柏原さんの感想は「私が驚いた二冊の本」と題した相当の大型論評である。読者もひとつ腰を据えてしっかり読んでいただきたい。
私が驚いた二冊の本
2011年の驚きは、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』の刊行でした。この書物によって、張作霖爆殺事件の犯人に関する、秦郁彦氏の河本大作説に大きな疑問が投げかけられることになったからです。いや、より正確に言うならば、秦郁彦氏は、この問題に関する限り土俵際ぎりぎりにまで追い込まれていると言った方がよいでしょう。私は改めて歴史研究の無情さを感じずにはいられませんでした。何年も資料を読み込んで築き上げた歴史像が、ある日新資料が発見されたことによって、完全に覆されてしまうのです。
しかし、歴史の評価が半世紀もたてば全く変わってしまうこともまた真実なのです。これは張作霖爆殺事件に関しても例外ではなかったということでしかありません。ですから、問題は長年の研究の成果発見された成果よりも、むしろその探求の過程が、そして探求する側の人間が問題ということになります。どれだけ誠実に歴史に直面したのこそが問われねばならないのです。
その点で、興味深いエピソードを紹介したい衝動に駆られます。ここは、自分に正直に公表することにしましょう。そのエピソードとは、『謎解き「張作霖爆殺事件」』の山本七平賞奨励賞受賞に際して、秦郁彦氏が出版社に激しく抗議したというものです。その気持ちはわかるのですが、もし抗議するぐらいならば、加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』に対する批判を著作として世に問うべきでしょう。それが、秦氏においては出版社への陰湿な抗議となりはてるのです。
これだから、いわゆる昭和史家というのは救いようがないなあと、しみじみ思うのです。まだ世間のことを知らない高校生を相手に胡適というファシストを絶賛してやまない加藤陽子東大教授に始まり、米外交官マクマレーの文章を意図的に誤読して史料を捏造する北岡東大教授、一知半解の「昭和史」をてんで恥じることのない半藤利一氏、それに出版社に不当な圧力をかける秦郁彦氏と、学者や識者としてより以前に人間としてどこか大きな問題を抱えておられるような方があまりに多いのです。
ですから、歴史研究の無情を見せつけられるといっても、秦氏には同情の念はわかないのです。というか、秦氏の学問上の方法論に決定的な瑕疵があるのです。それは、秦氏が、もっぱら日本の史料しか用いておらず、海外の史料、特にロシア語の史料にはほとんど触れてもいないという点です。加藤氏はロシア語だけでなく、ブルガリア語の史料も用いて検証しています。一つの歴史的事件であっても、様々な国の史料は公式文書を存分に用いなければ、真相が明らかになったとは言えないのです。残念ながら、加藤氏の今回の著作ではGRU(赤軍情報部)の一次史料にまではたどりつくことはできませんでした。それにも関わらず、様々な傍証から、張作霖爆殺事件の真犯人がGRUであったことが、かなりの精度で論証がなされています。はっきりと言えるのは、これを覆すのは難しそうだと言うことです。
これは従来のたこつぼ型の歴史研究には限界があるということでもあります。一つの分野をいくら細かく調べても、歴史がわかったことにはならないのです。歴史的事象を扱うためには、比較対照という手法が欠かせません。用いる史料を、一国の史料に限らず、信頼できる様々な国の一次史料を用いる必要があります。特に20世紀のプロパガンダと欺瞞工作に関わる(あるいはその可能性がある)歴史的事象には、それこそ細心の注意が要求されるのです。
それでも、歴史研究という水準を超えて、比較という点から大きな衝撃をもたらした著作があります。それが、『西尾幹二全集第5巻 光と断崖』だったのです。私が日頃読んでいるのは、フランス語の文献で改めてドイツの思想史に関する文献を読むことはまずありません。しかし、今回『西尾幹二全集第5巻』を読んで、これまで胸の中にもう何十年もわだかまり続けていた大きな謎が瞬時に解決するのを感じました。わかったことはいろいろあるのですが、19世紀末から20世紀にかけてのフランスを知ろうと思えば、ドイツを知らねばならず、その逆もまた成り立つということを直感し、私は文字通り眠れないほど興奮した夜を過ごしました。まさか長年の謎がこのような形で、解けるとは夢にも思わなかったのです。フランスを知るために、なぜドイツを知らねばならなかったのか。それは次のような理由によります。
19世紀の歴史から見れば、ドイツとフランスは鏡のような関係にあります。それはあたかもコインの裏表のような印象があります。たとえば、フランス革命一つとってもそうで、フランスが理性が勝利を収めた革命の国と規定するなら、ドイツは遅れた封建的な国家ということになるでしょうし、ナポレオンによる大帝国の建設を、既存の国際秩序の破壊と見るならば、ナポレオンの失脚後、フランスが封じ込めの対象になったのも当然といえるでしょう。これほど対照的な関係も歴史的には例を見ないのではないでしょうか。それは光と闇の相克と言うこともできるでしょう。当然のことながらどちらが光でどちらが闇かは、対象を見る味方によって入れ替わるのですが。
もうすこし、この点を詳細に考察してみましょう。18世紀末のフランス革命から第二次大戦の終了までの時期のヨーロッパ史における独仏関係は、英露関係と並んで、常に緊張関係の下におかれてきました。両国の関係は、大きく分けて二つの時期に分けることができます。すなわち、ナポレオンの軍隊に対するプロイセン軍の勝利から始まって、ビスマルクの時代の1870年の普仏戦争で頂点に達する、プロイセンの台頭期と、ヴィルヘルム2世の親政以降の、ドイツ帝国没落期とにです。第一次大戦における敗戦と、ナチスの政権獲得、そして第二次大戦における敗北もその没落の過程に含めることができるでしょう。ロシアとの間の再保障条約が解消され、ドイツ外交が浮遊し始めた1890年代からドイツという国家は没落し続けるのです。
1905年にはモロッコの領有をめぐり、ドイツは英仏両国とタンジール事件という国際紛争を引き起こしています。ドイツは、1911年にはやはりモロッコの領有をめぐってアガディール事件を起こしています。これらの紛争ではドイツ側の完敗でした。それに追い打ちをかけるように、第一次大戦におけるドイツ帝国の崩壊、それにナチス・ドイツの劇的な台頭とその没落が続くのです。
私が驚いたのは、こうしたドイツの没落をニーチェはすでに40年前に予見していた、ということでした。ドイツ精神の腐敗が、国家の没落をもたらすであろうことを、ニーチェはすでに気がついていたのです。1870年における普仏戦争の劇的な勝利の結果生まれた、根拠のない楽観主義、こういって良ければ夜郎自大で良しとする精神が、ドイツ帝国を支配していました。ニーチェは次のように述べます。「私が問題にするのは、歴史的な事柄におけるドイツ人の淫らなまでのだらしなさである。ドイツの歴史家には文化の歩み、文化の価値に注がれるべき大きな眼光がすっかりなくなってしまって、彼らは揃いも揃って政治(もしくは教会―)に傭われた道化役者となってしまったが、こういう言い方ではまだ足りない。この大きな眼光は、ドイツの歴史家たちの手で追放されているのである。まず何を措いても《ドイツ的》でなくてはならないのだと彼らはいう。《純血種》でなくてはならないのだと彼らは言う。そうなったときに、歴史的な事柄における価値と無価値を決定することが可能になる、というのである。」
つまり、19世紀末のドイツ国内の政治・文化の状況に対して、ニーチェは痛切な批判を向けているのです。当時のドイツという国家、並びにドイツ人を客観的かつ冷静に批判すると言うよりは、あたかも憎悪の念に突き動かされた呪詛を必死に投げかけているといった趣があります。それは、そうでしょう。「歴史的な事柄における価値と無価値を決定する」のが《ドイツ的》なものであるか否か、《純血種》であるか否かによって決定されるというのは、鼻持ちならない、低俗な、自民族中心主義の表明でしかないわけですから。
思えば、ヘーゲルの『法哲学』においても、オリエント帝国、ギリシャのポリス、ローマ帝国の後に、ドイツ的な立憲君主制を取り上げていました。ヘーゲルがドイツという国家の成り立ちを国家という理念の最高形態と見なしていたことは明白でしょう。ヘーゲルの著作を、あたかも普遍の真理として受け入れるならば、納得ができることなのかもしれません。しかし、少し落ち着いて考えれば、世界史には古代中国の唐を始め、モンゴル帝国、それにイスラム圏のウマイヤ朝やアッバース朝、それにヘーゲルと同時代に存在していたオスマン帝国、インドにはムガール帝国が存在していたことはすぐに思い当たります。これらの帝国の動向がドイツよりもはるかに世界史の内実を構成していたことは、冷静に考えれば、現代の我々はおろか、19世紀末のドイツ人にもわかったはずです。そもそも、ヘーゲルの議論にはかなり多くの留保をつけなければ成立し得ないはずです。
実際の世界は当時のドイツ人が考えていたほど単純なものでも、ドイツの優越を無邪気に主張できるようなものでもなかったのです。にもかかわらず、ドイツは、台頭する経済力を背景に、自己の客観的な自画像を失い、「大きな眼光」を失ってしまっていたのです。ドイツ精神という光の下で、すべてを証明でき、すべて説明しうるという根拠のない楽観主義がドイツを支配していました。ニーチェは、当時のドイツの風潮とその背後にあるこの種のドイツ観念論のまやかしに容赦なく批判を投げかけていたのです。ニーチェの議論は、「近世以降ドイツ人は人類の歴史の担い手であり、精神的自由の自己実現の頂点を形成するという類の19世紀ドイツの、神学、哲学、歴史の至る所で流布していた空しい自尊への、痛罵の意図を秘めていた」のです。
情報史という点では、ヴィルヘルム二世の時代は、ドイツが積極的な情報活動を展開している時期でした。日露戦争の際にもドイツは極東に多くのスパイを送り込んでいました。にもかかわらず、先に挙げたタンジール事件やアガディール事件のように、ドイツがなぜ外交で失敗を重ねつづけたのかが私には長い間不思議でなりませんでした。しかし、ニーチェのドイツ批判を読めば、「なるほど、そういうことだったのか」と改めて納得したのです。
ドイツ観念論は、世界をすべて理解したつもりになっていました。自国の歴史こそが世界史であると考えるようになれば、外の世界に対する理性的な視線は失われてしまいます。ドイツは、客観的な自画像というものをドイツは描けなくなっていたのです。これこそが、ドイツ帝国を崩壊させた大きな要因だったのです。そして本来冷静であるべき情報活動を失敗させたのは、こうしたメンタリティだったのです。
その反面、フランスは、冷静にドイツを観察していました。フランスの公文書館やフランス軍戦史部には、ドイツに関する膨大なインテリジェンス史料が残されています。第二次大戦はともかく、第一次大戦の勝利は、フランスの優れた情報活動によるものでした。ドイツが情報活動に熱心であるにも関わらず、ドイツ外交が空転し続けた理由こそ、まさにこのニーチェのドイツ批判の中身だったのです。どこかでたががはずれた当時のドイツ人の精神が、ドイツの没落を準備していたのです。ドイツの情報活動の失敗の背後に、ドイツ的精神の腐敗があったというのは、個人的には非常にショッキングな発見でした。
とはいえ、ニーチェのドイツ批判は、圧倒的に不利な戦いであったことも事実でしょう。『悲劇の誕生』で、学会を終われ、ワグナーに接近するものの、袂を分かち、最終的には、ドイツという国家に鋭い批判を向けるニーチェという人物に対して、周囲からの反発も相当のものでした。このニーチェに向けられていた有形無形のプレッシャーの大きさが、この『西尾幹二全集第五巻』から伝わってくるのです。ドイツ人社会という「世間」からの敵意のある極度の圧力が、アフォリズムの多用、一見したところではナルシシズムの極地とも思える文章表現を生んでいたのです。しかし、筋肉隆々たる男性的な、あまりに男性的な文体の背後には、ニーチェの孤独と絶望が隠されていました。ニーチェの弱さ、ニーチェの苦しみを明らかにしており、人間ニーチェの横顔に光を当てていることも、この第五巻の魅力を作り上げているといえるでしょう。
では、ニーチェにとって、こうした透徹した予測がなぜ可能だったのでしょうか。その謎を、後世の人間には窺い知ることはできないのは、当然でしょう。しかし、ただ言えることは、ニーチェは自分に、自分の内面に正直であったということです。興味深いのは、『悲劇の誕生』に見られるように、ニーチェの内面からわき上がる着想が、歴史的真実を明らかにしていていたことです。自己の確信を貫くことで、従来の古代観の中心にある、いわゆる調和的なギリシャ的晴朗さはアポロン的仮象にすぎず、その背後に、より根源的な音楽の精神、衝動的・破壊的なディオニソス的陶酔が存在したという新たなギリシャ観を提出しえたのです。
ここで、西尾幹二氏の作家としての姿勢にも、ニーチェとの共通性を認めざるを得ないと思うのです。西尾幹二氏ほど自分の思想に正直な人を私は知りません。何について語っても、何を問題にしても、結局のところ、自分の物語になるというのが、西尾幹二氏の著作の特徴であるといえるでしょう。全ての批判、全ての洞察は、すでに小学生の時代に準備されていました。小学生以来の素直さが、西尾氏の著作の褪せることのない魅力の源泉なのです。こういって良ければ、西尾幹二全集の第5巻の楽しみは、ニーチェの率直さと西尾氏の率直さが交差する思考の力学にあります。そして、これは、国家の運命が交錯する壮大な物語でもあったのです。
この『西尾幹二全集第五巻』の衝撃を何とか文章にまとめようと試みたのですが、どうにもうまくいきません。それはこの著作が、多くの連想を呼び起こすからであり、その衝撃は現在も進行しているからであります。ここからは、戦争に勝利を収め、文化的に(そして外交の面でも)衰退したドイツと、戦争に敗北したものの、文化が興隆したフランスという刺激的な視点が浮かびあがってきます。さらに、フランスにおける印象主義絵画の流行と、印象派の画家達と象徴派詩人達の交わり、とくにステファン・マラルメの問題を、ドイツの精神状況と対比させて考えることによって様々な知見が可能になるように思われます。いわゆるフランス現代思想で、ニーチェとマラルメが好んで取り上げられるのは、偶然ではないのです。存在論から始まるヘーゲルの哲学と、虚無から始まるマラルメの詩は、両国の国民精神のあり方を暗示しています。従来のポストモダンの議論の先進性とその限界も、ニーチェのこの議論を前提にして初めて明らかにできると思います。
こんな訳ですから、フランス文化やフランス史の研究者こそ、ニーチェの著作は一度は読んでおくべきだと痛感した次第です。そして、ニーチェという高山に登る際のベテランガイドが西尾幹二氏であり、今回の全集第五巻であるということを改めて強調して、本文の結びとしたいと思います。
文:柏原竜一
柏原さん、どうもありがとう。
ニーチェをナチスの先駆者のように言う議論がどんなにバカげているかが読者によくお分りになっただろう。現代フランス哲学はニーチェなしでは語れない。
ところで19世紀のドイツの自己幻想は、今度は逆転して、第二次大戦後には反省と自虐にまみれた自己否定像となる。私が「ヒットラー後遺症」と名づけた戦後ドイツの悲惨な精神状況を現出させた。
私の全集第二回配本(第1巻)『ヨーロッパの個人主義』は、既報のとおり二冊の処女作『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』というすでによく知られた体験記を収録しているが、じつはこの二冊は全巻の約半分にすぎない。それ以外の短篇が満載されている。
その短篇の中に「現代ドイツ文学者報告」(『新潮』連載)があり、ギュンター・グラス、ペーター・ヴァイス、ロルフ・ホッホフート、ハインリヒ・ベルその他の政治主義化したドイツ文学界の終末的精神状況に対する私の徹底した批判が語られている。
柏原さんがニーチェの19世紀ドイツへの批判の孤独と絶望ということを語っていたが、同じようなことは戦後の私の留学時代のドイツとの関係にもあったのである。私は日本のドイツ文学界から次第に気持ちが離れていくが、敗戦国の文学を研究専攻した失敗に気がついたのは留学中のこの目立たぬ出来事に端を発する、と今思い出している。
帰国後私は「文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識」(『新潮』1970年2月号)を書いて文壇批評家になった。そしてほどへて三島自決事件にであった。ドイツで体験した現代批判がまっすぐに「文学の宿命」の中に流れ込んでいることに今度気がついた。
『ヨーロッパの個人主義』や『ヨーロッパ像の転換』では見せていなかった私のもうひとつの主題が「現代ドイツ文学界報告」の中にあり、それが糸を引くように三島事件の解明につながる。全集第三回配本『悲劇人の姿勢』の校正刷をいま丁度整理中で、次々と新しい自己発見をしているところである。
「個人主義と日本人の価値観」講演会開催のお知らせ
西尾幹二先生講演会
「個人主義と日本人の価値観」
〈西尾幹二全集〉第1巻『ヨーロッパの個人主義』(1月24日発売)刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。
ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。
★西尾幹二先生講演会
「個人主義と日本人の価値観」
【日時】 2012年2月4日(土曜日)
開場: 13:30 開演 14:00
※終演は、16:00を予定しております。
【場所】 星陵会館ホール
【入場料】 1,000円
※予約なしでもご入場頂けますが、会場整理の都合上、事前にお知らせ頂けますと幸いです。
★講演会終演後、<立食パーティ>がございます。
【場所】 星陵会館 シーボニア
※ 16:30~(18:30終了予定)
【参加費】 6,000円
※<立食パーティー>は予約が必要となります。1月24日までにお申し込みください。
ご予約・お問い合わせは下記までお願いします。予約時には、氏名・ご連絡先をお知らせください。
・国書刊行会 営業部
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・坦々塾事務局
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星陵会館(ホール・シーボニア)へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
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※駐車場はございませんので、公共交通機関にてお越し下さい。)
主催:国書刊行会・坦々塾
後援:月刊WiLL