三島由紀夫の自決と日本の核武装(その一)

 昨年の憂国忌シンポジウムで四人のコメンテーター(桶谷秀昭、井尻千男、遠藤浩一、私、司会者。宮崎正弘)が交互に3回づつ没後40周年の感想を語った。ひとりの持ち時間は合わせて30分くらいだったろう。私は用意していた一つのまとまったテーマを披露した。

 それはわが国の非核三原則と佐藤栄作のノーベル平和賞と西ドイツの核戦略とに関係のあるテーマである。自決の際の「檄」に三島由紀夫がNPTについて述べていたという、私なりの新しい発見があっての内容だった。「檄」を読み返して気がついたのである。そのときは自分の眼を疑うほどに驚いた。「檄」は何度も読んでいたはずなのに読み落としていたのだった。

 何日か後に産経新聞に石川水穂氏が私のこの発言を特別に取り上げた記事を書いてくれた。反響は他からもあった。関岡英之氏がテレビと講演とで言及しYou Tubeにもなって流れた。花田紀凱氏から寄稿依頼があり、私はより詳しいデータ分析を加えて『WiLL』2月号に「三島由紀夫の死と日本の核武装」を発表したのでご存知の方も少くないだろう。

 ところが、私のこの『WiLL』論文を読んでいないある未知の方で、憂国忌の私の発言は聞いていて、それにだけ基いて、今までに私が耳にしたこともない驚くべき内容の新情報を寄せてきた方がいる。宮崎正弘氏のメルマガの読者からの通信欄に(ST生、千葉)とのみ名乗った方の投稿がそれである。私のこの「日録」にはコメント欄がないので、宮崎さんの所に投稿されたらしい。

 まずはそれを読んでいただこう。

(読者の声1)平成22年の憂国忌での西尾先生のご発言で謎が解けました。非常に信頼できる方から聴いたことではありましたがなぜか腹の底に落ちない、どこか違うという思いが頭から放れませんでした。
衝撃的な話ではありますが、話の主は誠実無比、頭脳明晰な方です。直接の関係者がすべてなくなった今、その意味することを残った我々が真摯に探究できるのでしょう。否、結論をださざるを得ない時がすぐそこにきています。
宮中では長年の習わしで、どんな方でも80歳を超えるとお勤めをやめることになっています。その例外として、真崎秀樹氏は昭和天皇の通訳を80歳を超えてからも、陛下のたってのご希望でお勤めになられていました。
ある日、部屋に陛下と真崎氏のみがいたとき、陛下は窓の方をみながら、「私がおまえをその歳になっても使っているのは、真崎大将の長男だからだ。私は今までに二つ間違ったことをした」とおっしゃられました。
私がその話を聴いたのは、真崎氏と親しい仲であり、その方自身陛下から非常に信頼された方からです。昭和40年ころ宮内庁の職員組合が宮中祭祀は公務ではないので手伝わないという決定をしたとき、民間人で手伝う人を選定することを委嘱された方です。どの程度、陛下がご信頼なさっていた方かわかると思います。
その方は、「二つの間違いの内の一つは、二・二六事件での処置である事は、陛下のお言葉から明らかである。もう一つは確かにはわからない。私はポツダム宣言を受け入れたことであると思う」といわれました。
私は、「大東亜戦争を開戦したことではありませんか」と言ったところ、「あの時は政府が既に開戦することを決めていた。政府が決めて了解を求めてきたら陛下は承認するしかなかった」とのお考えでした。
陛下を私などとは比べ物にならないほどご存知の方のいわれたことなので、ひとかけらの疑念はありましたが、そうなのであろうと思っていました。
しかし、西尾氏の発言でそうではないことに気づきました。
それは日本陸軍が研究していた原子爆弾の開発を禁止したことです。
結局、原子爆弾の惨禍にあったのは日本人だけだ。相互抑止が働いて、日本が爆撃されただけでそれ以降は使われなかった。それなら、日本が先に開発して実験だけすれば、だけも傷付かずに、あれほどの惨禍を日本人にもたらさずに終戦に持ち込めたはずだ。その想いが陛下をさいなみ続けていたのでしょう。
昭和19年の夏か秋ごろ、参謀総長が参内して陛下に「原子爆弾開発の目処がつきました」とご報告したところ、「お前たちはまだそんなものをやっていたのか」ときつくお叱りになり、開発中止となったという話が巷間にも伝わっています。
しかし一般にはそれは旧陸軍の人たちが自虐的に心の慰めのために作った嘘話であると信じられています。あの当時の日本の工業力では高純度のウラン235やプルトニウムを充分な量確保することは不可能であった、起爆装置の開発も無理だった、それに、開発した痕跡が残っていないというのが一般の認識です。
しかし私は、あの時点で日本の原爆開発は完成間近まで行っていたと確信いたしております。一つには、当時陸軍の参謀で陸軍大学優等卒業の方から以前、「昭和19年の夏に参謀長から新型爆弾が完成したので、これで戦争に勝てると聴いたが、12月にあれは陛下が使うなとおっしゃられたので使えなくなってしまった」と聴いたからです。
陸軍内のエリート人脈に属したその人には極秘情報が通常のチャネル以外から入ってくる。しかもその人は妄想や嘘話とは対極にある冷静かつ論理的な方です。
もう一つは、現在知られている2タイプの原子爆弾とは全く違うデザインの原子爆弾を作ることが可能であると私は考えています。そのデザイン自体は口外できませんが、当時の日本の工業水準でも十分開発可能であり、遥かに少ない量の純度のそれほど高くないウラン235を使って超小型の原子爆弾を作ることが可能なはずです。大規模な設備は不要なので、昭和19年の12月に開発中止になったのなら設備の痕跡を消すことは簡単であったことでしょう。
その方は、現行のウラン型原子爆弾を前提としてドイツから原子爆弾開発に十分な量のウラン235の提供を受けていたはずであると言われましたが、私は別のデザインのものであった可能性のほうが高いと考えます。
西尾さんもご指摘になられたように昭和39年の中国の原子爆弾実験後、日本政府の中でも原子爆弾開発の動きがあり、ドイツとの共同開発の協議があったことが明らかになっています。
私は、佐藤内閣の非核三原則は米国政府から強要されたものであると考えます。特に「持込ませない」は、米国政府からの、ドイツに提供するような核兵器を現実に配備しての防衛体制は日本に対してはとらないという、「防衛無責任体制」の宣言であり、米国政府から日本政府、日本国民への負の宣告です。
原潜等に積み込まないなどという幼稚な約束ではありません。そんなことはそもそも日本政府に検証不可能だからです。
佐藤総理はその意味を正確に理解していたからこそノーベル平和賞受賞演説の中で米国政府の反対を押切って「全世界の核廃絶」訴えたのでしょう。三島由紀夫もそのことを理解していた。そして佐藤首相は三島ならわかっていると知っていたからこそ、三島の自決を聞いて、「狂ったか」と叫んだのだと確信します。
昭和天皇、三島由紀夫、佐藤栄作、この三人は核拡散防止条約の持つ危険性を理解し、おそらく、この三人だけは理解していることをお互いに感じ取っていたのでしょう。当時表立って話すことのできないこのことを。
陛下は、昭和19年に開発を禁じたことを間違いであったとおもわれたのでしょうが、戦後にあるいは現時点で再度解発することを望まれていたとは私は言いません。しかし、この「昭和遺言」を知った以上なすべきことがあります。
それは昭和19年の時点でそれを使えば戦争に勝てる可能性が高いにもかかわらず、使わなければどのような惨禍が待ち受けていたかを知った上で敢えて核兵器開発を禁じたお方がいられたということです。
そしてそのお言葉を慫慂として受け入れた軍人がいたということです。日本がこれから軍備をどのようにしていくにしても、このことを核兵器を既に持っている国の国民と指導者、現在、開発中の国の国民と指導者、そして誰よりも日本国民自体が知り、心に刻み込まねばなりません。
それができない人間に平和を語る資格はありません。
  (ST生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)驚き桃の木のお話でした。真実であるとすれば、有力雑誌のトップ記事ではありませんか。
さて今月の『WILL』の西尾幹二さんの論文は「三島由紀夫と核武装」です。これは憂国忌での西尾さんの発言をもとに大幅に加筆されたものです。

 私にも「驚き桃の木」の話なのである。本当なら一大スクープであり、政治的影響も大きい。読者の皆さんはどうお考えになるだろうか。新情報があったら、また宮崎さんのメルマガに投稿してほしい。お話の内容に憂国忌での私のコメントに関して少し誤解もあるので、『WiLL』2月号拙論を次回から分載掲示する。

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