「核の平和利用」という危険
プルトニウムを燃やすはずの・もんじゅ・の失敗で、仕方がなく、政府と電力会社は軽水炉型の普通の原発でプルトニウムを消費することにした。プルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料──恐ろしく危険度の高い──をつくって、これを燃やす「プルサーマル計画」を開始したのは、もちろん燃料のリサイクルという経済効果をめざしてのことが表向きの理由だが、それだけではなく、兵器転用を疑われる余剰プルトニウムを持たないための必死の消費作戦でもあるだろう。MOX燃料を普通の原発、ウラン燃料用の原子炉に使うことは危険このうえないという話も聞く。
使用済みのMOX燃料の処理方法はさらに大変で、地中に埋められるようになるのに五百年を要するという(普通のウラン燃料の使用済みは三十~五十年待てばよい)。使用済みMOX燃料を積んだトラックが一般道を走ることも危ないから止めたほうがよいという記事も読んだ。福島第一原発では、三号機がプルサーマルでMOX燃料を用いている。
いったいなぜ、これほどの危険を冒してまでプルサーマル計画が推進されるのか。他国において、核兵器の解体で出たプルトニウムの活用方法に学んだ結果とも聞くが、アメリカから睨まれている六十トン以上のプルトニウムの貯蔵限度量の超過をひたすら恐れてのことではないのか。日本の原発は核の平和利用という原則を関係者がほんの少しでも踏み外してはいけないと神経質になればなるほど、国民の安全を考慮せず、国土の汚染を無視し、普通の常識では理解のできない異常規模のスケールに嵌り込んでいく。
高速増殖炉もプルサーマルも、他国は早くから危いと見て手を染めないで放棄したか、あるいはある程度やってみたがほとんど熱心には追求していない。核武装国家であるアメリカやフランスの軍事的知能がこれらに近づかないことには理由があると思う。この理由をしかと研究する必要がある。
日本の携帯電話器が非常に便利な多目的性を発揮したのに、世界のマーケットから相手にされない特殊性をガラパゴス型と評する言い方がある。最近の家電も、飛行場も、港湾も、先進医療も、韓国の国際性に敗れている。わが国の知性は袋小路に入っている。・もんじゅ・もプルサーマルもガラパゴス型なのではないか。ちなみに、プルサーマルは和製英語である。
高速増殖炉のアイデアは資源のない国の唯一の解決策にみえたのかもしれない。ウランの買い付けに小姑根性のオーストラリアやカナダ──ことにオーストラリアは第一次大戦以後、わが国に卑怯な対応をくりかえした国である──にもみくちゃにされる悲哀からの切ない脱出法であったのかもしれない。その点では私は同情できると思っている。しかし、同情できるのはそこまでである。失敗と分かったら潔く撤退するにしくはない。それは今回見ているところ、原子力発電の全体についても言えることである。
愚かな平和主義
ところが、大量のプルトニウムを燃やす高速増殖炉は、今後も開発方針を止めないと政府や電力会社は多分、言いつづけるだろう。原発をつづけるかぎり、核燃料廃棄物が生じ、プルトニウムができては貯まり、軍事転用と見られたくない恐怖が、プルトニウム大量消費用の増殖炉開発の看板を簡単に下ろさせないだろう。
しかし、これはあまりにも愚かなことではないか。
「どんどん目標が逃げて行く。2000年改訂時では完成の年度を示すこともできなかった。2005年にはついに2050年に一機目をつくると言い出した。どんどん目標が逃げて行く。十年経つと、目標が二十年先に逃げる。永遠に辿り着けない」
右は、京都大学の小出裕章氏が参議院公聴会(2011・5・23)で語った高速増殖炉への弾劾の演説からである。小出氏はつづけて言う。
「これを支えた原子力安全委員会も、行政も、いっさい反省しない。・もんじゅ・には一兆円が投じられた。一億円の詐欺で一年の実刑が与えられると聞きますので、一兆円の詐欺なら一万年の実刑なのです。行政にかかわった人で・もんじゅ・に責任のある人が仮に百人だとすれば、一人ひとりが百年間実刑に処せられて当然です。すべてがじつに異常な世界なのです」
この怒りには私も共鳴する。福島第一原発に関連して、原子力安全委員会委員長や原子力安全・保安院長が、何も罰せられずに無事に官職をまっとうして定年退官することは人道に悖ることと私も考えている。中国でなら多分、処刑されるであろう。
小出氏と私は怒りはともにするが、日本の原発が「原子力村」の相互無批判小集団の知的閉鎖性によって歪められ、ガラパゴス化した原因を氏とはおそらく違うところに見ていると思う。氏はおそらく、日本人の国家主義に原因を求めているだろう。しかし、私は国家意識の欠落、国家観のなさ、国を・守ろう・とする尖鋭な意欲の不在、日本人の主張を世界に通用させようとする自我の貫徹の弱さ、一口でいえば一国平和主義、その合理性の不足に原因があると考えている。
もう一度よく省察していただきたい。
五千発の原爆をつくれるプルトニウムを貯めこむことで自ら自由を失い、本来の防衛力を阻害することは合理的だろうか。また、それを国際社会に隠していないと弁解するために、盗品など隠し持っていませんとお白州で裸身になって尻の穴まで見せるような哀れな細民の生き方をこの国民に強いているのは、原発の存在にほかならない。原発さえなければ、この点での愚かな平和主義を捨てることができる。
つづく