西尾幹二全集発刊にからむニュース (5)

 『正論』11月号に「ニーチェ研究と私」が出ている。全集第5巻(第一回)の内容を示唆するだけでなく、ニーチェについて私がした仕事、し残した仕事を整理して述べている。

 『WiLL』12月号のために明日遠藤浩一さんと私の全集発刊の意義をめぐって対談をする。雑誌面で読めるのは今月の末になる。この両雑誌の全面的支援はまことにありがたい。

 全集の新聞広告は10月末に朝日、読売、日経、産経等に出るときいているが、広告のキャプションづくりで国書刊行会の編集部は大変に苦労したようだ。

 やっと決まったというその内容を少し恥しいがご紹介する。

予約受付開始 善著作を収めた初の決定版全集!!

西尾幹二全集  全22巻 年四冊刊行

ニーチェ研究で衝撃デビューを果たし、
近代日本のあり方を深く、多角的に洞察してきた
「知の巨人」西尾幹二の集大成。
ショーペンハウアーや福田恆存の解読も踏まえ、
文学評論、教育論、日本の歴史、江戸の学問論を展開。
世界の知識人との対話や
日本の言論界での苛烈な論戦を経て、
自由とは何か、人生の価値とは何か、
日本の根本問題は何かを問うてきた
思想家の半世紀を超える軌跡を辿る。

西尾幹二全集刊行記念講演

「ニーチェと学問」

講演者: 西尾幹二
入 場: 無料(整理券も発行しませんので、当日ご来場ください。どなたでも入場できます。)
日 時: 11月19日(土)18時開場 18時30分開演
場 所: 豊島公会堂(電話 3984-7601)
     池袋東口下車 徒歩5分
主 催:(株)国書刊行会
     問い合せ先 電話:03-5970-7421
           FAX:03-5970-7427

「西尾幹二全集発刊にからむニュース (5)」への1件のフィードバック

  1. WiLL11月号の西尾先生の御論考「現代リスク文明論-原発事故という異相社会」を手にとって思いめぐらしたことを以下徒然に綴ります。

    西尾先生の御論考はどれも御自身の地頭で思考したことをズバズバ述べていて読む者を痛快な気分にさせてくれます。
    それはまるで焔を噴きだす巨龍のような迫力です。それはまるで百畳の部屋いっぱいに拡げた和紙にたっぷり墨汁を含ませた特大の筆を一気呵成に運ぶ大僧正のおもむきです。

    展開する内容は小難しくも小賢しくもなく読み下して行けばストンと胸の中に収まものです。これはなかなか出来ることではありません。書き手が自分の意を読者に伝えることは意外に難しいのです。往々にして意余って言葉足らずとなりかねないのです。

    その一方伝えるべき肝心の自分の意を持ち合わせない手合いが物書きの中にごまんといます。そういう手合いは他人の文章を換骨奪胎してあちらからこちから引き写して編集者や読者に迎合するものを仕上げています。それを自分のもののように取り繕います。それが感心するほど上手い人がいます。

    西尾先生はひたすら我が道を往くだけです。周りの状況を読んで処世で動くということはしません。KYという語は西尾先生の辞書にありません。なぜなら周囲の空気を読むような姿勢を容認する言論空間にいないからです。政治家は民意を読み取ってその流れに乗らないと商売になりません。言論人は政治家とは違います。あたかもヴェネチアが数百万本の杭をラグーナに打ち込んで堅牢な海上都市を築いたように、西尾先生は「30歳から40歳ごろまで」「爆発といってもよいくらいの活動をして」「多産だった」時代に確固とした思想形成の土台を築いたのです。あらゆるものを〝懐疑〟してその地盤を踏み固めたのです。それがマグニチュード9の大震災や大津波に動じることなく、原発被災以降の日本をそれまでと異なるフェイズに入ったと捉える透徹した視力をそなえさせたのです。

    WiLLの西尾論文は次のように結ばれています。
    「人類はかつてプロメテウスの火をもてあそんだように、原発はやってはいけない神の領域に手を突っこみ、制御できなくなった「火の玉」が自らの頭上に堕ちてくるのをいかんともし難くもて余し、途方に暮れている姿に私には見える」

    ハインリヒ・アルフレート・キッシンガー(英語名ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー)に『核兵器と外交政策』という大著があります。
    キッシンガーは、その第三章「プロメテウスの火」の冒頭で次のように説いてまだ30歳台の少壮学者時代の鋭い洞察力をきらめかせています。

    「プロメテウスは、神々から火の秘密を盗んで、岩に鎖でつながれて余生を送るという罰を受けた。この伝説は何百年の間、思い上がった野心に対する処罰の象徴と考えられている。ところが、プロメテウスが受けた罰は、慈善行為だったともいえるのではなかろうか?
    というのは、神々が自分達の火を盗ませるようにしむけたとしたら、その方がはるかにひどい罰ではなかっただろうか?
    現代のわれわれも、神々の火を盗むのに成功したために、火の恐怖と共に生きなければならぬ運命となってしまった」

    そのギリシア神話は次のようなものです。
    チタン族がクロノスを助けてゼウスと戦ったとき、プロメテウスは一族に背いてゼウスに味方したため、後にゼウスから人間創造の大任を委ねられた。しかし、プロメテウスは自らの創った人間を愛するあまり、ついに天上の火を盗んで人間に与えた。
    ゼウスは怒ってプロメテウスをカウカソスの山上の巨きな岩に繋縛し、日毎にハゲ鷲に肝をついばませた。
    プロメテウスはヘラクレスに救われるが、神が罰として弟エピメテウスに渡したパンドラの匣が開けられ、封じ込められていた禍の種子が世界に飛散して、人間界は混乱と争いが絶えない悲惨なところとなった。

    ギリシア神話と無縁の大日本国(おおやまとのくに)は、世界初の原爆の苛烈な火を降り注がれ、すさまじい災厄を蒙りました。しかるのち生き残った民は大和魂を抜かれ、背骨を熔かされ、精神的軟体動物に成り果てて、哀れを止めぬありさまです。
    大和の神々は自ら社稷を汚してしまった民草を守ってはくれないのでしょうか。神を懐うことをなおざりにした民に御陵威は及ばず、守られるに値しないのでしょうか。消え行くしかないでのしょうか。
    こんな大和の民が蘇生するには、神韻漂渺の世界を想い、先達の困難克服の営みとあまたの犠牲を顧み、その上に今在るわれわれが存していることを感得することしかないでしょう。しかしこれは易いことではありません。(了)

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