遺された一枚の葉書

遠藤浩一氏追悼文

 私は1月3日に遠藤浩一さんから葉書をいただいた。5日に知人から「未確認情報ですが、遠藤さんが亡くなったらしいんです」と電話が入った。一体何を言っているのかと訝しみ、福田逸さんに問い合わせた。福田さんも聞いておらず思い切って奥さまに電話を入れて事実を確認し、私にも知らせてきた。奥さまは取り乱しておられる由、私は面識もないので遠慮して電話は控えた。葬儀は執り行われないというのでどうしてよいか判らない。いただいた葉書の日付をみると12月31日に書かれていて、1月1日に投函されている。内容は贈呈した私の新刊本へのお礼である。年賀状の端に書けば済むし、他の人はそうしているのに、十行にわたって本の中味に及んでしっかりした文字で書かれている。年内に間に合わせようと急いで書いて急いで出したものらしい。礼儀正しい人なのである。ひょっとすると絶筆かもしれない。この一枚の葉書をどう扱ってよいか後で考えたい。

 1月10日に彼もメンバーである「路の会」という勉強会の新年の集いがあった。急逝で気を鎮められない人が多く、21人も集まった。しかし急死するようなご病気があったとは誰も聞いていなかった。死の前後の情報も伝わってこない。なぜ逝ったの?と繰り返し呟くのみである。十日経ってこれを書いているが、私はまだ彼の死を受け入れる気持ちになっていない。現代では55歳は夭折である。12年前に坂本多加雄さんの死に私は同じこの夭折という言葉を用いたことを思い出した。

 私が遠藤浩一さんに出会ったのは39年前の1976年、彼が高校三年のときであった。私の側に初対面の認識はない。彼がそう言うのである。彼の母校県立金沢桜丘高校の創立記念祭で私が講演したのは覚えている。彼は会場で聴いていた一人である。数年前に電話でそう言い、何を話したかすっかり忘れていた私に「ちょっと待って下さい」と言ってどこからか講演録をさっと持ってこられた。「どこに置いてあったの?」とその早さにびっくりしていると、いつも書棚の一角に置いてあるんですと言われてさらにびっくりし、ひたすら感激し、申し訳なくさえ思った。

 「個人・学校・社会――ヨーロッパと日本の比較について」と題した私の話を収めた校友会誌のコピーを後日送ってくれた。モントリオールオリンピックの年で、韓国の選手たちは金メダルを獲ると高い報奨金をもらえるのに日本の選手にはそれがない、という不平不満が一種の社会問題になっていた。私は保証のない自由、それが本当の自由ではないか。自由とは自己決定であり、つねに安全とは限らないのではないか。悪を犯す自由も、怠惰である自由も、真の自由のうちには含まれているのではないか、というようなことを高校生を前に必死に説いていた。遠藤少年の琴線に触れたことは間違いない。私と彼とは23歳も違うが、師弟関係ではない。あれからずっと「真の友情」が続いた。民社党の月刊誌『革新』の編集者になってからたびたび私は訪問を受け、今度調べると八回のインタビューが全部彼の手で論文として纏められていた。彼の理解は早く正確だった。

 2002年に「路の会」のメンバー20人で合同討議本『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』を出した。遠藤さんは自分は戦争直後を知らない世代だがと断った上で、永井荷風の『断腸亭日乗』の昭和20年9月16日の記述を読み上げた。荷風が「国民の豹変して敵国に阿諛(あゆ)を呈する状況」を見て、戦時中「義士に非ざるも……、眉を顰め」ずにはいられない、と述べている箇所にとくに注目している。荷風は戦時中、日本軍部に秘かに冷や水を浴びせていたことはよく知られ、戦後しばしば賞賛されたが、遠藤さんはそういう個所ではなく、戦後たちまち所を替えて米占領軍に「阿諛(おべっか)」を呈するわが国民に冷や水を浴びせている荷風の姿勢に目を向けている。そして8月15日より以降、荷風が「しばらくの間、休戦」といい、「敗戦」とも「終戦」とも言っていないこと、戦意の継続意志の表明があることに着目し、「義士」にあらざる荷風が解放感で大喜びしたりせず、アメリカは依然として「敵」であり続けたことを重視している。こういう個所を読み落とさず、しかと目を据えている点に遠藤さんの本領があった。

 私に最後にくれた例の葉書でも「安倍総理の靖国参拝に、中韓のみならず、米国をはじめとする世界中の国が騒いでみせていますが、これも日本の国家意志の表明が国際政治を左右しはじめていることの証だと思はれます」と書いていた。右は首相の靖国神社参拝の五日後、彼の死の四日前の認定である。

 遠藤さんは若い頃芝居を書いていて、文学の徒である。アマチュアの役者でもあり、声は張りがあり、朗々としていた。政治論より文学の話題を交わすのが楽しかった。福田逸さんを交えて三人で間を置いて飲み会をやっていた。日本橋に炭火を囲む面白い店を見つけたので年が明けたら集まろうよ、とつい先日言ったばかりなので、私はまだ今日の事態を理解することが出来ずにいる。

『正論』2014年3月号より

「遺された一枚の葉書」への1件のフィードバック

  1.  お久しぶりです。

     遠藤浩一さんは、私もなかなかの論客だと思っていて、夭折されたと聞いた時には惜しい人物を亡くしたと思いました。

     それで、追悼文の記事に書くコメントとしては、少しふさわしくないかもしれませんが、私が今回の追悼文を読んで連想したことを書かせていただきたいと思います。

     それは、唐突かもしれませんが、「アメリカに対する敵意」という言葉から、私は現在、NHKで放送されている朝ドラ「ごちそうさん」を思い浮かべていました。

     実は、丁度いま、ごちそうさんでは戦前から始まって、戦争が終わり、戦後の日本が舞台になっているのですね。

     ごちそうさんというのは、主人公の食堂屋の女将のあだ名で、これがなかなか気が強くて頼もしい肝っ玉母さん的な要素を持った女性なのです。

     そして、戦争が終わってほとんどの日本人が「ほっとして」平和な生活を送っている中で、だだ一人、このごちそうさんと呼ばれている女性は、「アメリカは昨日まで敵だった国やで(舞台が大阪なので大阪弁にしています)、ワシは絶対にアメリカを許さへんで!」と、かたくなまでにアメリカへの敵意を露骨に表しているのです。

     私は、このドラマを最初から見ているわけではないのですが、視聴率があの大ヒットした「あまちゃん」を越えているというので、どのようなドラマなのか興味を持って見てみたのです。

     そしたら、主人公のヒロイン、ごちそうさんという女性が、露骨にアメリカへの敵対心を表明しているので、あれ、これは随分と当時の実情に忠実に従った演出をしているなと意外な印象を持ちました。

     昨日などは、ごちそうさんの息子(次男)が、「なんでおかあちゃんはアメリカのことうちらに話してくれへんのやろ」と、ごちそうさんの母である祖母に話してみたら、祖母は「そりゃあんた、自分の身近の人間ほど、自分の感情をダイレクト(なんて言葉は使いませんが)に爆発させてしまうからやろな(つまり、それほどごちそうさんのアメリカに対する恨みは強い。それもそのはずで、ごちそうさんは戦争で夫と長男を亡くしている)」という、非常に人情の機微に富んだやりとりをしていました。

     今日は、そのごちそうさんの次男の友人二人が、次男が喫茶店にいるところに入ってきて、おい、ちょっと話があるんやと次男を取り囲み、次男が何の話や?と聞くと、こう答えました。

     友人「けんかをしかけるんや!」

     次男「誰にや?」

     友人(周りを見回して確認してからおもむろに)「GHQや!」

     そう、この友人二人もアメリカへの敵対心を失ってはいなかったのです。

     今日は、いったいGHQに何のけんかを仕掛けるかが分かる回だったのですが、あにく私は見逃してしまったので、お昼の再放送で見ようと思っています。

     西尾先生や遠藤浩一さんのいう「アメリカに対する敵意」とは次元が異なることかもしれませんが、あのNHKもこのようなドラマを放送するようになったのだなと、ちょっと感慨に思いました。

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