「自分のいる読書」をするのはそんなに難しい話ではない。自分の弱点をあらいざらい見抜かれた一文に出会って、こわくなって読みたくない、というような読み方もその一つだし、逆にまるで自分のことを語っているみたいだと嬉しくなって、著者に自分の代弁者を見出して喜んで読む、というのもその一つである、と私自身がたしか書いた(220ページ)。
いやな本ならいやだと突き離すのもいい。読みたくないものはあえて読む必要はない。読者と著者の間に「理解」なんて簡単に起こることではない。片言が気にかヽったら、それだけでも成果であり、伝達である。片言が気にかゝるかどうか、そしてそこで一歩立ち停って片言を自分の事柄にひき合わせてみるかどうかが岐れ目である。
私は『聖書』や『論語』を読んでもほとんど分らない。勿論字面(じづら)は何とか追える。が、「理解」なんてとうてい及びもつかない。ときになぜこんな平凡なことばが真理のご託宣のように書かれているのか疑問にさえ思う。つまり、片言が簡単に心にひっかかってこないのである。自分の問題に容易にならないのである。
けれども一般に思想を読むとはそういうことではないだろうか。書かれてあることを100%万人が理解し、実践せよ、と言外に示唆されてはいるが、誰もイエスのように生きかつ死ぬことはできない。十字架上の自由感などわれわれにどうして可能か。また、誰も孔子のように七十七人の門弟のみを理想の道場にして、そこに人類の未来を仮託するようなことなんてできない。人が集まれば必ず政治が始まる。純粋な「聖人」なんてあり得ない。すなわち、思想を読むとはどんな場合にも読者の「誤解」にとどまるという意味である。イエスや孔子と同じように自分も実践することなどできるわけがない。しかしそこに何かを感じ取り、じっと我慢して耳を傾けつづける。思想を読むとはそれ以外にないのだ。
『聖書』や『論語』は際立った例示と思って出しただけで、他の現代のどの著作でもいい。本居宣長でも、内村鑑三でも、キルケゴールでも、福田恆存でも、吉本隆明でも、一般に生き方を問うている著書であれば誰でもいい。彼らの作品とわれわれ読者の関係は、上に述べた原理原則と同一である。
例えば福田恆存の幸福論にはにがい言葉がたくさん並んでいる。美人でない女性には腹が立つようなことばもある。人間の生き方を問う本は、同一の実践を求めているのではない。ある決意を求めているだけである。
なぜこんなことを書くかというと、「山椒庵」の次の書きこみが気になって、何度か読み返し、落ち着かなくなったからである。
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題:一読後の感想 /氏名:M78 /日:2004/06/26(Sat) 09:26 No.1011
特に批判はありません。「男子、一生の問題」は西尾先生の生き様をある程度さらけ出して、若者(先生より若い人)に対して人生論を説いているのですから、批判となると、先生の生き様自体を批判することになります。そういう気にはなりません。
ただ、だれもが西尾先生のような生き方はできない。もし、世の中のすべての人が、西尾先生が理想とする生き方をしたら、偽善者はいなくなるが、逆に混乱してしまうのではないかと思います。偽善と戦う人は、少数派だから意味があるのではないかと思います。
一読後、自分にはこのような生き方はできない。特に、言葉だけではだめだと、行動を重視する点が、無理だと思いました。ニーチェを読んだことはありませんが、ニーチェは行動を重視したのでしょうか?それとも陽明学の知行一致でしたっけ?行動を起こそうとする考え方の影響があるのでしょうか?
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この方は多分気楽に書いたのだろうが、思想を読むとはどういうことかをまったく知らないように思える。そして自分のこの気楽な書き方が著者である私を深く傷つけていることにも気がついていない。
私は私の読者に私のような生き方をせよと求めてはいない。当欄(三)で紹介した高石宏典さんのようにせめて本の中の一語にぶつかって、心の奥まで震撼されるような内心のドラマが生じたらありがたいと思っているだけである。そして、それだけの本だとは思っている。
世の中がみな西尾のような生き方をしたら「偽善者はいなくなるが、逆に世の中は混乱する」
とは何という粗雑な言い方だろう。私は偽善者退治をしていない。「はじめに」に述べたように「偽善」を許容してさえいる。
私は自分をイエスになぞらえるつもりはないが、譬えということで許していただくとするなら、すべての人間がイエスのように生きたら世の中は混乱してしまう、これは許せない、というものの言い方は、パリサイの徒の議論である。
理想のためなら世の中が混乱したっていいではないか、なぜそう考えないのか。この人は思想の読み方を知らない。