西尾幹二全集刊行記念講演会報告(一)

           (一)

西尾幹二全集刊行記念講演会
「昭和のダイナミズム」-歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのか-

 拙著『江戸のダイナミズム』を前提に、江戸時代に熟成した日本の言語文化は明治・大正期に西洋からの影響で一時的にぐらつき、昭和期に入って反転し、偉大なる「昭和のダイナミズム」を形成した。ここでいう「昭和」は戦前と戦後を一つながりとみる。戦争に向けて「昭和文化」は高揚し、世界に対し視野を広げ、戦後も二、三十年間はその余熱が続いた。明治維新も敗戦も切れ目とは考えない。歴史は連続している。興隆と衰亡の区別があるのみで、歴史は維新や敗戦で中断されて姿を変えたと考えるのは間違いである。

西尾幹二

平成27年9月26日 
於 グランドヒル市ヶ谷 瑠璃の間
報告者 坦々塾会員 阿由葉秀峰

 この度の報告文につきまして前半(一)から(二)「序章」は、報告者阿由葉による「要旨のまとめ」とさせていただき、ご講演約二万字の分量を半分弱にしました。ご容赦ください。また、(三)から(五)の「昭和のダイナミズム」につきましては、ご講演をほぼ文章化した体裁での報告とさせていただきます。

序章

 最初に過日出された安倍総理の戦後70年首相談話に因み、「70年」という時間をきっかけとして終戦の昭和20年(1945年)から平成27年(2015年)の70年、そして明治維新(1868年)から昭和13年(1938年)つまり開戦前夜の70年、という二つの時間の比較を試みます。
 敗戦から今日までの70年間、私達の生活もそして国家の歴史も起伏も無く過ぎ去った感があります。そしてその前の僅か三年半の戦争について、反省や論争に明け暮れました。1938年は国家総動員法が公布され、東京オリンピックが返上され、近衛首相が「蒋介石を相手にせず」と言い切った年で、あっという間に戦争に突入した時代です。日本人は生命が安全だったこの長い70年間より、寧ろ生命を脅かされていた三年半の体験にひたすら生命感を覚えていたという皮肉な歳月を過ごしてきました。
 試みに明治維新に10歳で、昭和13年に80歳を迎えた「架空の翁」の生涯を当て嵌めてみると、彼の生きたその激動の70年間は、感じられる時間の長さ、厚み、慌ただしさ。「今日までの70年間」とはあまりに違います。明治、大正、昭和を生きた翁の数はきっと稀で貴重な人生を歩まれたとして、その感慨は大きなものでしょう。
 同じ70年といっても、とても同じ時間ではありません。例えば退屈で無為な時間はその中に居るととても長く感じるものですが、後になって思うととても短くあっけなく感じるものです。しかし短期間でも充実した時間、例えば生まれて初めて1ケ月の海外旅行などその時間は瞬く間に過ぎることでしょうけれど、再び平凡な日常に戻るとその時間がとても長く感じるものです。
 また明治維新から更に70年前は1798年(寛政10年)、松平定信の寛政の改革の5年後です。ペリー来航など未だ半世紀も前のことです。西欧に目を遣ればフランス革命からナポレオン戦争を経てアメリカが独立に向かう時代です。あっという間にも感じられた70年という時間を僅か三倍しただけでそういうことになるのです。私たちが如何に時間の錯覚の中で生きているかということです。

 半ば国を閉ざし平和でのんびりした江戸時代、そして私たちの過ごした戦後の70年間。その狭間の70~100年、日本近代は外来文明にあまりに短期間のうちに襲われ、今の私たちには想像もつかないほどの激震に襲われて喘いでいた時間でした。
激動期の苦労を偲べば、そこに先達への同情の気持ちはあります。しかし激震であったが故、慌ただしいが故に、盲点に気付かぬまま選択判断を誤ったことが沢山あったことでしょう。福沢諭吉、中江兆民、岡倉天心、内村鑑三ら明治の考慮すべき思想家は世界全体が見えていたのでしょうか。人はよく「明治の偉大さ」を言いますが、果たして当時、西欧の抱える闇の面をも見えていたのでしょうか、当時の世界を観る日本人の目は単眼に過ぎなかったのかもしれません。それほど偉大な精神や思想が成熟した時代であったとも思えません。
江戸時代はゆったりした時間の中で成熟した価値観を獲得した時代でした。そしてのんびり過ごしているこの戦後70年間。そこで育んだ経験や価値観を再評価して、それを足場に明治以降の歴史や戦争の歴史を見直すことが寧ろ必要なことではないでしょうか。

14回を数える雑誌「正論」への連載「戦争史観の転換」では、近世ヨーロッパの日本侵略への道のりを500年遡ります。古来ヨーロッパはイスラム世界に圧倒され続け、中世にモンゴルが攻めて来た時でさえモンゴル軍と妥協してでもイスラムを討ちたいという野望がみられます。キリスト教と同じ根に持つイスラム教は最大の敵で、異質なモンゴルは妥協できたのです。今日でこそ死闘を演じ続けているイスラム社会ですが、嘗てはイスラム世界の方がずっと寛容でした。そしてキリスト教徒は遥かに暴力的で非寛容でした。
中世から近世ヨーロッパの三要素に「信仰、暴力、科学」があり、特に「科学」の出現によりヨーロッパは勃興しました。たとえば内に魔女狩り、外に十字軍いとう「暴力」。そして16世紀の初頭に始まるコペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンらの「科学革命」。それらを積極的に推進したのはキリスト教会です。それは信仰の「光と闇」の二面性ともいえます。
聖書にはいろいろと矛盾した非科学的なことが書かれてありますが、プロテスタントの急進派であるカルヴァンは、科学の発展の妨げとなる聖書の曲解を止めるよう頻りに言いました。原理主義者ともいえるカルヴァンが自然科学の囚われの無い自由な思想の推奨を代表していたのは不思議なことです。意外なことにニュートンは、ピューリタン革命の源思想とも言うべき千年王国論の信者で「ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の予言に関する考察」という論文を著わしています。

コペルニクスらの天文学を巡るドラマは、今日では純粋な自然科学の問題として理解されています。しかしダーウィンの「種の起源」だけは、アメリカでは否定されて大きな教育上の問題でもあり続けています。ヨーロッパはすっかり醒めている問題ですが、アメリカは前近代的といえます。科学とキリスト教の絡み合いは一体何なのか、とても謎めいていて複雑な問題です。
ヨーロッパはもし信仰と暴力だけだったらとっくに駄目になっており、科学によって救われ、将来的には大きな覇を唱えイスラムにも打ち勝ったといえます。しかしそれは、ずっと後のことなのです。裏で圧倒的なイスラム世界という外部勢力におびえ続けた劣等感の歴史があったのです。
科学は根元では宗教と一体をなしていたといえますが、日本人が迎え入れたその科学は、「窮理の学」という合理性を強く希求する朱子学の概念のひとつとして江戸時代後期頃から迎えられました。

南北アメリカの新大陸の発見は、キリスト教の終末思想などで逼塞した状態の自己救済への道であったといえます。新大陸発見という未知の空間の出現「新大陸幻想」は、ヨーロッパキリスト教世界に途方もない好奇心を掻き立て、そこに全文明を傾けて立ち向かいました。以降400年に亘って地球全体にラインを引いて分割占拠に熱中してゆきます。
ヨーロッパは日本の僅か明治維新の直前頃までオスマン帝国というイスラム世界に圧倒され続けたのですが、そのヨーロッパに圧倒的な影響を及ぼしているイスラムを明治、大正の日本人はまるきり意識しませんでした。そのイスラムが日本人の思想界に初めて登場したのは大川周明(1886~1957)です。7世紀から17世紀までの約千年間地球を支配していたのはイスラム世界なのに、これはおかしなことです。
日本が明治維新で国を世界に開いたとき、キリスト教とイスラム教の勢力均衡の世界は見えていませんでした。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアという五大一等国の価値観、つまり万国史の名を偽ったヨーロッパ史や万国公法の名を偽ったヨーロッパ国際法学という基準を「普遍的な理想」としてしまったことに明治日本の大きな問題があります。

日本の立ち上がりは明治維新と日清日露の戦役ではありません。秀吉の朝鮮出兵、支倉常長の欧州偵察外交、シャム(タイ)に渡った山田長政等かなり早い時期です。倭寇が海賊というなら、ポルトガル、スペインも同じで、ヨーロッパのが力は一段上で、特にイギリスの海賊は圧倒的な力を誇りました。ヨーロッパも日本も海に躍り出る願望に共通するものがあったといえます。しかしヨーロッパにあって日本に欠けていたもので、歴史家が見落としているものとして、「自己救済への道」としての南北アメリカ両大陸への「新大陸幻想」があります。ヨーロッパが全文明を賭して立ち向かう「新大陸」について、日本は同じような政治的企ても予感もありませんでした。それは最大の欠点であったといえます。

ヨーロッパ、キリスト教の「千年王国論」の延長にアメリカはあるといわれますが、その「千年王国論」とは何なのでしょう。
まず神が地上に再臨して激しい争いと変革、戦争が起こり、その後に幸福な王国が訪れて、それが千年間続く・・・、というプロテスタントの革命的な思想です。因みにそれを世俗化、通俗化したものが、プロレタリア革命が起こり、その後至福の無階級社会が来るという「マルクス主義」です。何れにしても原理主義的な革命理論です。アメリカはこの過激な千年王国論、ピューリタン革命に引き摺られて出来上がった国家ということです。そしてアメリカは産業が豊かになり富が行き渡ると穏やかになるのですが、ひとたび危機が訪れると千年王国論が出現します。第二次世界大戦のときもそうでした。

以上ヨーロッパからの歴史的経緯、アメリカ「新大陸」のイデオロギーを考えてみると、いかに日本と無縁であるかが解かるかと思います。そして日本を短期間に襲った激震について、戦後保守の本を読んでも、何か日本の遅れや政治的な間違いであったり、封建制でどうだったとかいう弁解が頻りに言われますが、襲ってきたものが余りに大きく、そのため周章狼狽していたのです。だから日本の責任など殆ど何もないように思えます。

「西尾幹二全集刊行記念講演会報告(一)」への3件のフィードバック

  1. 阿由葉 樣

    毎々お世話樣です。
    また大變なお手數ですね。
    一つだけ教へて下さい。後から9~8行目に

    そしてアメリカは産業が豐かになり
    富が逡巡すると穩やかになるのですが、
    ・・・

    とありますが、この「逡巡」とはどういふ意味で
    せうか。
    私は普通の辭書に出てゐる「しりごみ」「ためら
    ふこと」「前に進まないこと」くらゐしか知らず、
    たまに「遲疑逡巡」などと重ねて使ふこともあり
    ますが、「富が逡巡する」とは、どう解釋すべき
    か、御教示いただければさいはひです。

  2. ご指摘に感謝申し上げます。
    池田様の仰有るとおり「逡巡する」は、尻込みするという意味なので、これはとても変な文章ですね。

    「そしてアメリカは産業が豊かになり富が行き渡ると穏やかになるのですが、・・・」

    と訂正いたします。
    また、とても簡単な誤表現なども幾つか発見して焦っております(落着いて見直してから報告を提出しなければいけませんね。)。気付かぬ不注意と無学を恥入っております。

  3. 阿由葉 樣

    御丁寧なお答、忝く存じます。
    「富が行き渡ると」ですか、それなら
    明快で、ピタリですね。
    せはしい中で、作業してをられるので
    すから、多少の齟齬は、あつて當たり
    前ですね。
    今後とも、よろしく。

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