九段下会議の考え方 (六)

*****「保守」の甘い認識と錯覚*****

八木: 韓国の盧武鉉政権を支えているのは、三八六世代と言われる若い世代です。つまり30歳代で80年代に学生時代を送った60年生まれの世代という意味で、これは数年前につけられた名称ですから今はもう40代になっているのですが、彼らは学生時代に民主化の時代を迎えます。この民主化というのは文字通りの民主主義運動ではなく、北の思想に対して寛容だという意味です。

 その結果、北朝鮮に対する警戒心が完全に解かれた世代が誕生したのです。彼らが20年経って社会の中枢に踊り出て、今や北への警戒心を持たない政府を作り、かつてのKCIA、今の国家情報院の院長がかつて親北の運動をしていた人物という時代を迎えています。

 しかし、これは決して韓国だけの現象ではありません。共産主義思想、左翼思想に対して警戒心を解いたのは、政府や自治体レベルではむしろ日本の方が先だったかもしれません。その最たるものが、平成6年の自社連立政権です。このときに、冷戦時代には少なくとも表向きは対立関係にあった自民党と社会党が完全に手を握った。その際、社会党が自民党の思想を受け入れたのではなく、逆に自民党が社会党の思想を受け入れることになった。つまりベルリンの壁が壊れて、逆に西側に東側の思想が浸透したというのが日本における自社連立の姿だったのです。

伊藤: 実は、私も当時そういうことを書いたことがあるのですが、ただそれをいうなら、そういう無防備な状態は細川政権の誕生から始まっていると言った方がよいのではないでしょうか。

八木: もちろんそうです。細川政権はイデオロギーを無視した結びつき方をして出来たのですから、あれはまさに左翼思想に対する警戒心を政権担当者が失った姿の第一歩だったと思います。当時の武村正義官房長官をアメリカ政府は北朝鮮のスパイと見て警戒していたほどです。しかしその路線を確定させたのが自社連立ではなかったかと思います自社連立のときに今に続くおかしな政策がたくさん出ています。

伊藤: 種を蒔かれた細川内閣でも、たとえば文部大臣に赤松良子という元女性官僚が登用されました。当時は、どういう人物であるかよく分っていなかったのですが、その後の赤松さんの軌跡をずっと辿ると、結局フェミニズムの闘士であるわけです。つまり、冷戦が終わった後、イデオロギー的共存が始まったのだという主張が叫ばれ、結果的に体制観念がなくなっていった。そういう考え方は意味がないという話になって、どんどんそういうものに対する警戒心が溶け出した。

八木: 冷戦の終焉とともにイデオロギー対立の時代も終わったと言い始めたのは左翼の方だったのです。それを保守が真に受けて、ならば自分たちの考え方に従うのだなと受け止めたところ、そうではなかったのです。

伊藤: そうした保守の錯覚の根本には自由というものに対するある種の認識の甘さ、幻想があるというのが西尾先生のお考えですね。

西尾: ええ。同時に自社はともに元々はっきりした対決思想を持っていなかったということです。社会党が現実にコミットしない幻想政党であったのとパラレルに、自民党は、幻想に踊らされてはいなかったものの、現実にコミットしないで済んでいたという点では同じです。派閥単位の争いはしても思想上の争いはしなかった。結局、国際共産主義の防波堤としての議員の数合わせで済んでいたからです。言ってみれば、自社五五年体制と言われる局面の中では、ソ連を中心とする勢力とアメリカを中心とする勢力の代理戦争が行われていて、本当の意味での思想上の対決をしてこなかったのです。

 だから、国際共産主義に対する防波堤の役割が必要でなくなったことがはっきりすると、何をしても良いのではないかということになる。社会党と組んでも、それで国際的不安が引き起こるわけでもないということで禁じ手が使われた。自社連立政権の誕生は、ベルリンの壁が落ちたことの明らかな表れなのです。
 
 本来であれば、ベルリンの壁が落ちたときに、先ほど八木さんがおっしゃったように、保守が理念を再確認するという方向に向かうべきでした。ところが、逆に保守が元々から無理念・無理想で、思想対決や政策論争もしないで明け暮れてきた勢力であったがゆえに、易々と社会党というイデオロギー集団に呑み込まれていった。そしてシロアリのように少数派が大所帯をチリチリと食い尽くしていきました。村山政権下で迎えた戦後五十年には、国会謝罪決議という信じられない光景まで出現した。そう思うと、それから十年間、日本はよく安全でありえたと、むしろ不思議な気がするくらいです。
  

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