阿由葉秀峰 坦々塾会員
(2-1)確かなものはなに一つないという懐疑のただ中でこそ、人は確固とした信念に、瞬間の生命を賭けうるのである。認識と行動との間にはつねに紙一重の差しかない。人は自分を疑いつつ、自分を信ずるしかない。そして、その瞬間を信じた行為だけが言葉となる。
(2-2)言葉は、事実を事実どおりに指し示すのに少しも便利なようには作られていない
(2-3)歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。
(2-4)専門の研究家はたいてい視点ということを重視するが、視点の卓抜などというものは、時代が変われば、すぐ滅びる。
(2-5)批評とはまず対象を壊すことだが、対象は消えた、しかし自分は何かの立場に立って対象を壊しているのではないか、と気がついたときに、今度は自分のその立場をも壊さずにはいられないのが強い批評精神の必然的に赴かざるを得ぬ方向だろう。はげしい否定の精神は一切を消す。自分の拠り所をも消す。そのとき批評ははじめてクリティック(危険)なものとなる。まず、なによりも、自分にとって危険なものとなる。
出展 全集第2巻「Ⅰ 悲劇人の姿勢」
(2-1) P20 下段 「アフォリズムの美学」より
(2-2) P25 上段 「アフォリズムの美学」より
(2-3) P36 下段 「小林秀雄」より
(2-4) P46 上段 「小林秀雄」より
(2-5) P47 下段 「小林秀雄」より