村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)

51)日本と西洋の歴史が似ているなどということにどれだけの意味があるのだろう?

52)言論人とは、言葉とじゃれつくだけであり、その言葉は現実に作用する力をもたず、ただ、現実を回避するための媚薬の役を果すに過ぎない。

53)ドイツ人・・・・の自己主張の激しさと、それとまるで対蹠的な彼らの秩序愛。

54)日本人は正確好きであり・・・・日本人の美感は乱れや、汚れや、歪みといったものにはいつも敏感に反応する・・・・それを支えているのは、必ずしも論理や形式や行動の型ではない。・・・・・美意識が道徳になる民族の弱さがある。

55)ヨーロッパ人の自我の強靭さ・・・・激しい自己主張のあるところにしか、たくましい自己犠牲の宗教も生まれるはずはなかったし、根源的な拒絶と不信のある世界にしか、愛の宗教も成立しないと思われるからである。

出展 全集第一巻ヨーロッパ像の転換
51) P203上段より
52) P208下段より
    全集第一巻ヨーロッパの個人主義
53) P290下段より
54) P291下段より
55) P295上段より

“村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十一回)” への 1 件のフィードバック

  1.  こんにちは、失礼します。

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    51)日本と西洋の歴史が似ているなどということにどれだけの意味があるのだろう?
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     どこかに、日本よりも「進んでいる」文明の国(などはないのだが)との共通点を見つけると、自分の劣等感(感じる必要はないのですけどね)が少しは弱くなるので安心するのでしょうね。

     これは日本人の民族性というよりは、個人の人間性の問題のような気もします。

     幕末においても、吉田松陰は日本は文明的に西洋より劣っているなどとつゆほども考えていなかったはずだし、ただ単に機械文明の発達が遅れただけで、精神的には西洋に負けていなかった、だからこそ、日本人としての誇りと気概を持っていたからこそ、西洋文明に立ち向かえと若者を鼓舞したわけですからね。

     坂本龍馬も、アメリカの議会制度は非常に良い制度であり、日本の身分制度は悪い制度だと思ったでしょうが(自身は土佐で郷士として、上士からひどい差別を受けていましたから)、日本の文明が「遅れている」とは考えていなかったはずです。

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    言論人とは、言葉とじゃれつくだけであり、その言葉は現実に作用する力をもたず、ただ、現実を回避するための媚薬の役を果すに過ぎない。
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     現在のいわゆる言論人は、自分の責任を回避して、世間を批判だけして、自分は何一つ世の中の役に立つことはせずに、ただ世渡り上手なだけの、世の中で最も卑しい身分の人間に成り下がっていると思います。

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    ドイツ人・・・・の自己主張の激しさと、それとまるで対蹠的な彼らの秩序愛。
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     どれだけ激しい自己主張のぶつかり合いがあっても、けっして社会秩序が壊れないという安心があるからこそ、お互いに深いところで信頼関係があるからこそ、安心して好きなだけ自己主張をすることが出来るのでしょうか。

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    日本人は正確好きであり・・・・日本人の美感は乱れや、汚れや、歪みといったものにはいつも敏感に反応する・・・・それを支えているのは、必ずしも論理や形式や行動の型ではない。・・・・・美意識が道徳になる民族の弱さがある。
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     その美意識の中でも、特に「汚れ」に対する嫌悪感が異常に激しいのが日本民族の、ほとんど病的な性質になっていると思います。

     日本人は「汚れ役」を非常に嫌いますからね。

     誰かが汚れ役をやらなければ、世の中は上手く回らないことが分かっているのに、その汚れ役を激しく嫌悪します。

     それが、エタ・非人という身分を作って、いまでも部落問題として残っているわけですね。

     ビルの清掃をしている人を差別(と呼んでいいでしょう)する心情も、やはり無意識に汚れの思想があるからなのでしょうね。

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    ヨーロッパ人の自我の強靭さ・・・・激しい自己主張のあるところにしか、たくましい自己犠牲の宗教も生まれるはずはなかったし、根源的な拒絶と不信のある世界にしか、愛の宗教も成立しないと思われるからである。
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     真言ですね。

     イエスはもともと中東地域の出身のはずで(おそらく肌の色は黒くはなくても茶色くらいになっていたはずで、白い肌のイエスというのは明らかにおかしい)、そのイエスの究極の自己犠牲を示した愛の宗教がヨーロッパに広まった理由は、ヨーロッパ人の性質にあると考えるのが妥当でしょうね。

     その証拠に、自我の弱い日本ではキリスト教は広まっていません。

     余談ですが、さっきまでワンセグで歌舞伎役者で俳優の中村獅童が出演している歴史番組を見ていたのですが、今回は聖徳太子を取り上げていて、中村さんが聖徳太子の格好をして、太子の歴史上の業績を歌にして歌うという内容のものでした(おそらく、就学期にある青少年を対象にした番組だと思います)

     それで、最近、新しい歴史的な研究業績として、歴史研究者の間では、聖徳太子は実在する人間ではなく、複数の人物の逸話を一つに集めた架空の人物であるということが分かってきて、それが歴史学としては常識になっているそうです。

     そのために、最近の歴史教科書では、聖徳太子ではなく厩宿皇子という用語を使うようになってるそうですね(別に、必ずしも日本を貶めようという意図があるわけでもなさそうですね)

     ただ、史実がそうだったとしても、それになんの意味があるのかと思います。

     歴史は客観的な事実(社会学的には事実は一つではありませんが)を並べればいいのではなく、それこそ、西尾先生がつくる会を立ち上げた当初から一貫して主張してきた、「物語」でなくてはいけないわけですね(あるいは、故・坂本多加雄先生の言葉を借りれば「国の来歴」になるわけですか)

     それならば、歴史教科書でも「史実」よりは、従来語られてきた「物語」を語ることの方が重要なのではないでしょうか。

     すでに、聖徳太子は神話上の人物になっていると考えるのが妥当なのではないかと。

     それを、わざわざ普通の人間として語ることに意味があるとは思えません。

     聖徳太子はいたということで、誰も迷惑はしないし、誰かが困るわけでもありません。

     17条の憲法は、日本の憲法の基本となるべき憲法ではないかとも思います。

     少なくとも、他国の善意を信頼するといった空証文の憲法前文よりは、「和を持って尊しとなす」という十七条の憲法の第一条を憲法前文にすれば、これを世界にも適用すれば、それこそ世界平和が本当に実現することは間違いありません。

     日本の左翼の歴史家は、本当に世界平和を希求しているのでしょうか。

     心の中では、自分だけは助かりたいけれど、出来れば共産主義革命が起きてくれればいいと考えているのが本当のところでしょう(最近は、労働者階級による革命は不可能だと証明されているため、以前に、父が勤めていた専修大学の講義に潜り込んで聴いてみたら、これからは、外国人労働者や障害者を起点として(正確には利用して)、天皇制度を打倒せよというたわけたことを言っている大学教授がいました)

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