京が一気に危険圏内になったあのとき、アメリカ軍は八十キロ圏外に逃れ、原発の現場の作業に一人の米兵も参加しなかった。米船舶は西日本に移動し、ヘリは三沢基地に逃れた。現場に急行し、放水して危機を防いだのは周知のとおり、わが消防隊と自衛隊だった。自分の国と国民を守るのは外国人では決してない。そのことを我々は肝に銘じておかなくてはならない。
アメリカは、日本が国家漂流の状態になることがあり得るという可能性を想定内に入れているからこそ、大部隊を派遣したのである。しかし、日本が国家喪失の状態になった後には実力を振るうが、そうなるまでは日本の混乱を冷淡に突き放して放置するだろう。自国兵の被曝の危険をできるだけ用心深く避けながら、極東の地域一帯の政治権力の喪失状態を何とかして回避したいと今も考えている。
しかし、日本では政府も民間人もそこまで考えているだろうか。福島原発がコントロールできなくなるような最悪の事態、国家の方向舵喪失のあげくの果ての、政治だけでなく市民生活全般における恐怖のカオスの状態を念頭に置いているだろうか。
アメリカ政府にあって日本政府にないのは、地球全体を見ている統治者の意識である。アメリカの政治家にあって日本の政治家にないのは、あらゆる条件のなかの最悪の条件を起点にして未来の計画図を立てているか否かである。つねに最悪を考えるのは、軍事的知能と結びついている。
官僚化した日本社会
歴史書を繙くと、軍事行動に踏み切ることにいちばん慎重なのは軍人であることに気がつくことが多い。政治家とマスコミは戦争を煽る。軍人は臆病なのではなく、最悪の事態、困難な事態を一番よく知っているのである。軍事と政治を直結させないできた日本の政治的知性は不用心で、楽観的で、細心の注意で選択し、行動しないことが多い。
そのことを典型的に表すのは、大事故に対する日頃の心の用意の質とレベルである。福島原発の事故が人災かどうかは別として、日本の社会の官僚化の欠陥が表面化したのだということは、軍事不在国の関連においてもどうしても言っておかなくてはならない点である。
四月十日の午前中のテレビ朝日「サンデーフロントライン」の座談会で、原子力安全委員会の元委員長の肩書きの人がぺロッと口を滑らせた重要な発言があった。事故を防ぐために何から何まで想定して防止策を立てることは経費のうえからいってできない、と。
原子力安全委員は「経費」を考える立場だろうか。これはおかしい、と東京新聞の人がそのとき釘をさしていたのに私も納得した。監視する側の人が監視される側の人と同じ立場に立ち、同じ意識でいる。馴れ合いと仲間意識が関係者同士の批判意識を鈍らせているようである。
経産省は原子力推進勢力の一つである。その付属機関に、原子力・安全保安院があるのはおかしいのではないか。同じ仲間が、どこまで厳しく安全を守るためのチェック機能を働かせているだろうか。法律に照らして監視さえしておけばいい、事故が起こっても俺たちの責任じゃない、で日々を安易に済ませていないか。
たとえば、聞くところによると、問題を起こした福島第一原発の一号機はアメリカのGE製、二号機はGEと東芝の共同製であった。電源設備が最初からあまりにもお粗末なつくりであったことで知られていた。ところが、これの点検やチェックは搬入後なされていない。アメリカで合格とされたものに、日本でバックチェックはあり得ないからだそうである。法の遡及は考えられない取り決めだというのである。何という実際性のない硬直した対応だろう。今日のここで起こった大事故の正体は、原子力・安全保安院の「未必の故意」ではないのか。
東電を監視する側の官庁である経産省の高級官僚、エネルギー庁長官が今年一月、東電の顧問に天下りした人事はまさにアットオドロクタメゴロウであった(ただし、四月十六日に急遽解消された)。民主党政権になって急遽なされた人事で、自民党時代の天下りにはまだあったためらいも迷いもないストレートな決定だった。今回の原発事故からは「人災」の匂いが立ちのぼってくる。
人間同士が対立的関係で相互監視しないシステムは日本社会の甘さの特徴でもあり、あらゆる案件に人が最悪の事態を想定して対応するという欧米風の習慣を育てない風土でもある。
事故の最大の温床
今回、事故説明にテレビに登場したソフトな物腰の、安全と無害を国民に触れ回る東大教授の諸先生を、私は週刊誌が言うごとく「御用学者」だとからかうつもりはない。だが、東電の元社長や副社長の誰彼も、前原子力安全委員会委員長も、現委員長も、原子力安全・保安院の誰彼も、東芝、日立などメーカーのお偉いさんもことごとく東大工学部原子力工学科の出身者で、いわば「東大原子力村」、あるいは「東大原子力一家」とも名づけるべき閉鎖的相互無批判集合社会を形成していることが明らかになるにつれ、これ自体が今回の事故の最大の温床であり、誤魔化しと無為無策の土壌であったと私は判定せざるを得ない。たとえば、京大系に名にし負う反原発の俊秀がいることは知られている。私は素人で当分野に無関係の人間だが、ネットで主張を聞くかぎり、理筋の通っている人だ。同じテーブルについて互いに学問的に開かれた討議をし、甲論乙駁することが、国民の幸福と安全のためにもなるのではないかと愚考する次第である。
ドイツの大学の人事に「同一学内招聘禁止法」(Hausberufungsverbot)という慣習法が存在する。教授資格を得た者は、母校である出身大学に就職することができない。必ず他大学に応募しなければならない。いいかえれば、老教授は自分の愛弟子を後任に選ぶことが禁じられている。それだけでなく、准教授から正教授へ昇格するときも、自分の今まで勤務していた大学でそのまま上位の地位を得るのではなく、必ず他大学に応募し、複数の候補者と論文だけでなく講義の実演を公開して、新たに「挑戦」することが義務づけられている。いうまでもなく、馴れ合いを排し、正当な競争が公正に行われるための条件を守りつづけるシステムとして、こうした慣習が確立しているのである。アメリカの大学はドイツとは相互関係が異なるので必ずしもドイツほど厳格ではないが、ハーバード大学の出身者はハーバード大学の教授にはなれない、などの不文律はあると聞く。
人間社会の暗黙の「和」
人間社会の暗黙の「和」を信用せず、「競争」の維持を最優先させるシステムといってよい。それはまた、人間相互の悪と不信を前提とする個人主義に立脚している。個人主義は性悪説から成り立っている。原子力安全委員長が電力会社の思惑を公衆の前で平然と代弁するような、検事が弁護士になり替わってしまうような日本社会の生ぬるいいい加減さ、監督官庁の幹部が監督される企業の幹部に無警戒に天下りし、同じ大学の出身者が企業、学界、官界を独占的に牛耳り、肌暖め合ってなにごとでもツーカーと分かり合ってしまうような精神風土が、今度の大事故の背景にあったことに我々は冷静な批判のメスを入れるべきときである。
現場に対し監督側に立つ企業の幹部や、企業を監督する原子力安全委員や原子力安全・保安院のメンバーには、万が一の事故が起こった場合には何らかの刑事罰が課せられるような法改正がなされてしかるべきではないだろうか。それでなければ、国家の根幹を揺るがすこともある原子力発電の今後の継続など、安易に口にすべきではないように思える。
原子力の安全神話が間違っているのではなく、安全神話を担いで外からの批判を封じ、ある全体的な雰囲気をつくって仲間意識を拡大し、政治やマスコミを巻きこんでソレイケドンドンとやってきた集合意識が、問題なのである。異論は、共産党や一部左翼の議論であるとして、非理性的に排除されてきた。異論や反論を同じテーブルにつける公明正大なディスカッションの場が、これからいよいよ必要であると思う。
日本の一般社会の空気も問題である。東京電力のような影響力の大きい企業の人事が、江戸時代の農村メンタリティで決せられていないだろうか。詳しい事情は知らないが、減点法で無難な人が出世し、批判力や指導力よりも社内に敵のいない既成の枠を守る人、創造力よりも気配りのいい保守型の人、こういう人物が出世の階段を昇り易くなっていないだろうか。
日本は、これからはこの手の人材ではもう発展が望めないと言われて久しいのに、千年一日のごとく「和」のムードを優先させているのが政・官・財・学に共通する日本の人事の実態のように見受ける。
現実の承認と現実の否定
もとより西欧型、米国型の「個人主義」が、すべてにわたって優位にあるとは必ずしもいえない。ただ、自然科学はそもそも欧米からきた。そこに日本の伝統技術も加算された。原子力発電は日本で進歩が著しいといわれるものの、いざ事故が起こってみると、事故対応の役に立つロボット技術ひとつ用意されていない。バケツで水を撒いたり、汚水の穴にオガクズやおしめの類を入れてみたり、子供のマンガを見させられているような滑稽なシーンがつづいた。
さらに、昨日の危機は改善されずに今日の危機が目前にあったことも見逃せない。地震から一カ月経った四月十一日午後五時過ぎに大きな余震が起こり、津波の恐れがあったのに再び電源が切れ、建屋内への注水が途絶えた。作業員の手動による応急措置が待たれたが、たまたま津波警報で作業員は現場から離れざるを得ず約五十分、またしても一カ月前と同じ大事故の危機が生じた。
幸い、東北電力からの電源が回復し、一同ホッとしてことなきを得たが、電源が切れたら第二、第三の予防措置を講じるという、あのとき求められていた強い要望は、あっという間に忘れられていた。津波警報が出て作業員がいなくなる、という「想定外」の出来事がまたまた起こったのである。現場はまたしてもなす術がなかったのだ。
つねに最悪のことを考え用意する。最悪を見つづけるのは人間として勇気を要するが、それが大切だと私は本論で繰り返し書いてきた。事故に対するも、人間関係、人事や政治においても欧米社会にこの点で一日の長があることは、軍事ということを片時も忘れずにいる社会と、六十五年間これを忘れてしまった社会の差でもある。江戸時代の農村メンタリティに戻ってしまい、学者や経営者たちまでが前近代的に生きているのに、自分は最先端の技術を駆使する超近代人であると思いこんでいる錯覚が問題である。それが、今度の事故で打ちのめされたと言っていい。それはいいことである。この絶望から、この敗北感から再出発せざるを得まい。
米国務省日本部長メア氏の「日本は憲法九条を変える必要はない。変えると米軍を必要としなくなる」の発言に、私は冒頭で多少とも立腹した。日本の政治がこのまま三流に甘んじていてはダメだと書いた。
日本よ立ち上がれ、のそのときの気持ちに今も変わりはないが、政治とは学者や企業人の指導力を含む概念であり、政界だけの問題ではない。口惜しくても、米軍を必要とする現実はつづいているのである。日本の再生はこの現実の承認と、さらにその先を見つめたこの現実の否定からようやくはじまるはずである。