阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム(第四回)

16)博物館とは、文化形成の行為にではなく、行為の結果としての業績にのみ文化を求める非文化的文化意志の代表作であれば、美術館は、美が創り出される動きよりも、動きの結果としての作品に、美がア・プリオリに内在しているという錯覚信仰の上に胡坐をかいている。

17)そもそも、「自己」をもたないような人がいくら経験を積んでも、さもしい話題さがしの、薄っぺらな体験崇拝に終るだけであることは明瞭であるにしても、今度は逆に、「自己」などというものをおよそ容易に信じている人には、経験によってなにかが新しく開かれるということも起こり得ない。

18)西洋の芸術に関する限り、不思議なことに、知識をもっている日本人ほど感動と感傷とを混同する。この人はおそらくパルテノンをまだ見ぬうちに、飛行機で羽田を飛び立ったときに、すでに「感動」していたに違いないのである。

19)近代というものは、物を見つめる前に、物に関する観念を教えこまれる時代である。まず人間である前に、人間に関するさまざまな解釈に取り巻かれる時代である。

20)「個人」などというものに何の確かさもない。「自己」などというものほどあやふやなものはない。そういう自覚を持つことによってはじめて、自立の何であるかという予感に接することが可能となるであろう。

出展 全集第一巻ヨーロッパ像の転換
16) P168上段より
17) P172下段より
18) P173頁下段より
19) P191上段より
20) P218下段より

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