今年の私の計画

 「今年の計画」を立てても実行できないことが多いので、年頭に大口は叩くまいと禁欲的になっていたのだが、本欄の「特設掲示板」に次のように書いて下さる人がいたので、あゝそうか、そういう方もおられるのかと感謝の念を新たにしたことから話を始める。

■81 / 親記事)  西尾先生の今年度の計画を教えていただけませんか
□投稿者/ j 一般人(1回)-(2006/01/07(Sat) 19:30:30) [ID:MXCszFYq]
西尾先生は昨年、確か年頭において一年の計画・目標を日録において発表なさったと思います。

先生の一年の計画・目標を見ると、なにかこう、やる気というか勇気が湧いてまいります。

ぜひとも先生のこの一年の目標を教えてください。

 今年の最初の課題は『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋――』(文藝春秋)の出版である。約700ページの大著となる予定だが、『諸君!』連載の稿は書きっ放しなので、まだ幾つも越えねばならぬ資料文献上の山がある。

 この本を出さない限り、別の次の本は出さない。本当は昨夏にもそう決意していたのに、小泉政変が起こって心が乱れてしまった。この本が私の手を離れたら、遅れに遅れている次の二つの仕事を必ず果す。

 翻訳 ニーチェ『ギリシア人の悲劇時代における哲学ほか』(中公クラシックス)

 ちくま新書『あなたは自由か』

 以上二点は年来の約束である。前著は旧訳の再刊だが、ニーチェの少年期の小篇を新訳で追加しようと計画している。後者は三分の一ができあがっているのに中断し、担当編集者にご無礼のしっぱなしである。

 これとは別に絶版の旧著『人生の価値について』がWACより同標題のままに今年の春に改版刊行される。川口マーン恵美さんが解説を書いて下さる。川口さんは今ドイツのシュトゥットガルトにご在住で、昨年末に『ドレスデン逍遥』(草思社)という歴史と現代を織り絵にしたような美しい、深い内容の本を出されたので、これも読んでいただきたい。

 雑誌のほうではようやく決心がついて、というより制限時間いっぱいになって、追われるような雑誌の事情があってのことだが、「わたしの昭和史」の『正論』連載を初夏までにはスタートさせる。

 これとは別に二つの共同研究を実行する。インテリジェンス研究家の柏原竜一さん(ハンドルネームは無頼教師さん)と二年つづけている戦間期以後の世界史と日本史の関係究明がその一つである。もう一つは年末にお会いした作家の佐藤雅美さんと、専門家に就いて、荻生徂徠の『論語徴』の講読を開始する。

 以上は必ずやらなくてはならない。これをやり遂げるためには、今年は激動の年と分っていても、言論誌への寄稿は最小限に控えることが必要である。雑誌原稿を書いていると、歳月はあっという間に過ぎる。まとめて本にしても、充実した本にはなかなかならない。

 私には残された時間は少い。執筆に追われていると学習の時間が足りなくなる。書く方を少くして読む方を多くしたい。今年は次の歳月の表現のために蓄積の年にしたい。したいというより、そうしないわけにはいかないほどに文献や書籍の山にとり巻かれているのである。

 仕事場を三つに分けることとする。書籍の置き場をさらに工夫することとする。それが忙しい日々における今の私の目前の課題である。

謹賀新年 

安倍晋三氏よ、いざとなったら職を賭して闘ってほしい(二)

 今の日本は米中の代理戦争の舞台となっている。旧田中派から福田、加藤、山崎(拓)氏に至るまでの親中派を小泉首相が押さえることに成功しているのはアメリカの力を背に負うているからである。しかしその分だけアメリカに屈服し、利益を奉納している。郵政民営化はアメリカへの日本からの富の移転であり、皇室典範改定による天皇制度のなし崩し的否定は日本の歴史を骨抜きにする「日本のアメリカ編入」の第一歩である。代理戦争において一方を抑えることに成功すれば、他方への屈服と譲歩が強まるのは理の当然である。

 われわれの思想の立場は米中のいずれにも与しない日本の立場の堅持であり、主張である。石原氏であっても、安倍氏であっても、麻生氏であっても、そのことをやってくれるなら誰でもいい。逆にそのことをやってくれないなら、どの名前の政権も最初から評価しない。

 言論界における思想家は政局占いみたいなことをすべきではない。オピニオン誌(言論誌)がこれら政治家をスター扱いにし、巻頭に掲げたりするのはおかしい。思想にとって政治家は思想実現の手段にすぎない。政権の顔色をうかがうような思想家のあり方、次の政権は誰かを探り、そこからものを考えるような言論誌のあり方は間違っている。言論誌にあってはどこまでも言論が主であって、政治は従である。

 政治は現実に妥協するであろう。それは仕方ない。しかし思想に妥協はない。政治家に対しては要求あるのみである。目的とする思想のために地位を捨ててでも奮戦してもらいたいと考える。そう願うのはわれわれの立場である。

 「たなからぼた餅」を狙っているだけの安倍氏などは見たくはない。伝えられる通りに安倍氏が政権に至近距離にあるなら、この二案件で後へは一歩も引かない勇者であってほしい。それでこそ次の世代の政治家の資格が保証される。

 かりに首相になれなくても、勤皇の士、真の愛国の士の実を残せば、凡百の政治家から群を抜いてその名が政治史に刻まれるだろう。

 私はそういう政治家を氏に期待している。言論誌、オピニオン誌の思想家諸氏よ間違ってもこの点で志の低い「政局評論家」になってはいけない。年頭に際しこのことだけは切にお願いしておきたい。

謹賀新年 平成18年元旦

謹賀新年 平成18年元旦

安倍晋三氏よ、いざとなったら職を賭して闘ってほしい(一)

 国会が始まると皇室典範改定がまっ先の課題になるだろう。首相はいよいよになったら事の重大さに気がついてとり止めるのではないか、という説と、いや予定通りどんどん進めるだろう、という説と二つある。誰に聞いてもどちらか分らない。

 ある人によると、安倍官房長官は「長子優先」の条項を外させようという、首相に対する条件闘争を始めているらしいから、安倍氏も首相の肚は決まっているとすでに諦めているのではないか。そして結局は自分の力の及ぶ範囲ではなかったと首相の言うが侭になる積りではないか、そう考える人が多いようだ。しかしこのまま実行されると恐ろしいことが起こるかもしれない。

 皇室典範改定が万一回避されたとしても、それは首相が追悼施設の件を政局にらみで――福田・山崎・加藤その他の反小泉勢力の結集を牽制するために――さっと取り止めたのと同じ何かの目論見があってのことで、思想から出ているのではない。首相には政局操作の目的はあっても、思想はない。何か別の目的で皇室典範から手を引くことはあるかもしれない。例えばこれを引いて、代りに金正日体制との不完全な条件を認めたままの国交正常化をしゃにむにやってしまうということなどである。

 皇室典範改定の有識者会議に首相は自ら出席していた、という情報が年末に私の耳にも届いている。とすれば、あのロボット工学専門の座長の傲慢さは首相のお墨つきがあってのこととわかる。知識の少いままに思い込みが激しい小泉氏、他人の意見に耳をかさない彼のことだから、皇室典範も北朝鮮との妥協も思い切ってやってしまうのかもしれない。どちらもアメリカの意向に添っている。アメリカは前者で占領政策を完成できるし、後者でアジアにおける力の政策をとる余裕のない現状の容認にもなる。

 いうまでもなく、皇室典範改定は30-50年後の天皇制度の消滅を意味する。このことを私は最近の二著(「民族への責任」 「『狂気の首相』で日本は大丈夫か」)にも書いたし、朝日新聞12月3日付の記事にも書いたし、年末に出た『正論』2月号でも言及したのでここでは繰り返さない。

 核開発の可能性を残したままで、しかも拉致問題の部分解決のままで北朝鮮との国交回復にあいまいな妥協をすることは日本の利益にはまったくそぐわない。しかしアメリカの当座の利益に適う場合もある。アメリカが中国と駆け引きする中で日本の立場を考慮しないケースである。

 皇室問題と北朝鮮問題で思想家の立場ははっきりしている。アメリカの利益ではなく日本の利益を追求することである。政治家がそれにどの程度歩み寄り、どの程度実現してくれるかは個々の政治家の課題であって、思想家のなし得る仕事の範囲を越えている。思想家は正論を言いつづけるだけでよい。

 政局は明日どうなるか分らない。思想家は自己の信念をできるだけ現実に役立つように主張するだけで、政局に直かに影響を及ぼせるかどうかはその先の問題で、結果でしかない。

 思想家は政局に自分を合わせる必要はない。思想はどこまでも思想であって、政権の動きとは別である。

 ところが自分の好みの政治家、支持したい政治家に対し、思想家が政治的に振舞いすぎるということはないだろうか。ひところは石原慎太郎政権を作りたいという思惑から言論誌がかなり一方的な応援議論を展開していたし、最近では安倍晋三政権を作りたいばかりに、しかも長期政権にしたいために次の次で良いとか、小泉との攻めぎ合いで傷を負わせない方がよいとか、まるでわが子を見守るPTAのような感覚で政局を考えている人々がいる。

 私は次のように考える。皇室典範改定と核つき金正日体制との国交正常化を阻止するのがさしあたりの国益を守る最大の課題である。安倍晋三氏はそのために地位を投げ打つ覚悟でいてほしい。いざとなったら首相に弓をひく決意をしておくべきだ。それくらいのことを彼は考えていると私は信じている。