WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(四)

鉄腕アトムとゴジラの時代 

 どの個人も自由を欲する。個人も国家も同じである。国家も行動の自由、自己裁量の自由を欲する。

 原子力発電には夢が与えられた希望の時代があった。「鉄腕アトム」の時代である。アトムの妹の名はウランちゃんだった。しかしそれは同時に、「ゴジラ」の時代でもあった。水爆実験成功の伝えられる時代で、地上における原爆の数千倍のエネルギーの出現への畏敬と恐怖の時代でもあった。事実、ゴジラは大都会を次々と破壊する存在として描かれていた。
 
 日本が国力の上昇とともに、原子力発電においても強い自立の意志を持ったのは当然である。がんじがらめの国際的縛りから解放されたいと思うのは自然な欲求である。高速増殖炉は、他の先進国のすべてがあまりに危険すぎて手を引き、ついに見放したのに、日本はあえてそれを引き受けた。福井県敦賀市の高速増殖炉・もんじゅ・は日本独自の技術だった。 

 見捨てられた海辺の小さな集落、人口八十人の白木という村落に不安な炉を据えた。・もんじゅ・がうまく成功すれば、使われた燃料は一・二倍になって返ってくることになっていた。そうなればもう原料の心配は要らない。ぐるぐる同じ燃料をリサイクルしていけばいい夢の機械である。

 これもやはり、「鉄腕アトム」や「ゴジラ」の時代が生んだ未来に無限の可能性を見る解放への願望だった。が、・もんじゅ・は現在、たび重なる事故で前進も後退もできなくなっている。これにはすでに一兆円が注がれて一キロワットの電力も生産せず、今後五十年間にわたり年間五百億円のむだな維持費が必要とされるばかばかしくも怪しいしろものとなり果てた。

 しかも、今後もう一度事故が起これば、関西一円を侵す疫病神のような存在になっているが、考えてみればあらゆる外国の圧力から逃れて、日本の原発が独立自存する目標のシンボルであったともいえる。それほどにも外国の干渉、妨害、悪意の行動はすさまじかったことは先に見たとおりである。日本が原爆をつくるかもしれぬという単なる言いがかりで、原料のウランと燃料のプルトニウムの処理に対して、国際無法社会が巨額のカネをしぼり取るあこぎなシステムができ上がっていたといっていい。

 逆にいえば、原子力発電の夢の妄執を捨てることさえできるならば、外国から干渉されたり、侵害されたりする理由ももうないということになろう。また日本の核防衛も、ウランを売ってやらぬなどの資源エネルギー全体への干渉や介入によって妨げられることなく、独自の開発路線で進めることができるようになるであろう。なにしろ、日本の核対応力はかつての米ソのような数万発の弾頭を貯めこむ核超大国を目指すものではなく、イギリスやフランスが現にそうであるような限定された・守り・の域さえつくれば良い。否、そこまでの必要もない。

 国際政治アナリストの伊藤貫氏は、核を具えているぞという「意志」がなによりも大事で、それさえあれば、ハードはインドからの買い入れでもいい。インドから買うぞというジェスチュアだけでもいい。日本とは戦争はできないという明確で強力なシグナルを発することだけが大切であり、それには軍事的には報復核の用意しかないのである、と。

福島第一よりも重い責任

 いまや、まったく展望のない高速増力炉のこれ以上の開発には電力会社も及び腰になっていると聞く。採算が合わないからだ。それでも核燃料のサイクル計画を否定できないのは、使用済核燃料の最終処分方法に見通しが立っていないからである。どの原発にも使用済核燃料の貯蔵プールがあり、そこは一定の割合でつねに空きスペースをつくっておかないと、原子炉のなかから使用済みを取り出し、新しい燃料と置き換えることができなくなる。つまり、原発は稼働できなくなる。

 ところが、原発一基を一年間運転すると、約三十トンもの使用済燃料が生じ、毎年これをどこかへ片付けていかないと、原発は運転を継続できないことになる。これは大変な重荷である。それなのに、わが国には放射性廃棄物の最終処分場が存在しない。場所も管理方法もなにも決まっていない。この先何万年にもわたって監視しなければならない相手かもしれないのに、何年先の管理もはっきりしていない。仕方がなく、使用済核燃料は「再処理いたします」という建前をとったのである。

 できるかどうか分からないが、ともかく「再処理」という言葉が選ばれ、青森県六ヶ所村に再処理工場が建設され、そこへ全国の原発から使用済燃料が次々と運び込まれた。写真でみると、広大な敷地に恐るべく大量の核のゴミを入れた金属容器が果てしなく並んでいる。

 だから「再処理」がスムーズに進んでいるのかと思いきや、ことはそんなに簡単ではない。再処理をすれば毒性の高いプルトニウムが抽出される。日本ではこれが貯まりに貯まって四十五トンを越え、八キロあれば原発を一個作れるので、約五千発程度の原爆の材料の貯蔵に当然、世界は目を光らせる。

 六ヶ所村にはIAEAの係官が常駐し、全国の原発にも年に一、二度の国際核査察が入る。アメリカは六十トンを上限に、それ以上のプルトニウムの貯蔵はまかりならぬと言っている。韓国は日本にだけプルトニウムの貯蔵が許されるのは不公平とし、嫉妬と不満を隠さない。

 しかし、愚かで甘い日本の保守派はこのことに優越感を覚え、わが国が超大国になる前段階だから、原発は大切に守り育てていかねばならぬなどと言うが、日本に必要なレベルの核兵器は少数精鋭でよく、六十トンのプルトニウムの処理に困って右往左往し、国際的な厳しい監視と批判を受けて翻弄され、積極的なことは何もできなくなっている現状のほうが、軍事的にもよほど不自由で、賢明でないということにならないだろうか。

 実際、プルトニウムばかり増えるのは厄介である。高速増殖炉・もんじゅ・は、もともとプルトニウムを燃やす目的で作られたのである。

 ところが、一九九五年にナトリウム漏れ事故で原子炉が暴走し、そのあと炉中中継装置にも落下事故があって、いまや新しい燃料で運転を再開することも、古い燃料を取り除いて廃炉にすることもできず、このままいけば五十年間、毎年五百億円の単純維持費を必要とし、総計二兆五千億円を流出することになろう。日本の独自技術は完全に頓挫した。福島第一原発よりもはるかに関係者の責任は重い。

つづく

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