九段下会議の考え方 (七)

  
*****社会に浸透する「甘い言葉」*****
 
伊藤: 国家は何によって成り立つのかといえば、まさに歴史への思いであり、愛国心であり、道徳心であるわけです。それをこともあろうに、まさに狙い撃ちにして自己否定しようというのですから、たしかに国家がおかしくならなかったこと自体不思議でもありますね。

八木: 結局、社会党のイデオロギーを持った人たちが、自民党の中に散らばって行ったわけではなく、社会党のイデオロギーが薄められた形で保守の方に影響を与えていったのです。自民党の中でおかしなことを言う人たちは、恐らく自分たちが社会主義イデオロギーに則って何かをしているという自覚はないと思います。戦後六十年、教育の世界は左翼が主流で、そういう思想を日々子供たちが学び、大人になっていった。今や学校で教わったことに疑問を持つ機会を持たないで今に至っているという人たちが大半を占める次代です。保守系の政治家にしろ官僚にしろ、同じプロセスを踏んできているのですから、はっきり保守であることを自覚しない限り、自分たちが正しいと考えていることが、多分に社会党や共産党の発想に根があるということが分らないと思います。

 ところで、かつて社会党や日教組や共産党は「自由」に代表される甘いことばをふりまいてきましたが、それが今は、「みんな違ってみんないい」とか「多様な生き方がある」とか「一人一人を大切にしよう」とか「弱者の権利」とか「私たちにも別の生き方があるはずだ」などという、耳に心地よいことばを連発しています。私は日本は戦後六十年かけて糖尿病になっているように思うのですが、さらにそういう甘いことばを聞かされ続けると、体は確実に弱っていくと思うのです。

西尾: よく「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉が通俗化したモラルとして使われています。これはある意味ではいいことです。社会の中にしっかりした批判や道徳があるときには、人に迷惑をかけないということは、自分もしっかり生きるんだということが暗黙の前提となっているからです。

 ところが、今はこの言葉が人に迷惑をかけなければ何をしてもいいということに一転してしまっています。人に迷惑をかけるなということは、女の子は援助交際をしてもいいのではないか、私の体は私の自由で、それをどうしようが誰にも迷惑をかけないという思想にパッと一転してしまっている。

 つまり、これまで支配していた常識の世界、あるいは何も言わなくても一人で存在していた日本人としての秩序意識、もっと狭く言えば恥ずかしいとか、他人への気兼ねとか、他人の目をおそれるとかいうことが抑止力になっていたのですが、そうした秩序意識が崩壊してしまいました。

 これはドイツで経験したことですが、学校の先生が産児休暇を休みと休みの間にうまく取ると半分ぐらいは学校へ行かなくてもすむということで、実際に先生たちがやっていた。小学校の子供たちが毎日のように、今日も先生が来ないので授業が休みになったと言って、11時ごろに帰ってきたのです。また薬屋さんが女性を雇うと、産休で徹底的に休む。その間も給料を払わなければならないから小さい薬屋さんは倒産してしまう。そういうばかばかしいことがドイツ社会を覆って、それがドイツの停滞の原因となっているのです。日本では信じられないことですが、ドイツはそういう国なのです。私は徐々に日本もそうなってきていると思うのです。

他人の目を意識するのは日本のモラルの弱さであり、西洋では神さまがあるから他人の目など関係ないと言われますが、確かにそういう面もあります。しかし、日本人は他人の目を意識するから弱いというのは間違いです。他人の目を意識して、世間というものに顔向けできないようなことはしないという思想があったがゆえに、社会秩序が守られてきたのです。僕はこれは大事なことだと思っているのです。ところが、最近の日本人は他人の目など関係なくなっているんです。

伊藤: 今おっしゃられたように、われわれは自由を満喫してきたわけですが、自由が何故に成り立ってきたのかという、自由の基盤について何も考えないで、むしろ自由の基盤をつぶすことをずっとやってきた。アメリカに守ってもらいながら、その自由の基盤である道徳や国家ということを意識することもなく、むしろそういうものを壊すことが新しいということで延々とやってきた。その結果が、先ほど八木さんが言った糖尿病になりかかっている日本という指摘だと思うのですが、これは自壊作用であると同時に、やはり日本をそうしたいと考えるある種の勢力から攻撃を仕掛けられた結果だとも思うのです。

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