坦々塾「冬の富士を愛でる」一泊旅行

 平成31年2月13日(水)から14日(木)にかけて、西尾先生を囲む有志16名とともに、甲斐の国の名勝地、富士五湖周辺を巡ってきました。これはその紀行文です。

 昨年の暮れも押し詰まったころのこと、西尾先生が「オーケストラの演奏をコンサートホールで聴いたり、まだ読み残している文豪の小説を読んだりする、そんなゆったりとした時間を過ごしてみたい」と、だれに言うともなくつぶやかれた。
 先生がいかに多くの、そして偉大な仕事をされてきたかということは、現在刊行中の浩瀚な個人全集を見るまでもない。しかもそれが、決して物理的に巨大なだけでないことは、このブログの読者ならば、だれでも知っていることであろう。
 先生の言葉を聞いて改めて気づいたのは、あれだけの仕事をなされるために費やした時間とは、慰安や娯楽を犠牲にした膨大な切磋琢磨の積み重ねだったということである。まさに、疾風怒濤の人生である。

 これもまた昨年の春のこと、花を見ようというお誘いを受けて日時を約束したが、去年の異常に早い開花に、その日の桜は残り花一片とてなかった。桜と富士こそは、日本人のこころに、悠久の時を経て受け継がれ、育てあげてきた美の象徴でもある。花と呼ぶだけでそれが桜花であることを、わが民族は共通の心情として持っている。

 それ故にこそか、桜も富士もどちらも月並みだが、月並みこそは最高の様式ではないかと思う。洗練に洗練を重ね、その絶頂に完成された月並みこそが様式美だと思うからである。

 先生から富士山に行こうと誘われたのは、去年の11月であった。桜の開花日が神のみぞ知るように、富士が望めるか否かも神の采配にかかっている。ならば、晴天の確率が高く、しかもその姿あくまでも気高き、真白き富士を仰ぐためにも、あえて真冬の山梨に行きましょうと提案した。

 一日目、雨こそ降らないものの空は雲に覆われている。この旅でのお宿は、富士五湖随一の名旅館と謳われる鐘山苑(かねやまえん)であった。

 その中でも特に名物といわれているのが、屋上露天風呂から左右の裾野まで見渡すことができる富士の雄姿である。だがこの日、結局富士山は一度も顔を出すことはなかった。
 翌日の天気予報を確認すると、晴れ時々曇りとなっている。気になるのは気温が高いことだ。地上に暖気が残るということは、放射冷却の朝のように、カラリと晴れる条件を満たさない。深夜から早朝にかけて何度も空を見上げるが、月も星も見えない。やがて、東雲(しののめ)の空を朱に明け染めることなく朝がきた。おそらく、全員の胸に落胆の思いがあふれていたことであろう。
「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ」という気分になどとてもなれない。

 二日目は山中湖の水陸両用バス「KABA」に乗る。
 30分の行程のうち前半の15分間は林間を走り、後半はそのまま湖に入り、水上に浮かんだまま湖水の上を周遊するというものだ。
 実は我々は、ホテルの出発が遅れ、当初予約していた便に間に合わなかった。そのため一本遅いバスに乗車したのであるが、結果的にこれが奏功したのである。バスが山中湖に入ったとき、左窓からはわずかに富士の裾野だけが見えていた。そして、対岸の手前で反転し陸地が近づく直前、富士の山頂が姿を現したのだ。時刻は午前11時10分だった。

 それからは、中腹を覆っていた雲もやがて切れ、忍野八海に向かう車中からは、ほぼその全容を眺めることができたのである。

 このとき西尾先生が山の斜面を見つめながら、「あのギザギザとした線はなんですか?」とお尋ねになった。それは直登を避けるためにジグザグにつけられた九十九(つづら)折れの登山道で、いくつかある富士山登山路のうちの吉田ルートのものである。


 毎年何十万人もの人によって踏み固められ、そして削られてゆく、現在進行形の富士の生傷とも言えよう。

 忍野八海では、そこに滞在中ずっと富士山を見ることができた。背景は青空ではなくて厚い雲ではあったから、終わりよければすべて良しとするには少し足りないかもしれないが、見えるのと見えないのとではまったく違う。やっと少しだけ、責任を果たしたような気分になった。

 例年4月から5月にかけて、富士山の北西斜面に「農鳥・のうとり」という雪形が出現する。これが現れることで春の訪れを知り、農作業の準備をしたという言い伝えがあるが、我々が訪れたとき、この農鳥がくっきりと見えたのである。


 冬場の強風等で周囲の雪が吹き飛ばされることで、1月や2月に現れるものを地元では、「季節外れの農鳥」と呼ぶのだそうである。

 昼食を終え帰路につくバスが高速道路に乗るころには、富士はまた厚い雲の中に隠れて見えなくなった。

 古今和歌集から富士を読んだ歌、二種

人知れぬ思ひを常に駿河なる富士の山こそ我が身なりけり(詠み人知らず)
【恋しいお方に知られない思いの火を燃やし続ける私。まるで、火を噴き出す富士山こそ我が身なのだろう】

富士の嶺のならぬ思ひに燃えば燃え神だに消たぬむなしけぶりを(紀全子)
【炎にはならず、煙ばかりをあげる富士山のように、私の思いも成就しないまま燻ぶるだけ燻ぶるがいい。神も消すことが出来ない空しいその煙を】
どちらも片恋の歌である。
 富士山が最後に噴火したのは宝永4年(1707)だから、古今集が勅撰された延喜5年(905)の平安時代にも盛んに噴煙を上げていたことだろう。ずっと時代が下った平安末期、西行法師も
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな(新古今)
と詠んでいる。

 「三七七八米(ママ)の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすくつと立つてゐたあの月見草はよかつた。富士には、月見草がよく似合ふ」
富嶽百景の、特に最後の一行は有名だが、実は太宰は同作でこんなことも書いている。
「御坂峠に着き、この峠の天下茶屋から見た富士は昔から富士三景のひとつらしいが、あまり好かなかつた。好かないばかりか軽蔑さえした。あまりに、おあつらえのむきの富士である。」
 実は西尾先生も、これとそっくりのことをおっしゃっていたのである。「手前に湖があって、その奥に富士山があるような眺めは好きではない。人々の生活感が感じられる屋並みを通して望む富士こそ見たいのだ」と。

浅野正美

「坦々塾「冬の富士を愛でる」一泊旅行」への5件のフィードバック

  1. 綺麗な写真がたくさん撮れていますね。
    小生の生活圏は東京よりも富士山に近いところですが、その昔
    遠くから通勤して同じ職場で働く人から「富士山が見えるところで
    仕事をしたり生活をしたりできるのは幸せなことなんだよ」と
    言われたことがあります。確かにそうだと思います。

  2. 幹事さん、至れり盡せりのお世話になりました。

    私は二日めの朝、 屋上露天風呂から富士の頂上を見ました。
    初めは全體が雲に蔽はれてゐて、さつぱり。人に訊いて方角を確かめるのが
    やつとでしたが、三段の湯を移りながら、粘つて浸かつてゐるうちに、雲がゆつくりと動き、僅かながら切れ間が出來ました。
    そして、その中に、7~8合めから上の部分が現れました。せいぜい一分くらゐだつたでせうが、心中、歡聲を發しました。坦々塾の仲間も二三人一緒でした。
    「左右の裾野まで見渡すことができる富士の雄姿」にはほど遠いながら、完全に諦めてゐただけに、儲けたやうで、嬉しくなりました。

    先生は朝の寒氣を警戒、屋内の大浴場にいらしたとか。そちらの方がのんび
    りできて、正解でせうね。富士は私のやうにがつがつと追ふべきものではないでせう。

    忍野八海の變りやうには驚きました。20年くらゐ前まで、毎年2囘、近くにテニスをしに來た序でに訪れましたが、その頃は富士の眺望がほしいままでした。湧泉と水車を入れた富士の姿など、どこで誰が撮つても一應の繪になりました。繪葉書やカレンダーの富士の多くはここからのものでした。
    太宰の言葉を借りれば、こちらこそ、あまりにも「おあつらへむきの富士」なので、ヘボの私でさへ、撮影の意欲をそがれました。天下茶屋からの眺めの方が遙かに趣がありました。

    然るに今囘は、富士の見える場所が著しく減つてゐました。悠然とたつぷり仰げるポイントなど見つかりませんでした。恐らく、以前にはなかつたものができたせゐでせう。資料館といふものがあつて、その屋上では富士と眞正面に相對せるやうです。入場料を取られるのと、中で支那人の群に埋まる(道で行き交ふのが皆支那人なのだから、當然さうなります)のがイヤなので、這入りませんでした。どなたか入場されたのでせうか。

    支那人が多いのは惡いことばかりではありません。三四人の仲間と歩いてゐ
    て、10數人の支那女性のグループとすれ違ひました。
    向うは皆若く、美人揃ひでしたが、我が方の I さんは、その中でもとびきり美しい人にづかづかと近づいて、
    ” Would you please press the button? ”
    とかなんとか英語で言つて、カメラを手渡しました。我等を撮つてくれと頼んだのです。相手はなんと答へたか聞えませでしたが、にこにこしながら、三枚も撮つてくれました。なんともチャーミングな、氣高い笑み!

    I さんによる、咄嗟の best beautyの選擇と果敢な行動には感心しました。 教科書の運動などをやつてゐると、勇氣や國際性が身につくのかもしれない・・・。同時に、向うのグループでは「近ごろの日本人は圖々く、狎れ狎れしい。變なことを押つけられないやう氣をつけなければ」などと言つてゐるかもしれないと思つて、可笑しくもなりました。まあ、いづれにしても、日支友好は結構なことです。

    しかし後日、I さんから送られてきたその寫眞を見て、ガッカリしました。毎度お馴染の小父さん達だけが竝んで立つて、なんの意味がありませうか。I さんに對して、「我等と竝んで、寫眞に收まつてくれーーと何故、あの美人に頼んで下さらなかつたのですか。そこまで行かなければ、ボタンを押して貰ふ程度では、眞の日支親善にはなりません」と言ひたくなりました。
    若い頃、かういふ場合のために、英會話教室で先生に質問しました「私と一
    緒に寫眞に寫つてくれませんか」と英語ではなんと言ふか。 ” Would
    you have a picture taken with me?”と教へられました。

    富士の「農鳥」については、あとで寫眞をお送りいただいて初めて氣づきました。その翌日、硫黄島唐辛子の種を播きました。10年くらゐ前、親戚の元海上自衞隊勤務の男に苗を貰つて以來育ててゐるのです(小粒ながら辛さ
    といふ點では優秀)。その報告メールに農鳥の寫眞をつけて送つたところ、
    「農鳥を見て、日米激戰の、熱帶の地産の植物の播種とは、感動した」と返
    事がきました。

    出發前に、先にバスに乘つてをられた先生に御挨拶すると「大丈夫かね?」
    と言はれました。一竹美術館の歸りにバスに乘ると「歩く方はスイスイだつたかね?」と訊かれました。冷かされたやうな氣もしましたが、幹事さんが、私の足弱についての訴へを先生に傳へて下さつてあつたのかもしれず、心配して下さつたのだらうと思つてゐます。忝いことで、短い距離なので當然ですが、自分でもダウンしなかつたことを喜んでゐます。

    宴席で、「”近代西洋の摂取の十分・不十分のレベル”(本欄「松本先生へ
    の禮状」の中の先生のお言葉)では捉へきれない日本の歴史の本質と、遠からず ”地獄に墮ちるであらう”(坦々塾に於ける講話の中のお言葉)運命を、私自身の感覺で受け止め、覺悟を今日明日で決めたい」と申しました(先生からは、そんな大袈裟な旅ではないと言はれました)が、その方も、十分ではないものの、一歩進んだやうな氣がします。

    ともあれ、樂しく愉快な旅でした。重ねて御禮申上げます。

  3. 西尾先生始め塾の皆さまのご健在を知り心強くなり、楽しい道中を伺い写真も拝見でき羨ましくも思いました。今後のご健勝をお祈りいたします。私も退職前の数年間通勤のバスの車窓から冬の富士を眺めておりましたが、一度その富士を近くから見ようと山中湖畔の宿に1泊したものの終日曇って見えず落胆した思い出があります。

  4. 西尾先生の「日本は自立した国の姿取り戻せ」(産経新聞「正論」3月1日)を拜讀しました。旅行番組への割込みは恐縮ですが、感想を少々。

    「武家という権力がしっかり実在していて、皇室が心棒として安定しているときにこの国はうまく回転していた。そこまでは分かりやすいが、『権力を握ってきた武家』が1945年以来アメリカであること、しかも冷戦が終わった平成の御代にその『武家』が乱調ぎみになって、近頃では相当程度に利己的である、という情勢の急激な変化こそが問題である」

    なるほど、「武家」が國外のアメリカだとすれば、皇室も國もまともであり得るはずはなく、更に、その權力が不安定とあつては、その變化につれて、あちらへこちらへと漂ふのは當然だ。

    「平成の30年間はソ連の消滅が示す冷戦の終焉より以降の30年にほか
    ならず、日本の国際的地位の急激な落下の歴史と一致する。冷戦時代には
    世界のあらゆる国が米ソのいずれか一方に従属していたから、日本の対米
    従属は外交的にあまり目立たなかった。しかし今ではこの点は世界中から異
    常視されている」

    皇室も、勿論さういふ傾向と無縁ではあり得ないだらう。自分では考へた
    こともないが、平成とはさういふ時代だつたのか。
    自身を顧みると昭和63年まで、毎年、1月2日の宮中一般參賀には、一
    家で出かけて、子供達と一緒に「天皇陛下萬歳!」を叫んで、いい氣分だつ
    た。「天皇なんて馬鹿にするのが偉いのだ」といふ ”私の受けた戰後教育”
    に對して、私の答を出してやつたやうで、快かつた。
    ところが、昭和64年1月7日に先帝崩御、「皆默し七草粥の箸重く」と我が家の實景を駄句に詠んだのを最後に、皇室への思ひは急速に萎えてしま
    つた。平成3年、二年振りの參賀には勿論行かなかつた。

    「わが皇室は敗戦以後、アメリカに逆らわず、一方的に管理され、細々たる
    その命脈を庇護されたが、伝統の力が果たしてアメリカを黙って静かに超えることができたのかとなると、国内問題のようにはいかない。当然である。各国はそのスキを突いてくる。かくて我が国は中国から舐められ、韓国から侮られ、北朝鮮からさえ脅かされ、なすすべがない」

    うしろの2~3行では、日本外交のことか皇室のことか分らなくなりさうだが、どちらも同じといふことなのだらう。

    「そもそもその権威は外国によって庇護されるものであってはならず、日本
    国家が本当の意味での主権を確立し、自然なスタイルで天皇のご存在が守
    られるという、わが国の歴史本来の姿に立ち戻る所から始めなければならな
    い」

    「本來の姿」ではない國の天皇・皇室はお氣の毒である。天皇が「國よ、本
    來の姿を取り戻せ」と請求なさることはできないのだらう。

    「天皇、皇后両陛下が昭和天皇に比べても国民に大変に気を使っておられ、
    お気の毒なくらいなのは、国家と皇室とのこうした不自然な関係の犠牲を身
    に負うているからなのである」

    「犧牲を身に負」はれ、遠慮されてゐるのが現状だらう。大嘗祭について、
    宮樣が「宗教色が強いものを國費で賄ふことが適當かどうか」などと仰せに
    なるのも、同樣の心理からだらう。かかるお心遣ひは、勿體なく恐縮するし
    かないが、 同時に、國民の士氣を鼓舞することにもならない。 こちらの氣
    持も暗く重くなる。

    「1945年までの日本人は、たとえ敗北しても、自分で戦争を始め、自分
    で敗れたのだ。今の日本人よりはよほど上等である。この『自分』があるか
    否かが分かれ目なのである、『自分』がなければ何も始まらず、ずるずると
    後退あるのみである」

    これは日本といふ國について言はれたのだらう。そして勿論、さういふ
    國では皇室も・・・。
    私がもの心ついて以來、何かが「始ま」つたことはなく、「ずるずると後
    退」するのだけを見てきたので、後退こそが常態と思ふやうにさへなつて
    ゐる。もちろん「自分」など、どこにもあらうはずがなかつた。

    「2008年4月8日に今上陛下が事改めて支持表明をなさった日本国憲
    法は、日米安保条約といわば一対をなしている。憲法と条約のこの両立
    並行は、アメリカが日本人に操縦桿を渡しても、自動運航置を決して譲
    らない、という意向を早いうちに固めていた証拠と思われる」

    「アメリカ合衆國は『望む數の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留さ
    せる權利を確保』した」(ジョン・フォスター・ダレス)日米安保條約と抱き合せの日本國憲法には、ずゐぶんいかがはしいことが書かれてゐるに違ひない。米軍駐留を認めなければ講和條約も結べないやうな國の憲法! 獨立國の國民が本心から戴くべきものとは到底思はれない。

    ここに言はれてゐる「支持表明と」は、兩陛下の金婚に當つての記者會見での御發言だらう。なるほど、「私どもの結婚したころは、日本が、多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から、日本国憲法の下、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期」などと、まるで憲法のおかげで國が存立できてゐるのだと仰せになつてゐるかのやうだ。なぜ、かくも「支持」されるのか。

    私などが思ひ當るのはただ一點。私が64~65年前に、中學で、前文
    や9條を暗誦させられた時と全く同樣に、今も「世界に誇るべき平和憲法」
    と平氣で言ふ同級生がゐる。つまり、14~15歳で教へられたたことにつ
    いて、一度も考へたり疑つたことがないのだ。そこからの類推だが、失禮
    ながら陛下も、ひよつとすると我が同級生と同じ程度のイメージを抱いて
    をられるか、またはその振りをしてをられるのではないかといふことだ。

     この會見ではまた、「日本国憲法にある『天皇は、日本国の象徴であり
    日本国民統合の象徴』であるという規定に心を致しつつ、国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」と仰せになつてゐる。

    今も、「象徴」としての務めなどとしきりにおつしやる。「念頭を離れず」
    「望ましい在り方を求めて」最善を盡してこられたことは疑へない。その御心情に恐懼してお姿を仰いだにしても、私には、これが「象徴」だと感じられたことは一度もない。

    今から60年前、福田恆存は「象徴を論ず」で、次のやうに書いた。
    「私には『象徴』といふ言葉の意味が解らない。解つてゐる人がゐたら、
    教へてもらひたいものだ。もちろんこれは法律用語ではない」
    「新憲法以前には生活語としてしてはほとんど用ゐられてゐなかつた
    やうだ。わづかに文學用語として、それも實に曖昧に用ゐられてゐた。
    元來はフランスの新詩運動サンボリズムの譯語として造られた言葉であ
    らう。したがつて、まづその『象徴主義』が先に出來て、『象徴』はそれか
    ら生じたものではないか」
    「『象徴主義』だけを出して『象徴』そのものは出てゐない漢和字典もあ
    る。それは當然で、文學用語として用ゐられるとはいへ、フランスの象徴主義、およびその影響をで生れた日本の象徴主義そのものを呼ぶ時でないかぎり、私たち文學者の間でもほとんど使はれてゐなかつたからだ。それを濫用したのは文學青年であらう。だから、曖昧なのだ。つまり、自分でも何を言つてゐるか解らない場合、それをごまかすために用ゐるからである」
    「そんな國語として熟さぬ言葉を憲法第一條に用ゐて、解つたやうな解らぬやうな氣もちで十何年も過してきて、私たちは今なほ恬然としてゐる。だが、恬然としてゐるとはいへ、國民の誰がこんな言葉をまともに受けとり本氣で口に出來ようか。括弧の中に入れずに、照れもせず堂々と、天皇は私たちの『象徴』だと喋れるものが一人でもゐるだらうか」
    私は60年前、これに首肯した。そしてこの言葉を「本氣で口に」したことは一度もない。

    上記の會見で陛下は「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」とも、おつしやつてゐる。

    陛下がさう「思」はれても、私にはさうは思へない。「天皇の在り方」に限らず、どんな憲法がいいか、國民の中では意見が分れてゐる。現憲法を破棄せよ。否、もともと無效なものを「破棄」することはできない。我等にあるのは欽定憲法のみ。必要に應じてそれを改正せよといつた論爭さへある。下々に雜多な考へがある場合、主上はそれを慮つて苦心されるとか。「象徴」であられても、それは變らないのだらう。その擧句なのだから、私の嫌ひな方をベターとの仰せは悲しいが、我慢すべきだらう。陛下にも言論の自由はあるのだらうから。

    この會見よりもだいぶ前、御即位のあとの朝見の儀とかで「日本國憲法を遵守し」と仰せになつたのに強い違和感をおぼえたことも忘れがたい。

    私がこの憲法を身震ひするほど嫌ひなことが根本だが、憲法なぞ國民にお任せになればいいので、陛下が云々されるべきことではないとか、天皇は憲法を超えた存在ではないかといつた思ひもあつた。

    然るに、陛下は我が同級生のレベルに合せるほど、氣を遣つてをられのかもしれない!西尾先生が「事改めて」とお書きになつたのは、私と同じ違和感をお感じになつたからではないかーーと言つては、我田引水が過ぎるかもしれないが、上つがたの神經の使ひ過ぎが決して國の爲にならないとはお考へになつてゐるに違ひない。

    「日本国民の過半が憲法改正を必要と考えるのは、逆にまともに生きるためにはたとえ不安でも自立が必要と信じる人が多いことにある」

     ”過半”といふ數字があるにしても、私は最早、我が同胞をあまり信用することができない。如何なる國民も、自分たちのレベル以上の政治家を持つことはできない、と言はれる。9條3項とやらを、自信なささうに唱へる總理大臣がさして咎められずにすんでゐる、そのやうなことを默許する國民が、”まともに生き”ようといふ意志を持つてゐるだらうか、”自立が必要” と信じてゐるだらうか。今の皇室も政治も、そのやうな國民の程度を正確に反映してゐると私には見える。

    ここは先生の個人ブログだから、私がかく申すことは許されると思ふが、この「正論」でおつしやつてゐることの先に、先生がどうお考へになつてゐるのかは、「こんな國は地獄に墮ちるだらう」「皇室もなくなるだらう(いづれも、昨年末の坦々塾に於ける講話から)といふお言葉が示してゐるのではないか。インフォーマルな場だけに、先生は眞意をそのままお出しになつたのだと私は考へてゐる。

  5. 産経新聞正論「日本は自立した国の姿取り戻せ」

    「我が国は中国から舐められ、韓国から侮られ、北朝鮮からさえ脅かされ、なすすべがない」という厳しい認識や、
    「皇室の権威はアメリカによって庇護されている」という明らかな事実を共有する国民は少なく、
    「米国が『望む數の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる權利を確保』した日米安保條約と抱き合せの日本國憲法は獨立國の國民が本心から戴くべきものとは到底思はれない」と思う日本人も少なく、
    「日本が大型旅客機を製造販売でき、沖縄だけでなく全国の米軍基地を撤退させ、貿易決済を円建てで実行し、国際社会において日本が軍事的にも侮られない経済大国として名誉ある地位を獲得する」ことを切実に願う日本人が今も少ないのは何故でしょうか?

    庶民は歴史を知らないからでしょうか?社会のエリートにも少ないのはWGIPの覿面な効果ゆえでしょうか?

    日本国民、日本人一般、有権者多数の認識、常識が、この西尾池田認識、日録の私たちの常識とはかけ離れていることが問題の根源です。日本人一般からみれば西尾先生や池田様、私たち保守の意見は浮いてしまっています。逆に、私たちからみれば日本人一般はいつまでも目覚めない迂闊者、これだけ情報が与えられながら今上陛下以下殆どが現行憲法を有難がってしがみついているとしかみえません。

    謡曲「石橋」は文殊の浄土へ架かる狭い橋です。浄土たるべき日本国へ国民を渡らせる橋こそ西尾先生の論説ですが、国民が橋を渡り、この両者のギャップが埋められれば、日本は本当の意味で自主独立を取り戻せ、普通の国の「本來の姿」に立ち戻ることが出来るのです。石橋を渡るのは至難の業とされますが、人々がこのギャップを超えるのは至極簡単なことです。

    容易に「眞の日本」を取り戻す筈だった安倍政権も所詮は、現行憲法と同じくGHQの作った自民党ですから彼等にこの橋を渡らせることは元々不可能です。2日前に私ども発起人3人が立ち上げた「真正保守政党準備会」は、近い将来の新党誕生を目論んでいますが、立党の趣旨は日本国民への橋渡しです。「疑似」でない本物の保守勢力が立ち上がって、獅子となって国民に橋を渡らせなければ国民は永久に苦界にいながら苦しむこともなく、そのまま地獄に転落し、皇室も消えてなくなるでしょう。言論も重要ですが、行動が伴わなければ意味がありません。

    戦後多くの識者、政治家が「日本の真の独立」を訴えましたが田中角栄はじめ皆潰されました。田母神俊雄氏を選管法で引っ掛けたのも背後に米国がいると噂されますが、これが可能となるのは国内に米国同調者が居るからでしょう。

    「ではどうすればよいか。日本国民がものの考え方の基本をしっかり回復させること」と仰るその「考え方の基本」の回復は、突き詰めていえば、東京裁判史観の払拭しかないと思います。近年の不快な諸事は田母神氏が問題論文で説いた「日本は侵略国ではなく、日米戦争は米国による策略だった。日本は戦争犯罪国ではない」という事実を全国民が共有すれば日本人が「考え方の基本」を回復できますが、回復を実現するには日本政府の公式な取り組みが必須です。ネットや図書館の一部に情報があっても全国民に浸透させられません。

    もし全国民が;
    三島由紀夫「反革命宣言」で、共産主義の恐るべき本質を知り、
    中村燦「大東亜戦争への道」で、東京裁判の誤りを知り、
    西尾幹二「国民の歴史」で世界のなかの日本史と、戦後の戦争を知れば、
    日本は確実に変わります。庶民にこれが難しければ社会のエリートに期待します。

    西尾先生の予言、「今の危うさは、昭和の御代にはなかったことだ。すべて平成になってからの出来事である点に注目されたい。平成につづく次の時代にはさらに具体的で大きな危険が迫ってくると考えた方がいい。」にどれだけの人が耳を傾けるでしょうか?

    今朝(2019年3月1日)の新聞は、米朝トップ会談が合意に至らず不成功に終わったことを喜び、日本が取り残されなかった安堵を感じさせますが、安心はまだ早く、早晩金が多少の妥協をみせ再び米朝が歩み寄る可能性が高いとみるべきで、日本はその時、拉致被害者はもどらず、ノドンは残り、北から恫喝されるだけでなく、自動的に経済支援のATMにされるでしょう。今朝の産経は「北が生まれ変わらない限り支援はできない」と、北が変われば支援すると、恰も日本国民の血税による支援が当然の如く主張しますが、これも日本が朝鮮を侵略し併合し植民地搾取をしたという洗脳の結果です。安倍政権も、湾岸戦争の海部の轍を踏むべく、その用意をしているのでしょう。こんな過ちを阻止できるのは真正保守政権だけです。

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