昨年2月から毎月1回のペースで10回行われた『歴史教科書 10 の争点』という連続講座が間も無く本になる(徳間書店刊、定価未定)。
聖徳太子(高森明勅)、大仏建立(田中英道)、ヨーロッパの世界進出(西尾幹二)、江戸時代(芳賀徹)、明治維新(福地惇)、明治憲法(小山常実)、日露戦争(平間洋一)、二つの全体主義(遠藤浩一)、昭和の戦争(岡崎久彦)、占領下の日本(高橋史朗)が10の講座の内容で、人選とテーマ設定のコーディネーターは藤岡信勝氏であった。
私は昨年4月8日に文京区シビックホールで300人くらいの会衆の前で上記テーマについて話をさせてもらった。その内容が今度の本に収録される。
それに先立って、つくる会機関誌『史』(ふみ)の平成16年5月44号にこのときの講演の要約文がのせられた。要約文とはいえ、きちんと手をいれ、これはこれで独立した文章としてまとまっているように思うので、ここに再録する。
『国民の歴史』第15章の「西欧の野望・地球分割計画」が念頭にあるが、後半で同書にも、教科書にも書かれていない新しいテーマに触れた。ヨーロッパの世界進出がまだ終っていないのは政治的理由によるのではなく、後半で述べられたこの新しいテーマによる。
ヨーロッパ人の世界進出
ヨーロッパ近代の本質とガリレオ・デカルト的思考の恐怖
■西洋はなぜアジアを必要としたのか
十五世紀まで無力だったヨーロッパはなぜかくも急速にアジアへ進出することが可能だったのでしょうか。
ポルトガルはアフリカの南海岸を南下してアジアをめざし、スペインは大西洋を西へ西へと回って西インド諸島を発見、コロンブスがその代表としてアメリカ大陸発見ということになった。なぜポルトガルは南に行き、スペインが西へ行ったのか。
彼らはジパングやインドを求めてきたのですから、地中海を東へ渡って陸路を来るのが近道だと思うのですが、それができなかったのは、当時、地中海がイスラム勢力に完全に制圧されていて、通行不能だったためです。しかし、全ての教科書はヨーロッパの進出をヨーロッパ文明の世界への展開という見地で書いており、扶桑社版の『新しい歴史教科書』のみが、ヨーロッパはイスラム勢力を迂回し南と西へ進んだという事実をはっきり書いています。
当時の世界の中心は東南アジアでした。スペインやポルトガルがこの地域一帯を支配していたなどという事実は全くありません。それもまた多く誤解されている点で、ヨーロッパの世界制覇ということは現実には行われていなかったのですが、彼らの観念、頭の中では世界征服の地図はでき上がっていました。それがトリデシリャス条約で、大西洋の真中に南北に線を引き、ポルトガルとスペインが地球を二つに分割する協定をローマ教皇庁が承認しています。
当時、ヨーロッパは本当に狭い地域におさえこまれていました。イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出した年が1492年、ちょうどコロンブスがアメリカ大陸を発見した年です。
ヨーロッパはたいへん遅れた地域でした。14、5世紀、生産性は低く、科学技術は遅れ、内乱と宗教的迷信に支配される、考えられないほど野蛮な地域でした。「ローマの平和」と言われた古代の時代が過去にありましたが、それが過ぎてから千年にわたるヨーロッパの歴史の中で十年以上平和だったことは一度もありません。なぜヨーロッパ人はかくも戦うことを好み、武器の開発に凌ぎを削り、順次東へ進出してきたかというと、故国にお金を送るため、ヨーロッパの中で果てしない戦争を繰り広げるための戦費が必要だったからです。そのために、アジアに進出してアジアの富を攻略することが急務だった。
当時、ヨーロッパの横にはロシアのロマノフ王朝、西アジアのオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、そして東アジアの清帝国という四つの大帝国があり、それぞれが大きな枠の中に安定して存在していて、一種の世界政府でした。このうちロマノフ王朝だけはヨーロッパ文明側にくっついていきますが、オスマントルコ、ムガール、清は16世紀から18世紀くらいの間に次々と西ヨーロッパの餌食となってしまうのです。アジアの大帝国は西洋よりも遙かに豊かで進んでいた国であり、近代を生み出したとされる三大発明、火薬、羅針盤、印刷術は中国を起源とします。中国科学の方がはるかにヨーロッパに優越していました。
つまり、西洋はアジアを必要としていたのに、アジアは西洋を必要としていなかった。物は豊富で政治は安定し、帝国の基盤は盤石で何一つ不足はないかに見えたその三つのアジアの大帝国。しかし、何故に遅れていた西ヨーロッパがアジアに勝る状況を生み出してしまったのか。
西尾先生、残暑お見舞い申し上げます。
「ヨーロッパ人の世界進出」は、たいへん興味深く読ませていただいております。
このテーマ関連で、思い出したことがありました。
日本が鎖国政策に入る序幕となった秀吉のキリシタン追放令(1587)は、キリスト教信者の迫害と一般に残酷な話として語られていますが、
ゲッティンゲン大学で日欧比較文化史研究にたずさわった松原久子氏が著書「WEG ZU JAPAN」で、当時の為政者たちは日本に入って来るキリスト教を厳しく取締りする必要があった、という見解を出していました。
これは、当時日本へ布教に来た宣教師たちが国王や教会本部へ送った書簡をヨーロッパ各地の図書館から収集したものに基づいているとのことです。
(抜粋)
『もし、これが逆の立場であったならば、今日のヨーロッパの歴史には何と述べられていることだろうか。
たとえば十六世紀末、シシリー島の港あたりにひょっこりと一団の仏僧が姿を見せて上陸し、その地方の住民に仏陀の教えを説き、キリスト教は邪教であるから教会を焼き払わなければならないと煽動し、仏教寺院を建てて領主を改宗させ、その援助で港を造ってはその一帯を領有し、十字架やマリア像さらには聖人像を叩き割って焚いた火で精進料理を作って舌鼓を打ち、仏僧の配下にある貿易船が毎年来航してヨーロッパにない物を持参し、人々は競ってそれを買い、船が去るときにはイタリアの貧しい村々で安く買い集めた少年少女を鎖に繋いで乗せ、奴隷として運んで行ったとしたならば』
こういうのを聞くと、ヨーロッパ人のアジア遠征というのは、今の我々の想像を超えるほどの凄まじい執念があったのか、と思わされます。