新春の仕事開幕

 平成24年(2012年)になり、早速私の次のような仕事が相次いで公開される。

 『SAPIO』(2月8日号)に脱原発特集が組まれた。題して「まだ終わっていないのに『なし崩し的再稼動』はNOだ。ここが正念場!脱原発を巡る論考を続けよ」となっていて、12本の論考が掲げられている。その中で私は「国防」を分担している。曰く「脱原発してこそ、日本は独立自尊を回復し、自由で合理的な国防と核武装が可能になる。」

 それより大きい仕事は『WiLL』(3月号・1月26日発売)の巻頭論文19ページである。題して

 
天皇陛下に「御聖断」を、女性宮家と雅子妃問題の核心
 

 女性宮家のテーマは付け足しで、それより大切なもの、国家の運命に関わるのが雅子妃問題であることを久々に訴えた大型論文である。平成20年(2008年)5月号の「皇太子さまへ敢えて御忠言申し上げます」から4年ぶりの本格的問い掛けである。しばらく様子を見ていたが、あれから事態は悪化する一方で、やっと重い腰を上げた。国民みんなが真剣に考えるときが来ている。

 新潮社刊の単行本『天皇と原爆』は24日に見本刷が出る。発刊は31日なので、次回詳しい案内をしたい。

 さて、西尾幹二全集第二回配本(第一巻)『ヨーロッパの個人主義』は同じ時期に刊行され、予約者のお手元に届くのは月末か遅くとも2月最初の週である。これに合わせて2月4日「個人主義と日本人の価値観」と題した公開講演会を開く。会場費の一部をご負担いたゞかないと運営できないので¥1000をもらい受ける。講演会の内容案内は末尾に再録する。

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「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL

二つの『光と断崖』読後感(二)・お知らせ

 柏原さんの感想は「私が驚いた二冊の本」と題した相当の大型論評である。読者もひとつ腰を据えてしっかり読んでいただきたい。

私が驚いた二冊の本

 2011年の驚きは、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』の刊行でした。この書物によって、張作霖爆殺事件の犯人に関する、秦郁彦氏の河本大作説に大きな疑問が投げかけられることになったからです。いや、より正確に言うならば、秦郁彦氏は、この問題に関する限り土俵際ぎりぎりにまで追い込まれていると言った方がよいでしょう。私は改めて歴史研究の無情さを感じずにはいられませんでした。何年も資料を読み込んで築き上げた歴史像が、ある日新資料が発見されたことによって、完全に覆されてしまうのです。
 
 しかし、歴史の評価が半世紀もたてば全く変わってしまうこともまた真実なのです。これは張作霖爆殺事件に関しても例外ではなかったということでしかありません。ですから、問題は長年の研究の成果発見された成果よりも、むしろその探求の過程が、そして探求する側の人間が問題ということになります。どれだけ誠実に歴史に直面したのこそが問われねばならないのです。
 
 その点で、興味深いエピソードを紹介したい衝動に駆られます。ここは、自分に正直に公表することにしましょう。そのエピソードとは、『謎解き「張作霖爆殺事件」』の山本七平賞奨励賞受賞に際して、秦郁彦氏が出版社に激しく抗議したというものです。その気持ちはわかるのですが、もし抗議するぐらいならば、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』に対する批判を著作として世に問うべきでしょう。それが、秦氏においては出版社への陰湿な抗議となりはてるのです。

 これだから、いわゆる昭和史家というのは救いようがないなあと、しみじみ思うのです。まだ世間のことを知らない高校生を相手に胡適というファシストを絶賛してやまない加藤陽子東大教授に始まり、米外交官マクマレーの文章を意図的に誤読して史料を捏造する北岡東大教授、一知半解の「昭和史」をてんで恥じることのない半藤利一氏、それに出版社に不当な圧力をかける秦郁彦氏と、学者や識者としてより以前に人間としてどこか大きな問題を抱えておられるような方があまりに多いのです。

 ですから、歴史研究の無情を見せつけられるといっても、秦氏には同情の念はわかないのです。というか、秦氏の学問上の方法論に決定的な瑕疵があるのです。それは、秦氏が、もっぱら日本の史料しか用いておらず、海外の史料、特にロシア語の史料にはほとんど触れてもいないという点です。加藤氏はロシア語だけでなく、ブルガリア語の史料も用いて検証しています。一つの歴史的事件であっても、様々な国の史料は公式文書を存分に用いなければ、真相が明らかになったとは言えないのです。残念ながら、加藤氏の今回の著作ではGRU(赤軍情報部)の一次史料にまではたどりつくことはできませんでした。それにも関わらず、様々な傍証から、張作霖爆殺事件の真犯人がGRUであったことが、かなりの精度で論証がなされています。はっきりと言えるのは、これを覆すのは難しそうだと言うことです。

 これは従来のたこつぼ型の歴史研究には限界があるということでもあります。一つの分野をいくら細かく調べても、歴史がわかったことにはならないのです。歴史的事象を扱うためには、比較対照という手法が欠かせません。用いる史料を、一国の史料に限らず、信頼できる様々な国の一次史料を用いる必要があります。特に20世紀のプロパガンダと欺瞞工作に関わる(あるいはその可能性がある)歴史的事象には、それこそ細心の注意が要求されるのです。

 それでも、歴史研究という水準を超えて、比較という点から大きな衝撃をもたらした著作があります。それが、『西尾幹二全集第5巻 光と断崖』だったのです。私が日頃読んでいるのは、フランス語の文献で改めてドイツの思想史に関する文献を読むことはまずありません。しかし、今回『西尾幹二全集第5巻』を読んで、これまで胸の中にもう何十年もわだかまり続けていた大きな謎が瞬時に解決するのを感じました。わかったことはいろいろあるのですが、19世紀末から20世紀にかけてのフランスを知ろうと思えば、ドイツを知らねばならず、その逆もまた成り立つということを直感し、私は文字通り眠れないほど興奮した夜を過ごしました。まさか長年の謎がこのような形で、解けるとは夢にも思わなかったのです。フランスを知るために、なぜドイツを知らねばならなかったのか。それは次のような理由によります。

 19世紀の歴史から見れば、ドイツとフランスは鏡のような関係にあります。それはあたかもコインの裏表のような印象があります。たとえば、フランス革命一つとってもそうで、フランスが理性が勝利を収めた革命の国と規定するなら、ドイツは遅れた封建的な国家ということになるでしょうし、ナポレオンによる大帝国の建設を、既存の国際秩序の破壊と見るならば、ナポレオンの失脚後、フランスが封じ込めの対象になったのも当然といえるでしょう。これほど対照的な関係も歴史的には例を見ないのではないでしょうか。それは光と闇の相克と言うこともできるでしょう。当然のことながらどちらが光でどちらが闇かは、対象を見る味方によって入れ替わるのですが。

 もうすこし、この点を詳細に考察してみましょう。18世紀末のフランス革命から第二次大戦の終了までの時期のヨーロッパ史における独仏関係は、英露関係と並んで、常に緊張関係の下におかれてきました。両国の関係は、大きく分けて二つの時期に分けることができます。すなわち、ナポレオンの軍隊に対するプロイセン軍の勝利から始まって、ビスマルクの時代の1870年の普仏戦争で頂点に達する、プロイセンの台頭期と、ヴィルヘルム2世の親政以降の、ドイツ帝国没落期とにです。第一次大戦における敗戦と、ナチスの政権獲得、そして第二次大戦における敗北もその没落の過程に含めることができるでしょう。ロシアとの間の再保障条約が解消され、ドイツ外交が浮遊し始めた1890年代からドイツという国家は没落し続けるのです。

 1905年にはモロッコの領有をめぐり、ドイツは英仏両国とタンジール事件という国際紛争を引き起こしています。ドイツは、1911年にはやはりモロッコの領有をめぐってアガディール事件を起こしています。これらの紛争ではドイツ側の完敗でした。それに追い打ちをかけるように、第一次大戦におけるドイツ帝国の崩壊、それにナチス・ドイツの劇的な台頭とその没落が続くのです。

 私が驚いたのは、こうしたドイツの没落をニーチェはすでに40年前に予見していた、ということでした。ドイツ精神の腐敗が、国家の没落をもたらすであろうことを、ニーチェはすでに気がついていたのです。1870年における普仏戦争の劇的な勝利の結果生まれた、根拠のない楽観主義、こういって良ければ夜郎自大で良しとする精神が、ドイツ帝国を支配していました。ニーチェは次のように述べます。「私が問題にするのは、歴史的な事柄におけるドイツ人の淫らなまでのだらしなさである。ドイツの歴史家には文化の歩み、文化の価値に注がれるべき大きな眼光がすっかりなくなってしまって、彼らは揃いも揃って政治(もしくは教会―)に傭われた道化役者となってしまったが、こういう言い方ではまだ足りない。この大きな眼光は、ドイツの歴史家たちの手で追放されているのである。まず何を措いても《ドイツ的》でなくてはならないのだと彼らはいう。《純血種》でなくてはならないのだと彼らは言う。そうなったときに、歴史的な事柄における価値と無価値を決定することが可能になる、というのである。」

 つまり、19世紀末のドイツ国内の政治・文化の状況に対して、ニーチェは痛切な批判を向けているのです。当時のドイツという国家、並びにドイツ人を客観的かつ冷静に批判すると言うよりは、あたかも憎悪の念に突き動かされた呪詛を必死に投げかけているといった趣があります。それは、そうでしょう。「歴史的な事柄における価値と無価値を決定する」のが《ドイツ的》なものであるか否か、《純血種》であるか否かによって決定されるというのは、鼻持ちならない、低俗な、自民族中心主義の表明でしかないわけですから。

 思えば、ヘーゲルの『法哲学』においても、オリエント帝国、ギリシャのポリス、ローマ帝国の後に、ドイツ的な立憲君主制を取り上げていました。ヘーゲルがドイツという国家の成り立ちを国家という理念の最高形態と見なしていたことは明白でしょう。ヘーゲルの著作を、あたかも普遍の真理として受け入れるならば、納得ができることなのかもしれません。しかし、少し落ち着いて考えれば、世界史には古代中国の唐を始め、モンゴル帝国、それにイスラム圏のウマイヤ朝やアッバース朝、それにヘーゲルと同時代に存在していたオスマン帝国、インドにはムガール帝国が存在していたことはすぐに思い当たります。これらの帝国の動向がドイツよりもはるかに世界史の内実を構成していたことは、冷静に考えれば、現代の我々はおろか、19世紀末のドイツ人にもわかったはずです。そもそも、ヘーゲルの議論にはかなり多くの留保をつけなければ成立し得ないはずです。

 実際の世界は当時のドイツ人が考えていたほど単純なものでも、ドイツの優越を無邪気に主張できるようなものでもなかったのです。にもかかわらず、ドイツは、台頭する経済力を背景に、自己の客観的な自画像を失い、「大きな眼光」を失ってしまっていたのです。ドイツ精神という光の下で、すべてを証明でき、すべて説明しうるという根拠のない楽観主義がドイツを支配していました。ニーチェは、当時のドイツの風潮とその背後にあるこの種のドイツ観念論のまやかしに容赦なく批判を投げかけていたのです。ニーチェの議論は、「近世以降ドイツ人は人類の歴史の担い手であり、精神的自由の自己実現の頂点を形成するという類の19世紀ドイツの、神学、哲学、歴史の至る所で流布していた空しい自尊への、痛罵の意図を秘めていた」のです。
 
 情報史という点では、ヴィルヘルム二世の時代は、ドイツが積極的な情報活動を展開している時期でした。日露戦争の際にもドイツは極東に多くのスパイを送り込んでいました。にもかかわらず、先に挙げたタンジール事件やアガディール事件のように、ドイツがなぜ外交で失敗を重ねつづけたのかが私には長い間不思議でなりませんでした。しかし、ニーチェのドイツ批判を読めば、「なるほど、そういうことだったのか」と改めて納得したのです。

 ドイツ観念論は、世界をすべて理解したつもりになっていました。自国の歴史こそが世界史であると考えるようになれば、外の世界に対する理性的な視線は失われてしまいます。ドイツは、客観的な自画像というものをドイツは描けなくなっていたのです。これこそが、ドイツ帝国を崩壊させた大きな要因だったのです。そして本来冷静であるべき情報活動を失敗させたのは、こうしたメンタリティだったのです。

 その反面、フランスは、冷静にドイツを観察していました。フランスの公文書館やフランス軍戦史部には、ドイツに関する膨大なインテリジェンス史料が残されています。第二次大戦はともかく、第一次大戦の勝利は、フランスの優れた情報活動によるものでした。ドイツが情報活動に熱心であるにも関わらず、ドイツ外交が空転し続けた理由こそ、まさにこのニーチェのドイツ批判の中身だったのです。どこかでたががはずれた当時のドイツ人の精神が、ドイツの没落を準備していたのです。ドイツの情報活動の失敗の背後に、ドイツ的精神の腐敗があったというのは、個人的には非常にショッキングな発見でした。

 とはいえ、ニーチェのドイツ批判は、圧倒的に不利な戦いであったことも事実でしょう。『悲劇の誕生』で、学会を終われ、ワグナーに接近するものの、袂を分かち、最終的には、ドイツという国家に鋭い批判を向けるニーチェという人物に対して、周囲からの反発も相当のものでした。このニーチェに向けられていた有形無形のプレッシャーの大きさが、この『西尾幹二全集第五巻』から伝わってくるのです。ドイツ人社会という「世間」からの敵意のある極度の圧力が、アフォリズムの多用、一見したところではナルシシズムの極地とも思える文章表現を生んでいたのです。しかし、筋肉隆々たる男性的な、あまりに男性的な文体の背後には、ニーチェの孤独と絶望が隠されていました。ニーチェの弱さ、ニーチェの苦しみを明らかにしており、人間ニーチェの横顔に光を当てていることも、この第五巻の魅力を作り上げているといえるでしょう。
 
 では、ニーチェにとって、こうした透徹した予測がなぜ可能だったのでしょうか。その謎を、後世の人間には窺い知ることはできないのは、当然でしょう。しかし、ただ言えることは、ニーチェは自分に、自分の内面に正直であったということです。興味深いのは、『悲劇の誕生』に見られるように、ニーチェの内面からわき上がる着想が、歴史的真実を明らかにしていていたことです。自己の確信を貫くことで、従来の古代観の中心にある、いわゆる調和的なギリシャ的晴朗さはアポロン的仮象にすぎず、その背後に、より根源的な音楽の精神、衝動的・破壊的なディオニソス的陶酔が存在したという新たなギリシャ観を提出しえたのです。

 ここで、西尾幹二氏の作家としての姿勢にも、ニーチェとの共通性を認めざるを得ないと思うのです。西尾幹二氏ほど自分の思想に正直な人を私は知りません。何について語っても、何を問題にしても、結局のところ、自分の物語になるというのが、西尾幹二氏の著作の特徴であるといえるでしょう。全ての批判、全ての洞察は、すでに小学生の時代に準備されていました。小学生以来の素直さが、西尾氏の著作の褪せることのない魅力の源泉なのです。こういって良ければ、西尾幹二全集の第5巻の楽しみは、ニーチェの率直さと西尾氏の率直さが交差する思考の力学にあります。そして、これは、国家の運命が交錯する壮大な物語でもあったのです。

 この『西尾幹二全集第五巻』の衝撃を何とか文章にまとめようと試みたのですが、どうにもうまくいきません。それはこの著作が、多くの連想を呼び起こすからであり、その衝撃は現在も進行しているからであります。ここからは、戦争に勝利を収め、文化的に(そして外交の面でも)衰退したドイツと、戦争に敗北したものの、文化が興隆したフランスという刺激的な視点が浮かびあがってきます。さらに、フランスにおける印象主義絵画の流行と、印象派の画家達と象徴派詩人達の交わり、とくにステファン・マラルメの問題を、ドイツの精神状況と対比させて考えることによって様々な知見が可能になるように思われます。いわゆるフランス現代思想で、ニーチェとマラルメが好んで取り上げられるのは、偶然ではないのです。存在論から始まるヘーゲルの哲学と、虚無から始まるマラルメの詩は、両国の国民精神のあり方を暗示しています。従来のポストモダンの議論の先進性とその限界も、ニーチェのこの議論を前提にして初めて明らかにできると思います。
 
 こんな訳ですから、フランス文化やフランス史の研究者こそ、ニーチェの著作は一度は読んでおくべきだと痛感した次第です。そして、ニーチェという高山に登る際のベテランガイドが西尾幹二氏であり、今回の全集第五巻であるということを改めて強調して、本文の結びとしたいと思います。

文:柏原竜一

 柏原さん、どうもありがとう。

 ニーチェをナチスの先駆者のように言う議論がどんなにバカげているかが読者によくお分りになっただろう。現代フランス哲学はニーチェなしでは語れない。

 ところで19世紀のドイツの自己幻想は、今度は逆転して、第二次大戦後には反省と自虐にまみれた自己否定像となる。私が「ヒットラー後遺症」と名づけた戦後ドイツの悲惨な精神状況を現出させた。

 私の全集第二回配本(第1巻)『ヨーロッパの個人主義』は、既報のとおり二冊の処女作『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』というすでによく知られた体験記を収録しているが、じつはこの二冊は全巻の約半分にすぎない。それ以外の短篇が満載されている。

 その短篇の中に「現代ドイツ文学者報告」(『新潮』連載)があり、ギュンター・グラス、ペーター・ヴァイス、ロルフ・ホッホフート、ハインリヒ・ベルその他の政治主義化したドイツ文学界の終末的精神状況に対する私の徹底した批判が語られている。

 柏原さんがニーチェの19世紀ドイツへの批判の孤独と絶望ということを語っていたが、同じようなことは戦後の私の留学時代のドイツとの関係にもあったのである。私は日本のドイツ文学界から次第に気持ちが離れていくが、敗戦国の文学を研究専攻した失敗に気がついたのは留学中のこの目立たぬ出来事に端を発する、と今思い出している。

 帰国後私は「文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識」(『新潮』1970年2月号)を書いて文壇批評家になった。そしてほどへて三島自決事件にであった。ドイツで体験した現代批判がまっすぐに「文学の宿命」の中に流れ込んでいることに今度気がついた。

 『ヨーロッパの個人主義』や『ヨーロッパ像の転換』では見せていなかった私のもうひとつの主題が「現代ドイツ文学界報告」の中にあり、それが糸を引くように三島事件の解明につながる。全集第三回配本『悲劇人の姿勢』の校正刷をいま丁度整理中で、次々と新しい自己発見をしているところである。

「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL

アメリカの脱領土的システム支配・講演会開催のお知らせ

「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ

   西尾幹二先生講演会

「個人主義と日本人の価値観」

〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

 ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

★西尾幹二先生講演会

    「個人主義と日本人の価値観」

【日時】  2012年2月4日(土曜日)

  開場: 13:30 開演 14:00
    ※終演は、16:00を予定しております。

【場所】 星陵会館ホール

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。

★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。

【場所】 星陵会館 シーボニア 

※ 16:30~(18:30終了予定)

【参加費】 6,000円

※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。

・国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427

   E-mail:sales@kokusho.co.jp

・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)

主催:国書刊行会・坦々塾

後援:月刊WiLL

「桜プロジェクト」年末スペシャル

● 放送予定日時:平成23年12月28日(水)スカパー!217ch20時~22時
およびインターネット放送「So-TV」

● パネリスト:(敬称略・五十音順)
  大高未貴(ジャーナリスト・桜プロジェクト月曜日キャスター)
  鈴木邦子(外交安全保障研究家・報道ワイド日本ウィークエンドキャスター)
  高清水有子(皇室ジャーナリスト・桜プロジェクト木曜日キャスター)
  富岡幸一郎(文芸評論家・関東大学教授・桜プロジェクト水曜日・報道ワイド日本ウィークエンドキャスター)
  西尾幹二(評論家・GHQ焚書図書開封司会)
  西村幸祐(評論家・ジャーナリスト・桜プロジェクト水曜日・報道ワイドウィークエンドキャスター)
  三橋貴明(経済評論家・作家・桜プロジェクト水曜日・報道ワイドウィークエンドキャスター)

司会:水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

店頭に出ている雑誌

 ちょうど今店頭に出ている雑誌とこれから間もなく出る雑誌に、次のような私の関連記事が相次いで載っていますので、ご報告します。

 『SAPIO』2011.12.28(NO19)日米開戦70年目の真実――米国が戦後「GHQ焚書図書」指定し歴史の闇に葬った「不都合な真実」を開封する、という趣旨の論文です。

 『歴史通』2012.1月号 高山正之氏との対談「アメリカの野望――米西戦争からTPPまで」――これはかなり大型の対談です。私の発言分には、スペイン帝国からオランダ、イギリス、アメリカへと覇権が移り変わる略奪資本主義の歴史の展開を見据えて、1973年の石油危機から最近の金融危機にいたる諸問題を射程に入れた新しい観点を提出し、単なる日米開戦回顧ではなく、今まで私が言っていない歴史の見方を打ち出しているつもりです。

 『前夜』2011年12月25日創刊号(小林よしのり責任編集の新しい雑誌・幻冬舎刊)原発は戦後平和主義のシンボルだった、――小林氏の新しい企てに協賛して20枚書き下ろし論文を寄稿しました。

 『WiLL』2012年2月号(12月26日発売)特集・日本、これからの10年!「擬似保守」は消えてなくなる――保守の10年後はどうなるのかの問いに答えた10枚のエッセーです。日本は過去も今も保守はなく、大切なのは愛国の熱情だけで、単なる「親米反共」といった冷戦思考ではもう時代は乗り切れないことを訴えました。

日本文化チャンネル桜 本日(土)の放送は以下の通り。

番組名 :「闘論!倒論!討論!2011 日本よ、今・・・」

テーマ :一体、日本をどうする!?大東亜戦争開戦70年記念大討論

放送日 :平成23年12月10日(土曜日)20:00~23:00)
     日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
     インターネット放送So-TV

パネリスト:50音順敬称略
     荒谷 卓(元陸上自衛隊特殊作戦群初代群長)
     上島嘉郎(別冊「正論」編集長)
     田久保忠衛(杏林大学名誉教授)
     西尾幹二(評論家)
     西部 邁(評論家)
     藤井 聡(京都大学大学院教授)
     宮脇淳子(東洋史家・学術博士)

司会  :水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

宮崎正弘氏から次の書評をいただきました。ありがとうございます。

真珠湾攻撃から70年 開戦記念日に読むべき格好の書籍はこれ!
  米国の反日ルーズベルト政権は、最初から日本をだまし討ちにする積もりだった

  ♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』(徳間書店)
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 FDR(フランクリン・ルーズベルト大統領)を「日本を戦争に巻き込むという陰謀を図った狂気の男」とフーバー元大統領が辛辣に批判していた事実が、ようやく明らかになった。
この大統領のメモは米国内で、ながく禁書扱いを受けていたからだ(詳しくは産経12月8日付け紙面)。
 小誌読者の多くには、いまさら多くを語るのは必要がないかもしれないが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争であり、米国との決戦は不可避的だった。直前に様々な和平工作がなされたが、それらは結果的に茶番であり、ルーズベルトその人がどんな謀略を行使しても、日本と戦争しなければならないという確固たる信念の持ち主であったから、戦争回避工作には限界が見えていた。

 開戦の報に接して太宰治は短篇「十二月八日」のなかに次のように書いた。
「早朝、布団の中で、朝の支度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞こえて来た。
 『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
 しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の射し込むように鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いている裡に、私の人間は変わってしまった。強い光線と受けてからだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 ほとんどの国民がそういう爽快感を抱いた。後知恵で軍部に騙されたなどとする戦後進歩的文化人の史観は嘘でしかないのだ。

 それにしても、米国はなぜ対日戦争を不可避的と考えたのか。それはマニフェスト・デスティニィにあることを戦前のジャーナリスト、学者、知識人の多くが把握していた。この第六巻では、読売新聞の斎藤忠の著作などを西尾氏は引用されながら、こう総括される。
 「アメリカのこうした信仰は、裏返せば、ナチスとおなじではないでしょうか。アメリカはナチスを憎むといっているけれど、私たち日本人から見れば、ナチスそっくりです。ヒットラーといちばん似ているのは東条英機じゃなくてルーズベルトのほうではないでしょうか」
 その比喩を西尾氏は最近鑑賞された映画『アバター』と結びつける。
 「地球人が機械化部隊でもって宇宙にある星の自然を破壊する。地球人は飛行機で戦い、宇宙人(アバター)は弓矢で迎え撃つ。まさに西部劇そっくりです。西へ西へと向かいアジアを破壊しつづけたアメリカ人の根本の衝動には変わらぬものがあり、彼らの想像力もまたつねに同一です。大事なポイントはその星にすばらしい巨大な樹木があって、その一本の巨木を倒してしまえば宇宙人は全滅してしまうというのがモチーフの中心にあります。つまり、その星のすばらしい樹木はわが国の天皇のようなものなのです」

 ▲日本は最初から最後まで聖戦と貫いた

 西尾さんが本巻に引用された斎藤忠さんは、国際ジャーナリストとして戦後も活躍したが、昭和四十年代にジャパンタイムズの主筆をつとめておられた。背丈こそ低いが古武士のような風格、片方が義眼で伊達政宗風のひとだった。
というのも、じつは評者(宮崎)は品川駅裏にあった同社に氏をよく訪ねて国際情勢の解説を聞いたり、学生の勉強会にも数回、講師として講演をお願いした。その浪花節調の明確で朗々たる講演の素晴らしさに感銘を受けたものだった。あの論客の戦前の作品が復活したことは喜びに堪えない。

 そして西尾氏は、米国の壮大なる徒労をかくまとめられる。
 「アメリカはいったいなぜ、また何のために日本を叩く必要があったのでしょう。戦争が終わってみれば、シナ大陸は毛沢東のものになり、共産化してしまった。アメリカが何のために日本を叩いたのか、まったく分かりません。アメリカのやったことはバカとしかいいようがありません。あの広大なシナ大陸をみすみす敵側陣営(旧東側陣営)に渡す手助けをしたようなもの」で、まことにまことに「愚かだった」のである。

 しかし、この米国の病、まだ直る見込みはなく、ベトナムに介入して、けっきょくベトナムは全体主義政権が確定し、またイラクに介入して、イラクはまもなくシーア派の天下となり、アフガニスタンに介入し、やがてアフガニスタンはタリバンがおさめる「タリバニスタン」となるだろう。愚かである。

 開戦記念日。こういう軍歌が歌われたことを西尾氏は最後のしめくくりに用いられる。
「父よあなたは強かった」の歌詞はつぎのごとし。
 ♪「父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍と ともに寝て 泥水すすり 草を噛み 荒れた山河を 幾千里 よくこそ撃って 下さった」
 嗚呼、評者も学生時代の仲間と呑む機会には二次会で歌う一曲である。
    △△

講演会のチラシ

 11月19日の講演会「ニーチェと学問」は350~400人くらいの入りで、ひとまず盛会だった。講演内容の説明はここで簡単にはできないので、お許したまわりたい。

 当日会場で4枚のチラシが配られた。私の本の広告とつくる会の入会案内である。私の本は相次いで三冊出るので、チラシを見ていただきたい。文藝春秋、新潮社、徳間書店の順で並べる。さいごに、つくる会の広告もお見せする。

 三冊の本のうち新潮社のだけは来年1月刊行で、まだ出ていない。このチラシは編集者がペンで書いた手造りである。文言は気に入っているが、読みにくいので、打ち直して掲示する。

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天皇と原爆

強烈な選民思想で国を束ねる
「つくられた」国家と、
世界の諸文明伝播の終着点に
「生まれた」おおらかな清明心の国。

それはまったく異質な
二つの「神の国」の
激突だった――。

真珠湾での開戦から70年。

なぜ、あれほどアメリカは
日本を戦争へと
おびき出したかったのか?

あの日米戦争の淵源を
世界史の「宿命」の中に
長大なスケールでたどりきる、
精細かつ果敢な
複眼的歴史論考

平成24年1月下旬刊行 新潮社

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シンポジウムのお知らせ

 シンポジウム

これからの原子力を考える
  東京電力(株)・福島第一原子力発電所事故と原子力の行方

日時:平成23年10月21日(金)14:00~16:30

場所:東京・有楽町朝日ホール(有楽町マリオン11階)03-3284-0131

主催:社団法人日本原子力文化振興財団

パネリスト:石川迪夫氏 日本原子力技術協会・最高顧問
      豊田有恒氏  劇作家
      西尾幹二氏  評論家
      山名 元氏  京都大学原子炉実験所・教授
      吉岡 斉氏  九州大学副学長・教授

コーディネーター:田原総一朗氏 ジャーナリスト

構成
福島第一原発事故とは〇事故の原因は?(地震は関係なかったのか)
〇原子力は人間に制御できる技術なのか?
〇なぜ日本の原子力は、事故を想定していなかったのか?
◇放射線・放射能の危険性とは→放射線の専門家1名加わる

日本の原子力の行方、エネルギーの展望〇日本だけが「脱原発」で意味があるのか?(中国や韓国などの動き)
〇原子力をやめるとしたら、使用済燃料サイクルや放射性廃棄物はどうするのか?
〇ポスト原発、やめるとしたら、ポスト原発はどのようなエネルギー源で賄っていくのか(原子力を減らしていけるか)?

チャンネル桜出演のお知らせ(1)

日本文化チャンネル桜でいつも討論・倒論・闘論が行われている時間帯に次の番組が流されます。

私は土曜日(16日・午後8時)に一時間、水島さんと原発について対談放送を行います。ご期待ください。水島さんは原発推進派です。

番組名: 対談スペシャル「桜戦線~夏の陣~」

お相手: 水島 総(チャンネル桜・代表)

内容 :日本を代表する論客と水島総が一対一でざっくばらんに日本を論じる不定期対談シリーズです。
今回は、西尾幹二先生、西部邁先生、渡部昇一先生との対談を一時間毎に順番に放送させていただきます。

放送予定日:平成23年7月16日(土)20時~23時00分
日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)

シアター・テレビジョン出演のお知らせ

■放送:スカイパーフェクTV!262ch 「シアター・テレビジョン」

討論番組 『そのまま言うよ!やらまいか』

収録:2011年5月12日

出演:堤堯、日下公人、西尾幹二、 志方俊之、高山正之、宮脇淳子、杉田勝、小林美佐子、古河雄太、大塚隆一

ゲスト:長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)、
山田恭暉(福島原発暴発阻止行動プロジェクト発起人)

#15 テーマ:東日本大震災とこの国のかたち(民主主義 part7)

放送日 放送時間
6月10日 13:50
6月11日 23:00
6月17日 11:35
6月18日 23:00
6月24日 15:55
6月25日 23:00
6月26日 18:45
6月30日 25:00

シアターテレビ出演のお知らせ

■ウェブ配信:シアター・テレビジョン 無料ネットテレビ「ピラニアTV」http://www.pirania.tv
■放送:スカイパーフェクTV! 262ch 「シアター・テレビジョン」
■番組に関するお問合せ:シアター・テレビジョン03-5114-8886(平日10時~18時)
■チャンネルURL:http://www.theatertv.co.jp
■番組名:討論番組『そのまま言うよ、やらまいか!』(各60分番組)

【放送日 放送時刻】
討論番組「そのまま言うよ、やらまいか」#14テーマ:「東日本大震災、原発と民主主義」
出演:日下公人、杉田勝、高山正之、武田邦彦、堤堯、西尾幹二、宮脇淳子、古河雄太、大塚隆一 ゲスト:長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)(収録:2011年4月7日)
放送日 放送時刻
05月13日 11:15  18:00 
05月14日 23:00 
05月15日 16:40 
05月20日 16:20 
05月21日 23:00 
05月22日 18:10 
05月27日 11:15  24:15 
05月28日 23:00