教育文明論の感想(三)

ゲストエッセイ
武田修志 鳥取大学教授 ドイツ文学

 平成二十五年も余すところ数日となりました。
 お変りなくお元気で御活躍のことと拝察申し上げます。
 こちら鳥取は今日は朝から猛然たる雪降りで、瞬く間に四、五センチの積雪になっています。

『西尾幹二全集第八巻』を読了いたしましたので、ひとこと感想を申し述べます。

 この大冊は、先生ご自身が後記でお書きのように、一つの精神のドラマですね。一九八十年代の十年余りの月日を、日本の教育改革のために、情熱の限りを尽くして孤軍奮闘した精神人の記録です。この全集第八巻に収められた御論考はかつてほとんど拝読したことのあるものですが、今回全編をまとめて読み直し、当時の先生の気迫に圧倒されるような思いが致しました。

この長編物語の中で、今回一番心に刻まれた場面は、先生がその大部分をお書きになった「中間報告」の原稿を、文部官僚たちが膝詰めで先生に書き直しを迫ったあの場面です。先生ご本人のみならず、読者まで胸の痛みを感じるシーンです。審議会委員が削除をもとめているわけでもない文案に手を入れたり、削除したりする、これはまさに思想の検閲ですが、更に、深夜先生一人を、座長以下係官十名余りが取り囲んで、先生の文章の上に直接抹消の線を引いたコピーを渡して、一語一語、一文一文書き直しを迫るーいったいこれは何だと、今回改めて憤りが噴出してきましたが、ここで冷静に考えてみますと、この時こそが、先生が十年の間、情熱を傾けて戦われた「敵」との決戦の時であり、主戦場だったのだと思います。先生は屈辱によく耐えられて、先生にできる限りの勝利を勝ち取られたのです。もし先生があの場面で席を蹴って、退席してしまわれたら、先生ご自身がお書きのように、「中間報告そのものがさらに全面的に骨抜きに」なっていたことでしょうから。「中間報告」が文体をもった、肉声の聞こえる文書として公にされたというだけでも、当時あの冊子を読んだ人には、ある感銘を今に残して無意識のうちに影響を与えていることでしょう。

先生はこの孤軍奮闘のドラマの最後に、こう書いておられます、「私は『価値』を問題にしていたのだ。『価値転換』を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない」と。これは、このドラマの締め括りの言葉として、誠に的確なものだと思います。全編を読んで、まさにこの通りだと思いました。

 文部省の有能な係官たちがどうして、審議委員が問題にしなかった先生の文案を、なんとしても改竄しなければならないと考えたのか。彼らの歴史理解、人間理解が、日教組風な歴史理解や人間理解に染まっていて、先生の理解に密かに違和を感じ、敵意を燃やしていたということもあるでしょうが、根本的には彼らは、個の価値を尊重し、創造性を最も大事にする先生のような生き方をこそ、否定したかったのではないでしょうか。それというのも、彼らは先生に対して、文案の語句を直すという形で迫ったきたわけですが、本当のところは、(彼らが意識していたか、していなかったかは分かりませんが)先生の文章の文体をこそ改変したかったのではないかと思います。文体というものは、筆者の人間そのもの、筆者の生き方そのものだからです。

思えば、先生とお付合い頂くようになりましたきっかけが、『日本の教育 ドイツの教育』を、この書が出版されましてからすぐに、読んだことでした。先生のお若い日の御論考「小林秀雄」を「新潮」紙上で拝読しましたのは、私が大学一年生か、二年生の時でしたが、『日本の教育 ドイツの教育』に出会ったときは、私もすでにドイツ語教師になっていて、三十代の初めでした。この新潮選書を読んで、ドイツ文学者にもこういう本の書ける人がいるのだと、強い憧れのような気持ちを抱いたことをよく覚えています。ドイツ文学者が扱うテーマとして非常に斬新であり、また文章が学者風の重たくおもしろみのないものではなく、はぎれよく、味わいがあるー「この人は自分の手本だな」と思ったものです。その後、ある医学部の二年生のクラスで(当時はまだ医学部の学生は第二外国語を八単位学んでいました)、先生のドイツでの御講演をテキストにしたものを取り上げ、一方、日本滞在の長いあるドイツ人の日本論をドイツ語で読み、これを先生のテキストと比較して、感想を書くよう課題を出し、私自身も多少長い感想を書きました。そして、学生と私の「レポート」を先生へお送りしましたら、先生にたいへん喜んでいただきました。その後先生からはたびたび御著書を送っていただくようになり、私は先生の熱心な読者になったのでした。今回も全集第八巻を通読しますと、例えば「教育はそれ自体を自己目的とする無償の情熱である」という意味の言葉が繰り返し述べられています。更に先生はまた、94ページでこうもおっしゃっています、「私が教育について真っ先に言いたいのは、教育家が学校教育についてつねに謙虚になり、限界を知って欲しいということである。教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。教育はなるほど知識や技術を超えた何かを伝えることに成功しなければ教育の名に値しないが、しかしまさにそれだからこそ、われわれが聖人君子でない以上、学校教育は知識や技術を教えることに厳しく自己限定すべきだと私は言いたいのである。」これらの言葉は、先生の教育についての基本理念と言っていいものだと思いますが、これはまた、こういうふうに先生から教えを受けて、、私が教師生活の中で、いつも忘れずに肝に銘じていた考えです。私は教師になって今年で三十九年になりますが、私の教師人生は、こういう先生のお考えをどういうふうに教室で具体化するか、そのことに終始したように、今、感じられます。教師としてのありよう、教育についての考え方等、先生の御著書をいつも参考にして考え、実戦してきたように思い、今回改めて先生への感謝を新たにしているところです。

 今回の全集第八巻が単に「教育論」と題されずに、「教育文明論」と銘打たれているところに、先生の思いがひとつ表れているかと思います。私の勝手な理解では、この書を単に一九八〇年代の教育改善のための具体的提案や議論の記録として受け取らずに、近代の新しい段階へ踏み出して行かねばならない我々日本人の生き方を問うた書と受け取ってほしいという意味ではないかと思います。この新しい近代では、重要な近代概念の二つである自由と平等がどのようにパラドキシカルに理解されることになるか、その理解を誤まれば、教育も社会もある袋小路へ迷い込んでしまうであろう、と。そういう意味で、この書における先生の御奮闘の姿は、少し距離を置いて見れば、(先生も自覚なさっているように)時代の先を一人行くドン・キホーテの姿と見えるかもしれません。そして、このドン・キホーテの理想は、三十年前には半ばしか理解されませんでしたが、おそらく次の世代において、日本の教育と日本人の生き方が問い直されるとき、よみがえってくるのではないでしょうか。それ故、今回、先生の教育論の全論考がこういう全集の一冊という形でまとめられたのは、のちのちのために非常によかったと思います。

 いつものようにまとまりのない感想になってしまいました。
 今日はこれにて失礼いたします。
 よいお正月をお迎えになってください。

平成二十五年十二月二十八日

「教育文明論の感想(三)」への3件のフィードバック

  1. 【デジタル教育ではアシュケナージユダヤ人に追いつけない】
    電子黒板のようなデジタル教材を用いた、いわゆるデジ
    タル教育とITリテラシー教育とはまったく別物で、前者
    は単なる、公共土木事業の教育版にすぎず、そのような
    金があれば、アメリカの中等教育最高峰のThe Ten
    Schoolsなどで実施されているハークネス法導入や、その
    ための十分な脳の情報処理能力獲得のための幼児教育に、
    その金を使うべきです。

    デジタル教育の行き着く先は、ハードがそろって学力向
    上の気分を味わうだけの雰囲気的な状況です。このよう
    な教育では、実際の学力向上につながりません。実質的
    な利益が得られないと言う意味では、これは箱物公共土
    木事業と同様となります。学力(主に自主的問題解決能力、
    独創性のような)の向上は、多大に学習法のようなソフト
    面に依存しています。最適な教育法は、年齢ごとに最適
    となる複数のフェイズからなる系統的なものです。勿論、
    ITリテラシー教育も、ほんの一部として含まれます。
    フェイズは主に2つに分かれます。それらは素読などの暗
    記中心フェイズと、思考能力および知的好奇心向上のそ
    れです。前者は主に幼児期に実行され、後者の最適モデ
    ルとしてハークネス法があります。

    高等教育最高峰はアメリカの大学で、そこでの教育法に
    はSocratic法等があります。アシュケナージユダヤ人†
    (世界人口の約0.2%の人口で、フィールズ賞とノーベル賞
    の30%の受賞者を持ち優秀)のペア教育法のHavrutaから
    Socratic法、ハークネス法、Oxbrigeのtutoring法が派
    生しました。

    数学界の21世紀最大難問のABC予想の500ページ以上の
    証明論文
    ( http://wired.jp/2012/09/24/abc-conjecture/ )
    を発表した望月新一教授が2年で卒業した、アメリカの
    最優秀boarding schoolのThe Ten Schoolsのひとつの
    Phillips Exeter Academy
    ( http://www.exeter.edu/ )で、ハークネス法が採用さ
    れています。この学習法では、10人程度でハークネス机
    と呼ばれるひとつの長円形の大きな机のまわりで、生徒
    がお互いの顔を見ながら、教師が作成した演習書の問題
    を、黒板で解き合います。この教育精神がアメリカの大
    学のTimesや上海交通大学による世界大学ランキングでの
    上位(東大:20位台後半)獲得の源泉です。そのような
    ハークネス法は、デジタル教育とはまったく無関係です。
    参考:
    http://www.jpost.com/LocalIsrael/TelAvivAndCenter/Article.aspx?id=188988
    https://www.youtube.com/watch?v=ZUZOlwJ2TqA
    (Southridge 高校(公立オレゴン州)でのハークネス法に
    よる数学の授業で、デジタル教育ではありません。)

    ハークネス法により生徒の自主的問題解決能力の向上、
    独創性の向上が促進されますが、そのためには十分な思
    考能力の前提となる脳の十分な情報処理能力が必須です。
    その脳の情報処理能力獲得のための幼児教育が重要で、
    そのための投資が必要です。その投資の方が、財政赤字
    下でデジタル教育に金を使うより、国益になります。

    ゆとり教育が悪いのは、脳の十分な情報処理能力もない
    のに、生徒に自由にさせることです。良い文章も知らな
    いまま自由作文させると、自己流の悪い癖がつきまとも
    な文章を書けなくなるのと同じです。また、ゆとり教育
    はハークネス法でもなく、単なる遊びになるだけです。

    安倍政権は、日本の大学を世界大学ランキング上位にす
    るとし、大学改革を念頭に置いているようですが、これ
    は無意味です。いくら箱を変えても、中身が最上級でな
    い限り、大学のレベルは向上しません。アメリカの大学
    が世界大学ランキング上位にあるのは、中身に高IQのユ
    ダヤ人がいるのが理由です。よって日本の大学のレベル
    向上には、学生の高IQ化が必要で、いくら高等教育をい
    じってもだめです。要はアシュケナージユダヤ式の幼児
    教育、初等中等教育を実践し、高IQの日本人を生成する
    ことです。これにより、劣等生は凡人に、凡人は秀才に、
    秀才は天才に、天才はノーベル賞、フィールズ賞級の超
    天才になります。

    以上のように、無駄に国の資源を浪費するデジタル教育
    より優先すべきものは、日本人の高IQ化のための幼児教
    育です。それは成長戦略のコア部分でもあるべきです。
    幼児期の脳の発達は、条件がそろえば著しくなります。
    その発達促進に効果的なのが、アシュケナージユダヤ人
    も実践している素読です。そこで、素読中心の就学前幼
    児教育を義務化するのが、いいと思われます。

    ——— 続きはこちらです。 ———
    https://docs.google.com/document/d/1IcqUlReat1rg8QQ1FOFME5Kj2JGEUH8wNzRBja1Eg-c/edit?usp=sharing

    貿易赤字基調、人口減少、その上近い将来の経常収支赤
    字化の日本に対し、約5年後には、中国は世界一の経済大
    国になり、その後世界一の核保有軍事大国になります。
    その頃には、航空母艦やステルスジェット戦闘機などを
    自前で配備するでしょう。そのような漢族に加え、その
    支配下に入いろうとしている南朝鮮族は反日です。その
    ような民族と渡り合う状況では、精神主義根性論での対
    処では無理です。日本人の活路は、他を圧倒的に超越し
    た理数系能力世界一の人材国家形成しかありません。そ
    のためにも、全国的な高IQ人材育成幼児教育は必須です。
    (近年の北欧諸国の教育レベル低下は、教育を地方に任せ
    てきたのが主因です。教育レベル向上には、全国的な施
    策が必要です。)

    †アシュケナージユダヤ人
    アシュケナージユダヤ人はユダヤ人一派で、ドイツ東欧
    系で、現在多数がアメリカに住んでいます。シオニスト
    は認めていませんが、一説にはユダヤ教に改宗したハザ
    ール人とも言われています。人口は1170万人(世界人口
    の約0.2%)ですが、ノーベル賞の22%(170人以上)、フィ
    ールズ賞の27%(14人)の受賞があります。一方日本人は
    ノーベル賞が約20人、フィールズ賞が3人です。アメリ
    カのCEOの約20%、アイビーリーグ学生の約20%(特に最優
    秀レベルはほとんど)を占めています。有名人には、
    アインシュタイン(相対論)、フォン・ノイマン(数学、
    量子論)、ボーア(量子論)、オッペンハマー(物理)、
    ファインマン(場の量子論)、シュレーディンガー(量子
    論)、ウィッテン(M理論)、ザッカーバーグ(Facebook)、
    ペレルマン(ポアンカレ予想)、サミュエルソン、ドラッ
    カー、スピルバーグ、ハリソン・フォード、セルゲイ・
    ブリン(Google)、ラリー・ペイジ(Google)、ポール・A・
    ボルカー、グリーンスパン、バーナンキ、ジャネット・
    イエレン、・・・がいます。

  2. 【純情可憐乙女外交のつけ】
    日本が国際社会における情報発信能力もロビー能力も中
    韓に劣る、と言う事実を十分認識せず、「主張せずとも
    正しければ必ず国際社会は受け入れてくれる、そうでな
    くてもいざと言う時、白馬の王子様(アメリカ)が助けて
    くれる」、と思い込んで来た、日本の”純情可憐乙女外
    交”のつけが、顕在化して来ました。

    純情可憐乙女外交的思考のため、過去の中韓による国際
    社会に浸透する反日的洗脳への、効果的な対処がほとん
    ど無く、すでに中韓の反日思考汚染が定着してしまい、
    日本の主張に聞く耳持たない国際社会となってしまいま
    した。こうなっては、後の祭りで、誤解を解くのは絶望
    的です。以下は、そのいい例です。

    1. フランスのアングレーム国際漫画祭で、明らかに政治
    的プロパガンダである慰安婦問題をめぐる南朝鮮の作品
    が出展許可されたが、それに対する「強制連行はなかっ
    た」とする日本側の作品は「政治的」として撤去された。

    2. バージニア州議会での日本海呼称に関する法案に関連
    した南朝鮮のロビー活動は、問題視されなかったが、日
    本のそれは、外国政府による内政干渉として非難された。
    (ワシントンポスト)

  3. 「価値の転換」とは価値の創造を目指すことに他ならず、
    「価値の修正」とは価値の維持を目指すことに思われる。
    前者は自己教育に依ってしか成され得なく、
    後者が学校教育に依って成され得るものではないだろうか。
    教育界では前派と後派に乖離しそうだが、実は一人の内に両派を併存せしめるのが”倫理”ではないだろうか。

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