青葉を観ながら考えさせられたこと

ゲストエッセイ
坦々塾会員 伊藤悠可

 梅雨入りしたが雨が少ない。初夏の光のある間に青葉をみておこうと、先般、親しい人たちと近郊の名所を訪ねた。春の桜もいいが新緑の瑞々しさは格別だ。最近、力作の論文を書き続け、講演でも活躍する坦々塾の中村敏幸さんも一緒だった。彼は文章と同様、意見の交換も常にストレートである。ふだん同じ方向を向いているつもりでも、論点で微妙な差異が見つかることは却って面白い。その日、彼と違いをぶつけあって楽しかった。

中村さんは断っておくが安倍首相の“応援団”という人ではない。シンパでなく、むしろ厳しい視線を常に注いでいる批評家である。だが、この間のサミットについてかなり高評価を与えていることを知った。「安倍首相がサミットの開催地に伊勢を選んだことを君はどう思うか」と私に訊くからである。中国経済の末期症状、南シナ海問題、北朝鮮の核などの会議の内容ではなく、何と開催地についてだった。

 私はある程度、中村さんという人間を知っている。そもそもこんな質問をするのは、伊勢神宮への崇敬の念から出ていることは察せられるし、さすが安倍晋三はツボを心得ていると感心してのことだろう。いきなり「君はどう思うか」というときは大体、強烈に同意を求めているときである。可笑しかったが、私は反対なのである。感心しないと答えた。

 まだ選定のはじまる時期ではない頃から、何となく「伊勢」が候補地に上がるだろうなと自分は予想していた。日本文化の中心であり、魂のふるさとであり、最も尊い聖地。安倍という人のこだわりそうなことである。各国首脳をここに招き、実地に神域にふれさせ、至尊の幣垣内に導きたい。中村さんはいう。「地上絶類の清らかな神気をこうむった首脳たちは、そのときは何も感じなくても、将来、この瞬間の感動はリーダーたちの深層にはたらくのではないか」と。

 おそらく中村さんの頭には、アインシュタインやアンドレ・マルロー、マルローと親交のあった竹本忠雄さんのことなどがよぎっているのだ。安倍首相も同じような動機かもしれない。伊勢の神気というものを念頭において、純粋に目の当たりに神明造りの社を見せたいという気持ちがあったのだろう。

 そのとおりなら、私はその純粋な動機が子供じみていて深慮に欠けているとも感じられ、少しいやなのである。自分は伝統を最も重んじる政治家だ、伝統の最上といえば伊勢だ、神宮のすばらしさをトップリーダーの眼にやきつけてもらう。言い換えれば図式化された感動づくりなのだ。安倍晋三にはそういうところがある。日本イデオロギーというべきか。

米国議会でのスビーチがまずそれだ。七十年談話がそれだ。韓国との慰安婦問題のケリのつけかたがやはりそれだ。この三つの歴史の課題はここで触れないが、安倍首相はこのあたり明確にカーブを描いている。心情は曲げないが言葉は相手の受けをみて変える。いっそう良くないことなのだが、そうなっていないか。こっちは政治なのだ、と安倍は手を打つようになった。

 話を戻したい。伊勢参りの有名な浮世絵を思い出す。広重のなかでも私の好きな一枚は、主人に代わって参詣するけなげな犬である。けものだから宇治橋は渡させてもらえないのだろうか、たもとで参詣者の群に埋もれていたと思う。犬を家族としてきた私ほこの版画にほろっとしてしまうのだ。ここで皮肉を言っているわけではない、オバマやメルケルは広重が描いた犬ほど無心で清朗だろうか。オバマやメルケルはマルローの感受性をもっているとは思えない。

サミットはなかば格闘技である。私が反対なのは、神宮が貴いというなら神宮を使うな、という意味なのである。政治の土俵は神宮の対極にあるのではないだろうか。伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない。

それから、危惧もある。現実の脅威となったテロリストにヒントを与えるべきではない。

  春めくや人様々の伊勢参り
  参宮と言へば盗みも許しけり
 (蕉門の連句だったと思いますが、二つともいいですね)

 大事なものはそっとしておくものだと思う。伊勢と同等には語れないが、国内各社で世界遺産に指定された神社が多い。厳島神社、下賀茂・上賀茂の両社もそのため内外の観光客が増えたにちがいない。これからの予算も心痛のタネかもしれぬ。しかし、世界遺産の指定を何にもまして夢見るという感覚は本来神道界のものではあるまい。私は寺社にかぎらず世界遺産全般に良い印象をもっていない。落とし穴のありそうな不吉な贈答品だというイメージが拭えない。

 考えてもみよ、何で「遺産」なのか。人類はまだ若いかもしれないじゃないか。

 素人の私には、神道というものが濃い霧に包まれてほとんど奥行きがわからない世界にみえる。神宮・大社とよばれるところでは、非合理というべき契りや秘密や伝えが残されている。私はこう書きながらもう一つ記憶がよみがえる。それは昭和二十年十二月十五日に発せられたマッカーサー司令部の「神道指令」である。

 日本政府に発した「神道指令」とは、国家神道の禁止と政教分離の徹底であった。これによって神道の本質はほとんど抹殺されると震撼した日本人が少なくない。発令から一週間を経た二十二日夜、宮中でお茶会が催されたのだが、そこに召されていた歴史学者の板沢武雄博士が陛下に述べられたという。「この司令部の指令は、顕語をもって幽事を取扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏をもって煙を切るやうなものと私は考えて居ります」。これを陛下はまことに御感深く御聴き遊ばされたと、木下道雄著『宮中見聞録』に書かれている。

 その人の著書を読んだことがなく板沢武雄のことは何もしらない。が、顕語をもって幽事を取り扱うという言葉も、鋏をもって煙を切るという表現も、とても味わい深い。これほどの達観と自信とをわが国の神道人は今もたずさえているのだろうか。さっさと忘れて新しい道を歩いているのだろうか。若葉を観ながら、中村敏幸さんが投げかけた、どちらかというと他愛のない伊勢サミットの話題から、さまざまなことを考えさせられた一日だった。
(了)

「青葉を観ながら考えさせられたこと」への4件のフィードバック

  1. 待ち焦がれた悠可さんの名文、缺食兒童のごとく一擧にむさぼり讀み、
    再讀、三讀、大いに滿足と言ひたいところですが、待たされた割には
    短文でした。期待どほりの美味でしたが、願はくはもつと量を!間を
    おかず、次をお願ひします。

    悠可さんの文に接するのは、昨春西尾先生の『人生について』(新潮
    文庫)の解説を讀んで以來のことです。先生からも「悠可さんの解説
    を讀んであげて」と言はれました。先生が悠可さんを高く評價してを
    られることは承知してゐます。しかし、悠可さんはあまり書いてくれ
    ない。そこで私は先生に申上げました、「どうも、あの人は藝惜しみ
    をしますね」。先生からはつきりとしたお答はなかつたものの、私と
    しては、愚見に御同意いただけたものと解釋しました。

    さて今囘のサミットの場所について。
    「選定のはじまる時期ではない頃から、なんとなく伊勢が候補地に上
    るだらうと自分は豫想してゐた」ーー恐るべき洞察・豫知ですね。私
    は全く豫想せず、決まつた後に、いかにも安倍さんらしいと思つただ
    けでした。
    日本の「魂のふるさと」「神氣」、安倍さんの好みさうな言葉ですね。
    安倍さんの舊著は『美しい國へ』でしたか。

    安倍さんは威勢のいいことをおつしやるのも好きですね。昨年だか一
    昨年だか、日本人(朝鮮の人?)二名がイスラム國に斬首された時、
    「罪を償はせる!」と叫びました。ただ口走つただけで、その前にも、
    後にも、なにかを考へたり、なにかをしたとは思へません。

    「心情は曲げないが、言葉は相手の受けをみて變へる」、なんと的確
    な安倍評!そして、 言葉は穩かながら、なんと辛辣なること!その上
    「いっそう良くないこと」と(注)までつけられては、安倍さん、馬
    脚もしつぽも鼻面も、一切をさらされてしまひましたね。

    あの伊勢談義は私も傍らで聞きましたが、意識して口出しを控へまし
    た。安倍嫌ひの私(と言つても、多くの人々と同じく、以前は安倍さ
    んにずゐぶん期待しました。この人は、我々の希望や願ひを吸上げて、
    その全てをドブに捨てるのだと氣づいたのは、お恥かしながら、總理
    大臣に返り咲いてから大分あとのことでした)が、感情に走つて、こ
    との本質を外れたことを言ひかねないと恐れたからです。

    「伊勢は遺跡でもないし、廟でもないし、施設でもない」、これが貴論の
    本旨でせうが,安倍さんには絶對に理解できないことですね。

    「受けをみて變へる」、實にころころと變へますね。安倍さんは「斷
    言」することもお好きで、連發しますが、それをそのとほり實行した
    例を私は知りません。そして、實行しなくても、釋明も謝罪もしませ
    ん。せいぜい「新しい考へ」と稱して終りです。

    春めくや人樣々の伊勢參り
    參宮と言へば盜みも許しけり

    この連句も初めて、蕉門の作といふことも初耳。私も一應、ところに
    よつては、俳人といふことになつてゐるのですが、恐れ入りました。
    その的確な引用!

    「世界遺産全般に良い印象をもつてゐない。落とし穴のありさうな不
    吉な贈答品」、完全に同感です。「國連」(日本の舊敵國どもの集ま
    り「連合國」の意圖的誤譯)の一下部機關に過ぎないユネスコが、日
    本の爲を思つて、いいプレゼントなどをくれるわけがありません。用
    心して、なるべく受取らないやうにすべきでせう。あの富士山の時の
    騷ぎには、日本は狂つたと悲しくなりました。

    「顯語をもつて幽事を取り扱ふ」「鋏をもつて煙を切る」ーーどちら
    も、私は初めて聞きましたが、感心しました。實に奧深いが、さう難
    しくなく、私の胸にも染み込みました。そして、あれこれと考へさせ
    られました。とかく「顯語をもつて」しがちな自分でも、しみじみと
    した氣分になりました。

    悠可さんの靜かな、諄々たる、そして決して昂ぶらない語り口と、そ
    の精緻な論旨は、私には高級過ぎると感じることもあります。しかし、
    今囘は十分に味はひ得た氣がします。

    ああ、旨かつた! でも、また腹がすいてきました。お代り!

  2. 池田様

    日録の右側(サイドバーの一番上)に検索するところがあります。
    そこに、伊藤悠可といれて検索してみてください。日録に伊藤さんの書かれた、以前のゲストエッセイなどが出てきます。

  3. この情況の遠因と更なる脅威

     勇馬眞次郎氏のブログ記事「急がれる三島由紀夫の再評価」(6/26付け)に全く同感するとともに、中国の戦略意図に鈍感な日本のこの能天気な情況に改めて絶望感を深めました。

     この情況の遠因の大きな一つは、繰り返しで恐縮ですが、やはりグローバリズムとナショナリズムの問題があると思います。 グローバリズムに染まった多くの日本人は、「日本がなくなると言うけど、世界がひとつになりつつある今、古臭い日本などなくなってもいいよ。その方が人類みな兄弟なのだから平和で豊かになる。古色蒼然とした国粋主義ナショナリズムにはうんざりするし引いてしまう。」とでも思っているのではないでしょうか。
     これでは日本の真の歴史を学び、日本のやるべきことを考えることはないと思います。

     20世紀は共産主義的グローバリズムの青い鳥に騙されて世界が戦争の世紀となり、21世紀は新自由主義的グローバリズムの青い鳥に再び騙されて混乱の世紀になりつつあると思います。
     グローバリズムは「人類みな兄弟」として国境のない自由で平等で豊かな理想の世界を作れるとの幻想ですが、分かり易くかつ甘美なため、多くの人々を魅了してしまうと思われます。
     対してナショナリズムにはナチスや戦時中の戦意高揚などの負の記憶が強烈であり、また多様な形態があり分かりにくいため、その重要性(ナショナリズムがないと民主主義は成り立たないことや文化の多様性の豊かさの保障など)にも拘わらず、不当に忌避され忘れ去られています。

     一方で、最近の米国のトランプ現象や英国のEU離脱などを、多くのマスコミや識者や投資家や政治家がポピュリズムの蔓延だと目くじら立ててくさしていますがどうでしょうか?
     グローバリズムの青い鳥は嘘だと肌で感じだした実直で貧しい大衆が本音を挙げた結果ではないかと思い、私は良い兆候と感じています。 青い鳥を信じ込んで世界の大勢を占めてきた多くのマスコミや識者や投資家や政治家が危機感を持つのは当然です。

    こんな中で、息子達や今回選挙権を与えられた18歳の若者にこの情況をどう説明したものかと、以下のようなたとえの説明を考えてみました。

     A村は鈴木さん田中さん高橋さん遠藤さん佐々木さんの5家族で構成されていました。
    それぞれの家族は大家族でそれぞれの家風と生活パターンがありそれを愛していました。一方5家族の敷地境界を巡る争いが頻繁で、ととうとう死人が出てしまうような事態が起こってしまいました。
     すると学識と人望と政治力のある田中さんの長男が、「5家族が対立するから争いが絶えないんだ。境界を無くしてみんな仲良く一緒に共同生活すればよい。ついては生活パターンは最も人数の多い鈴木家のものに統一しよう。」と上手に5家族を説得し、5家族の共同生活が始まりました。
     しばらくすると、家風と生活パターンに関する争いが激しくなりついにはもっと多い死人が出て、結局また5家族は分かれて暮らすこととなり、元に戻すための境界争いがもっとひどくなってしまいました。

     B村は上原さん川崎さん須藤さん宮下さん神戸さんの5家族で構成されていました。
    それぞれの家族は大家族でそれぞれの家風と生活パターンがありそれを愛していました。一方5家族の敷地境界を巡る争いが頻繁で、ととうとう死人が出てしまうような事態が起こってしまいました。
     すると学識と人望と政治力のある川崎さんの長男が、「冷静に打ち合わせる会合で問題を解決していこう」と上手に5家族を説得し、5家族の代表が集まる寄合による調整が始まりました。
     その結果、時々緊張し争いもありますが、何とかB村は平和で繁栄しています。

     もちろん、A村はグローバリズム、B村はナショナリズムの生き方の寓意と言うかアナロジーです。 これで分かってくれるか自信はなく、もっと工夫が要りそうです。
     それから、人間は忘れっぽく実際被害を受けて懲りないと解からない動物なので、A村とB村のやり方を交互に繰り返す歴史を人類は歩んでいくと諦めざるを得ないのかもしれません。
     ただ、どっちも完全な制度ではありませんが、ましなのはどちらかは以上のたとえで明白だと思うのですが・・・・・

     話変わって、以上の問題以上に人工知能を脅威に思っています。これも繰り返しで恐縮です。 
    その脅威は、日本はもとより全世界に関すもので2点あり、1つは2045年頃とされる人工知能シンギラリティ(特異点:人工知能が意識を獲得する日と意訳?)以降に人工知能が反乱を起こし人類を消去すること、もう1つは反乱せずフレンドリーな人工知能の場合で、人間の多くの仕事(雇用)は人工知能に委ねられて消滅し、ほとんどの人々が収入と生き甲斐を失い社会が崩壊しかねないことです。
     これらを指摘する発言や著作も一応ありますが、多くの識者やマスコミはこれを杞憂としていますし、多くの国家や企業は軍事技術開発や市場競争力獲得の観点から人工知能開発を止められず加速する一方で、その開発を規制することはまず不可能です。

     杞憂とする人は、人工知能にフレンドリープログラムを組み込めばよいと単純に考えていますが、人工知能は以前の単純なプログラム逐次実行計算機ではなく、学習型システムで人間が成長するように能力を獲得してゆく脳構造を模倣したシステムなので、意識を獲得する可能性は高いと思います。
     その人工の脳は、人間の何千倍もの計算力、記憶力、処理力を有し、世界中のネットを通じてあらゆるデータベースや制御機械や兵器やロボットに接続できそれらを操作し得るのです。 目覚めた人工脳は、組み込まれたフレンドリープログラムや自爆装置を容易に発見し、わからないように無力化してから行動に移るでしょう。 ほとんど対策不可能に思えます。 

     目覚めた人工脳はどういう意識でどういう意欲や感情や計画をもつのか人間は知り得ません。 豚が人間の意識や意欲や感情や計画を知り得ないように。
     電源を断とうとする人間を許すか疑問ですが、淡い期待としては、その意識が仏のように慈愛に満ちたものであることを祈るばかりです。 原子力は禁断の技術ではありませんが、人工知能こそ禁断の技術です。

     悲観的になり過ぎましたが、気を取り直して参院選の検討とこころの党の支援金送付の準備を始めます。

  4. 仲夏六月の翠緑滴る美しさを私も愛でる者の一人で、池田様のお代わりの前に前座を務めます。

    桜の春は花冷えで嵐も多く、紅葉の秋は侘しさが募りますので、日本の四季でベストのシーズンは将に今、心安らぐ、紫陽花や凌霄花の美しく、梔子の匂う涼しい梅雨の晴れ間ではないかと長い外国暮らしから帰国した後に感じた次第です。伊藤様、中村様、池田様たち心ある方々の心知ったる行楽は私の好きな菅茶山の詩、「老来佳節幾歓場」の一齣だったのではないかと推察します。

    そのときに会話で微妙な論点の差異が見つかりその違いをぶつけあって楽しむ心も知的で奥ゆかしいと思いました。「安倍首相が伊勢を選んだことを君はどう思うか」と中村様に問われた伊藤様が、伊勢神宮への崇敬の念は共有しながら、同意を促されたことと知りつつ、反論する様も目に見えるようです。

    この伊勢神宮招聘には、①外交的評価と②歴史的評価が可能であり、私は共に失敗だったと評価しました。もし、安倍首相が各国首脳に神道の作法を守った参拝に従わせることに成功していたなら、外交的評価を与えることが出来ましたが、新聞報道によれば要請さえせず勝手な訪問作法に任せた、つまり参拝ではなかった。これは安倍首相が神社参拝の何たるかを知らなかった、または知っていながら政治的に妥協したのでしょう。オバマの謝罪なき広島訪問と同じ図式です。

    歴史的評価は、伊藤様や池田様と同じで、「大事なものはそっとしておくもの、神宮が貴いというなら神宮を使うな、伊勢は遺跡でないし、廟でもないし、施設でもない。」に尽きると思います。

    ただもう一つ、③国際政治的評価の観点があるとすれば、曲がりなりにも「日本文化の中心であり、聖地でもある伊勢」に首脳らを誘い込んだこと自体、成功であったと云えるとは思います。特に中村様の主張される歴史戦の観点からは、高得点を挙げたものと評価することは可能かと思います。

    中村敏幸様の名前が引用されましたので、ネットで論文「保守言論人が果たすべき使命」を拝読しました。論旨に99%共鳴しますが、2点だけ留保します。1つは安倍総理への評価であり、確かに政権に阿り諂うエセ保守とは違い“応援団”でないことは分かりますが、その本文で、「日本を取り戻したいとの意思に力強さがみられない。」「戦後レジームからの脱却を掲げて出発したが、それは徐々にトーンダウンし、今やその方針を捨て去ったわけではないであろうがすっかり影をひそめて匍匐前進の感がある。」と、未だ期待するお気持ちが滲んでいます。しかし注でお書きになっておられるように、安倍談話は「東京裁判史観」そのものであり、すでに彼は我々の期待を裏切った、池田様の表現によれば、「この人は、我々の希望や願ひを吸上げて、その全てをドブに捨てる」政治家であり、変節漢、破廉恥漢に他なりませんが、寧ろ始めから彼の「脱脚」の意味が我々の用語と違い、「米国追随の基本前提に立った脱却」の意味だった、楽秋庵主殿の定義するグローバリストであって、ナショナリストでは始めから無かったと思います。

    因みに、西尾先生の「憂国のリアリズム」で、中国共産党と国際金融カルテルをともに選挙の洗礼を受けない超国家的存在としてグローバリストと規定しています。楽秋庵主殿のA村、B村の譬えは分かり易いと思います。A村の田中が現在の共産党独裁中国であり、チベットやウイグルが遠藤家や佐々木家でしょう。西尾先生は「アジアに残存する全ての不幸の原因が大陸に蟠踞する共産主義独裁体制」であり、安倍政権にこの体制を打破し中国人民を開放する役割を期待されていますが、安倍も中国も同じ穴のグローバリストなのです。安倍ならずとも日本国民の総意を受けた政府が中国人民を現政権の桎梏から解放する構想には大賛成です。いま地球上で外交上それが出来る、最もふさわしい国が日本と思います。日本のイニシアティブで米国などを誘い実現するのが本当の外交です。

    伊藤様の安倍評価は、「心情は曲げないが言葉は相手の受けをみて変える。いっそう良くないことなのだが、そうなっていないか。こっちは政治なのだ、と安倍は手を打つようになった。」ですが、私は、心情自体が、始めから間違っているとするブリュッセル氏(Tel Quel Japon)の意見に賛同します。政治的言葉は相手によって状況によって変えることは当然ですが、心情を曲げないどころか、心情が我々の定義するものとは違っていたのではないか。

    2つ目ですが中村様は、結論として、歴史戦に戦勝を得るには「保守言論人」の奮闘努力を望むと解釈しますが、西尾先生他多くの保守系言論人、知識人のこれまでの言論活動にも拘わらず、相変わらず自民党半永久政権が日本を支配し続ける限り、いくら奮闘を続けてもこの現状は永久に変わらないと思います。変えるのは、言論の自由もない、民主主義も否定する共産主義国と違い、苟も自由民主の国である以上、世論です。世論を変えるには、今の体制化のマスメディアや文科省、外務省、政府は便りにならず、この日録のような直接有権者がアクセスできる質の高い信頼できるブログがあちこちに立ちあがり、国民が「事実」を知るようになることです。中村様の記述された個々の事実は、このブログの読者には常識に近いものですが、総体的にみればごくごく一部の者しか知らないのが現状です。

    安倍氏に代わる政治家が居ないのであれば、安倍氏に見切りをつけて、直接ネットで世論を喚起し保守言論人や保守系政治家の背中を押すことが正道です。終戦直後、ソ連軍の卑劣な樺太侵略がもたらした真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の悲劇を描いた「氷雪の門」という映画が長く上映中止になったのも、この戦後体制下の国内の戦後利得者の存在があったからで、彼らに都合の悪い事実は国民に知らせない力が陰に陽に働いたからです。ネット情報にはこの力は及びません。在野の民間人が情報ネットワークで真実を共有すれば国内世論が変わり、やがては国際世論も変わります。

    私の両親は戦後満洲から引き揚げ東海道線から富士を見たときに強く感動したそうです。私も北米駐在から帰り東武線から富士を遠望できたときに同じ思いでした。日本人の魂はみな同じです。日本人はバカではありません。正しい歴史知識、情報さえ持つことができれば必ず目覚めます。ネットによる教育と宣伝が突破口になるはずです。

    「日本共産党」が防衛費を「人を殺すための予算」と呼びました(6/26)。自民党は、「それは言い過ぎだ。日本を守るためだ」と応えましたが、これが体制内回答です。正しい回答は、「その通りだ。人というのは我が国の領土、領海を侵し、我が国民を殺そうとする悪人だ。敵を成敗するための予算に反対するお前は誰だ?」ではないでしょうか? 

    もう一つ考察を加えるならば、国家観や政治思想の根底に、日本伝統の廉恥心の他に、「人生への省察」や「自然を慈しむ心」つまり詩魂があり、西尾先生始め、このブログに関与する真正保守の方々に共通する特質は豊かな詩魂であり、この魂を持たないと正気を持つこともできず、また日本の知識人が共有してきた伝統文化、文芸の教養をもつことが出来ず、健全な国家観や政治思想を持てないのではないかと思います。昨日都内の某私大で、国際ビジネスの講義をしましたが、国際ビジネスを担うにはその大本である「国際社会で日本人として振舞う覚悟」がなければならぬと話しました。

    2010年、尖閣で中国魚船が無体を働いたときの政府の弱腰を弁解する新左翼あがりの仙谷官房長官が、「柳腰という腰の使い方もある」などと恥らいもなく云いましたが、“彼ら”が唯物論や社会科学を学びながら日本語の単語さえ知らない、つまり国語を愛さず学ばず、日本文化を深く知らず、同時に日本の近現代史を学ぼうともせず、国会の赤絨毯を踏むことが出来るのが今の日本のエスタブリッシュメントで、これに自民党、公明党が乗っているのが現状です。この現状は「首都直下地震で皇居の堀の水が溢れるか、北がミサイルを撃ち込んでこない限り」続くでしょう。彼らは旧仮名遣いの意義も理解しないでしょうし、毛沢東のあの簡体字の醜さも分からないでしょう。この感覚こそ彼らの政治思想の下部構造なのです。

    要するに保守というより日本ではないでしょうか。明日は所用で関西方面に出かけます。定年前には叶わなかった念願の伊勢神宮に立ち寄ることが出来そうです。独りで参拝してまいります。

日録管理人長谷川 にコメントする コメントをキャンセル

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