読書の有害について(三)

 しかし今ニーチェを離れて考えて、われわれが数少ない、自分で筆を執る創造の瞬間を思い浮かべてみると、誰にしても経験があると思うが、たしかに他人の思想や言葉はまったく役に立たない。研究論文を書く場合でさえ、自分の内心のざわめきに形を与えようとする衝動がわれわれに筆を執らせるのである。

 内発の声がすべてである。他人の思想や言葉は、そういうとき、たとえ大詩人のそれであろうと、邪魔であり、よそよそしい代物だ。ニーチェはそのような創造行為の不安定を突きつめた形で実行したまでである。

 午前中に執筆するある日本の作家は、早朝決して新聞を読まないと書いていた。動き出す前の自分の思想が新聞の汚れた文章で濁ることを怖れるからである。

 また、作品を書き出す前に、少なくとも数日は他人の小説は読まない、と言っていた作家もいる。否、作家でなくても、その程度のことは、物を書く人間は誰でも自分の生活の智恵として実践している。

 早朝に本を読むのは「悪徳」だというニーチェの戦術の言葉は、だから格別珍しい体験から出ているようには思えない。

 ただ彼のように「読むこと」は精神の怠惰だという意識の緊張感の持続を生涯一貫して維持しつづけることが、誰にも容易に出来ないだけの相違である。そして、この相違は小さいように見え、現実には大変大きい。

 従って、そのような彼を日本の外国文学流に翻訳する私の今の行為が、最初からいかに矛盾した破綻を孕んでいるかという本稿の問題の核心は、読者にはもうすでに十分にお分りであると思う。

 なぜなら「翻訳」はわれわれにとって「読むこと」の最も現想的な形態であり、われわれはそれを疑わずに、翻訳を最重要の仕事と看做すことにもっぱら安住してきているからである。

おわり

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

読書の有害について(二)

 ニーチェはもともと「読書」をすら軽蔑している人だ。

 「私は読書する怠け者を憎む」と『ツァラトゥストラ』の中で書いている。彼にとって他人の思想はすべて自分の思想を誘発するための切っ掛けでしかない。自分の内心のざわめきに耳を傾けること以外に本質的に関心のない彼には、他人の思想に身をさらす「読書」は自分の思想の展開にとっての邪魔であり、自分の思想を持たない「怠け者」のやる行為にすぎないのである。

 そういう彼が、他人の思想のテキストの精読に生命を賭けた文献学という学問と最初に出会ったのは大変な矛盾であり、皮肉であるが、しかし彼は元来が眼も悪く、予備知識もあまり準備しないで、他人の思想の中心部を鷲摑みにするタイプだった。

 こういう彼にとっては、たしかに他人の思考や知識は自分の思索の妨害物であり、せいぜい自分の思索を休止しているときの暇つぶしか慰み程度のものでしかなかったという事情はよく分る。『この人を見よ』の一節に次のようにある。

 「読書」とは私を、私一流の本気から休養させてくれるものである。仕事に熱心に没頭している時間に、私は手許に本を置かない。つまり私は自分の傍で誰かに喋ったり考えたりさせないように、気を付けている。……第一級の本能的怜悧さの中には、一種の自己籠城ということが含まれている。私は自分に無縁な何かの思想がこっそり城壁を乗り越えて入ってくることを、黙って許せるだろうか。そして、ほかでもない、読書とはこれを許すことではないのか。」

 本を読むことで何か仕事をしたような幻想に陥り勝ちなわれわれ書斎型の人間に対する痛烈な批判の一語になっているともいえるだろう。

 他人の言葉や思想を手掛りにしてしか物を考えられない(従って物を書けない)われわれ末流の時代の知識人は、研究とか、学問とか、評論とか称して、何か創造的に物を考えた積もりになっているが、果たしてそうか。簡単にそう言ってよいのか。ニーチェはわれわれにそういう鋭い原理的な問いをつきつけているように思える。

 「学者は要するに本をただ〈あちこちひっくり返して調べる〉だけで、しまいには、自ら考えるという能力をすっかりなくしてしまう存在である。…本をひくり返していないときに、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、なにかの刺激(――本で読んだ思想)に答えているだけである。結局、何かにただ反応しているだけである。学者はすでに誰かが考えたことに対し Ja だと言ったりNein だと言ったりするだけで、批評することに力の全てを使い果たし、――自分ではもはや何も考えていない。」

 耳の痛い言葉である。

 さらにもう一つ、学者とは「火花――つまり<思想>を発するためには誰かにこすってもらわなければならない単なる燐寸(マッチ)である」とまでニーチェは言っている。彼一流の奇抜な言い方である。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

読書の有害について(一)

 「早朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面がすがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、を読むこと――これを私は悪徳と呼ぶ!――――」と、ニーチェは『この人を見よ』の中で言っている。だが私のように最近、時間があれば早朝であろうと真夜中であろうと、急がされて翻訳という読書に追い立てられている昨今では、彼のこの高度に自分の意識のみを透明に集中化して行く瞬間の存在が、ただもう羨ましい。

 白水社版のニーチェ全集(全24巻)の中で、『偶像の黄昏』『この人を見よ』『アンティクリスト』の三作を担当した私の一巻の出版だけが、まったく私の個人的事情から遅延し、版元と他の翻訳参加者に大変にご迷惑をお掛けしたため、今、あらゆることを犠牲にして、ひたすらこの課題に打ち込んでいる。そのため、他の案件に頭が回らないので、訳し了ったばかりの『この人を見よ』の中から、二、三の短い言句を引例して、この稿の責めを果たしたいと思う。

 が、それにしても、われわれ日本の外国文学者ほどに翻訳という手仕事に多大の時間と労苦を捧げる者は他におるまい、と最近つくづく考えさせられるので、その点について先に一言しておきたい。

 日本でも哲学者や社会科学者はそれほどでもない。何といっても外国文学者が翻訳の仕事を最も尊重する。それにはそれ相応の理由があると思う。われわれの仕事の起点はテキストの精読だからである。加えて、主として外国産の他人の思想や作物を手掛かりにしてしか物を考えない、というのがわれわれのほぼパターン化した思考の習性となっているから、ますますその前提は疑われない。

 また、外国文学者でなくても、一般にわれわれ書斎の人間は、本を読んでいると何となく時間を充実させたような錯覚に陥り勝ちな存在である。読書がそのまま仕事だと本気で信じている人さえ少なくないほどだ。

 読書は他人の思考に自分をさらし、そこで得た体験で自分を豊かにすることだといえば聞こえはいいが、実際には、他人の思考に自分を侵害され、食い荒らされて、自分を失ってしまう例も稀ではない。

 真摯な読書家にかえって多い事例である。そして、われわれ外国文学者にとっての「翻訳」とは、緻密に、正確にテキストを読む努力の実践課題でもあるのだから、他人の思考に自分をさらすこの「読書」の延長線上にある活動、あるいはその誠実な理想形態ともいえるだろう。

 そう思えばこそ私もまた、振返ってみると、案外にエネルギーの多くを翻訳に注いできた。私の達成した訳業は量的にも質的にも乏しく、この道の諸先輩の多くの偉業を前にすると翻訳がどうのこうのと言えた義理ではないのだが、ただ、翻訳の相手が今日話題にしているニーチェのような場合であると、私は大変に奇妙な感慨、自分のやっていることがどだい極端に矛盾した行為なのではないかという思いにすら襲われるのである。今日はそのことを少し考えてみようと思う。

つづく

『べりひて』昭和61年(1986年)5月10日(社団法人)日本ゲーテ協会より

お知らせ

日本保守主義研究会講演会

 GHQが6年8ヶ月の占領期間に行った重大な犯罪行為とも言うべきことは、日本国内における苛烈な焚書であった。占領期間中、GHQは長年の間積み重ねてきた日本の知的財産や歴史を断絶すべく、一方的に世に出回る書籍を回収、次々に世の中から葬っていった。60年の時を経て、その実態が少しずつ明らかになってきている。

 今こそ隠されてきたGHQの焚書に目を向けねばならない。

●日本保守主義研究会講演会

「GHQの思想的犯罪」 

 講師:西尾幹二先生(評論家)
 日程:7月13日(日曜日)
 時間:14時開会(13時半開場)
 場所:杉並区産業商工会館(杉並区阿佐ヶ谷南3-2-19)
 交通アクセス:
 ※JR中央線阿佐ヶ谷駅南口より徒歩6分
  地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅より徒歩5分

会場分担金:2000円(学生無料)
 
参加申し込み、お問い合わせは事務局まで。当日直接お越しいただいてもかまいません。

TEL&FAX: 03(3204)2535
        090(4740)7489(担当:山田)
メール:  info@wadachi.jp

WiLL8月号感想

小川揚司
坦々塾会員 37年間防衛省勤務・定年退職

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 西尾幹二先生

 前二篇の御高論も勿論のことながら、「WiLL」8月号の今回の御論は、格調高く、かつ平易・簡潔に説かれた「国体論」として一入に感慨深く拝読しました。視界大いに開け、どれほど多くの心ある読者、尋常な国民が共鳴をともにしているであろうかと、感銘いたしているところです。

 西洋において現実の差別の歴史への否定から出てきたイデオロギーとしての「民主主義」や「平等」の観念(建前)や、東洋において中国の歴史に如実に繰り返されている差別支配の桎梏と較べ、吾が国の「天皇と国民、国家社会」の歴史は何と麗しいものであるのか、「公正の守り神」として無私に徹し給う天皇と、それに対する国民の宗教的信仰心が相俟って、現実のものとして築き上げ営んできた吾が国の歴史のこの真実を、東洋・西洋の諸民族、諸国民がもし正確に理解したとすれば、どれほど羨望の的となることであろうか、にもかかわらず、明治以来、吾が国の指導層を占めてきた洋魂洋才の日本人自身によって、この誇るべき国柄と歴史が如何に歪められ抹殺されてきたのか、先生のこのたびの辞立に啓発され、今あらためて深く噛みしめております。

 就中、先生の「五箇条の御誓文」に関する辞立と憲法改正の中核に関する御提言は、平成における国体論の至言であると考え敬意を表し上げる次第です。
 
 明治記念絵画館に列挙される明治天皇御生涯の絵画の中の「五箇条の御誓文」には、明治天皇が皇祖皇宗を祭り給う後ろ姿と、その背後に威儀を正し頭を垂れる百官の様子が格調高く描かれており、天皇が無私の精神によりなお慎み深く次元の高い存在に連なり、その聖徳を背後に連なる国民に及ぼし給ひ、そして百官が国民を代表してその天皇を畏敬しかつ恭慕する姿を白描したものとして印象深く心に留めておりますが、先生のこのたびの玉稿を拝読し、絵画館のあの絵画をありありとまなかいに浮かべながら、拙い感想を書かせていただいたところでございます。

   小川揚司 拝