遠藤 「悲劇人の姿勢」は、三島由紀夫さんが自決した直後に発刊されました。
西尾 そのため、あの本は三島論集だと誤解されたんですよ。
遠藤 三島さんとお会いしたのは?
西尾 わずか一度だけです。ある方に案内され、ご自宅に伺い、感激の対面をしました。本当に気持ちのいい、呵々大笑する方で、人の悪口もカラッと言う(笑)。 晩餐に招待され、六本木にゴーゴーを踊りに行こうと誘われ、夫人を伴い、車で案内してくれました。途中である店の前を指し、「数日前、あの男が立っているのが遠くから見えてね。その辺の空気がいっぺんに汚れ、曇ったように思えて、僕はそこから一目散に逃げ出したのだ。百メートルくらい走ったのだ」と身振りで走る真似をなさいました。あの男とは小田実さんです。
遠藤 その三島さんから、西尾先生は「新らしい日本人の代表」と評されたわけですが。
西尾 『ヨーロッパ像の転換』の裏表紙の推薦のことばです。でも、あれはどう見ても褒め過ぎです。三島さんに関連する私の文章、データは全集の第二巻『悲劇人の姿勢』にまとめました。
遠藤 三島さんに関してはその他にも、「憂国忌 没後三十年」と「没後四十年」などが収められています。それにしても、全集の目次を見ると、これまで述べてきたもの以外にも、第六巻「ショーペンハウアーの思想と人間像」や、第八巻「日本の教育 ドイツの教育」、第十二巻「日本の孤独」、第二十一巻「危機に立つ保守」など、実に幅広い分野を扱われていますね。
世界史のなかの日米戦争
西尾 とにかく、私は知性の狭さが嫌いでした。専門に閉じ込められる知性などおかしいと、若い頃から思っていました。ところが、常に広い知性を必要とすべきだと思っている一方で、「広すぎる知性のウソ」にも気がついていました。 たとえば、歴史を研究する際には、遠い過去に思いをはせるわけですが、そのようなときに大空から、すなわち俯瞰史観で物事を見る──それは過去を考えるためには、一方では非常に大事なことなのですが──上から広く見るウソがある。人間は神の位置には立てない。単に俯瞰してもダメです。遠い過去の時代の人たちがどのように未来を信じていたか、言いかえれば、どのように閉ざされて生きていたかを見ずに、ただ自由で開かれた現在の認識で遠い過去を俯瞰して見下ろしたところで、それは歴史でも何でもありません。
遠藤 現在の尺度から過去を見て評価を下す知識人や歴史学者が多い。そのことを『GHQ焚書図書開封』(徳間書店)などでも一貫して指摘されています。
西尾 先の大戦について、なぜわれわれはアメリカと戦争をしたのか、とばかり日本人は問いつづけてきて、なぜアメリカは日本と戦争をしたのか、とは問わないできた。これはおかしい。私は、十七世紀くらいからの世界史のなかの日米戦争を考え直す構想をいだいています。さもないと、このままいくと、「戦後百年」を迎えて、この国はまだ占領期ということになりますよ。
了
『WiLL』2011年12月号より
三島由紀夫さんがそのとき西尾先生の前で語ったという、小田実についてのこのくだり、私にとってはすでに「有名」なエピソードとして存在しています。あじめてそれを読んだとき、三島さんのユーモアに思わず笑いましたけど、最近、少し冷静になって、三島さんのこのユーモラスなエピソードは何を意味するのかということを考えることがあります。
小田実について、彼が愚かしい政治活動力しかもっていなかったということをよく耳にします。しかし、彼は本当に単純に「愚か」しかったのでしょうか。彼の死後、在日である彼の夫人の追悼記を読んで面白いなあと思いました。彼を一躍時代の寵児にした『何でもみてやろう』の執筆のことなんですけど、ひたすらナイーブに単純に書かれていて、そのナイーブ・単純が持ち味でさえあるあの世界旅行記を、たいへん緻密な執筆計画に従って書き上げた顛末が夫人のその追悼記に書いてあるんです。私は表の顔と裏腹なその意外な緻密さは、彼の政治活動の「愚か」さに関してもあるだろう、と感じます。
べ平連がKGBから資金援助を受けていてその窓口が小田だったことが最近のロシアの機密文書公開で判明したそうですが、そもそも、基本的に何の政治力ももたないべ平連のような組織が脱走アメリカ兵を第三国に次々に逃がすためには、小田たちべ平連の指導者が、尋常でない政治力をもっていなければならない、と考えるべきです。小田がよく非難される北朝鮮礼賛にしても、一作家にすぎない彼が金日成と会談するにいたるまでには、やはり小田自身に相当の操作力と支配力の天性があったと見なければならない。そして何よりも、それらの規模の政治力を、大衆に「愚か」しく見せるようにできる演技力みたいなものは、たいしたものだと私は思うのです。
小田と一時期同じ同人誌に属されていたという西尾先生は何よりよくご存知のことと思いますが、あの時代、小田実に憧れて、たくさんの若者が社会参加を叫んで日本中に政治の嵐を巻き起こしたと思います。小田は女性にもよくもてたらしい。「言葉だけではなく、行動をこそ」という若者の過剰性のシンボルだったといってもいいすぎではないでしょう。でもその小田の旺盛な行動力というのは、清濁をたっぷりあわせもち、緻密な策謀にさえ富んだ、「大人の行動力」、「すでに政治化計算化された行動力」だったということです。こんなふうな「行動力」のとらえ方が、三島さんが考える行動力と一番先鋭に対立するもので、だから三島さんはあんなふうなユーモラスな言い方で小田のことを言ったんではないでしょうか。
小田実の本のほとんどは、今となっては読むに耐えない。というより、よくこんなものが小説や論集になったなあと驚くものばかりです(笑)でもそれらもまた、計算された単純さだったのではないか、と思うようになりました。「時代の寵児」にしかすぎない人物の作品なんて、だいたいそんなものですね。小田実という人物を前にして、私は彼の人生は空しいものだったと思います。けれどその徹底した空しさをあらためて概観するとき、彼のあの膨大で緻密な行動力は、それがまたたくまに忘れ去られていくことをもきちんと計算していたんではないかな、と思えてしまうことが最近の私にはあるのです。
>>三島関連記事
飯山一郎のHPから http://grnba.com/iiyama/
三島由紀夫が市ヶ谷で壮絶な自決を遂げた年の前年、三島は、自衛隊の調査隊員と懇親会を催した。この席上、調査隊員が「証拠写真」を手に、三島由紀夫に衝撃的な事実を告げたのだという。その衝撃的な事実は、まさに衝撃的! と言うほかない。どれほど衝撃的なのか? 以下、遠慮なしにズバズバと書いてゆく…。自衛隊の調査隊が、北朝鮮の暗号を傍受し解析した結果は…、「能登半島で日本人が拉致される危険性が高い!」と判断できるものであった。そこで調査隊は、事件現場に急行し、監視行動を開始した。「現場」には、石川県警の関係者が多数出動していた。これを見た調査隊は、石川県警が現行犯逮捕するだろうと期待した…。ところが!である。石川県警の行動は、現行犯逮捕が目的ではなくて、拉致現場を目撃しかねない人間が「現場」に近づかないように、あたり一帯を警戒する行動に徹し、最後には拉致を積極的に看過してしまった! というのである。あってはならない、信じられないような事実を、調査隊員は、「写真」を手にしながら、三島由紀夫に訴えたのだという。http://blog.livedoor.jp/jijihoutake/archives/53662203.html
飯山一郎のHPから
<前略>それは、能登半島で拉致事件が発生した時、石川県警が拉致現場
に駆け付けるのを、遠くから自衛隊が見ていた。
当然、県警が拉致犯を取り押さえるものと思った自衛隊は、驚くべき光景を
目の当たりにする。
当時、浜辺にはアベックが数組散歩をしていたが、県警はそうしたアベック
が拉致現場に近づかないように(目撃されないように)排除したのである。
そして、
拉致は成功する。
これは拉致を防止するのとは逆の行為であり、むしろ拉致を支援する行為で
あった。
この光景を目の当たりにした当時の自衛隊の調査隊の幹部は、涙ながらに
三島に訴えたのだった。
そして、怒りに燃えた三島は保利に事実の確認を行っている。<後略>
『飄(つむじ風)』の飄平氏は、
「転載元は、故あって明かさない。分かる方は分かるだろう。」
と書いている。