お知らせ

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本日高木薫氏のご尽力により回復いたしました。

日録管理人

「お知らせ」への6件のフィードバック

  1. ありがたうございます。
    先程、過去録で確認しました。
    御盡力のほど感謝に堪へません。

  2. 江崎道朗「天皇家百五十年の戦い 日本分裂を防いだ『象徴』の力」(ビジネス社)を読んだ。私の投稿はいつも自分が理解し納得するために記した読書ノートに過ぎない。そのため、勢い引用だらけになるが、ご寛恕をお願いしたい。長くなり過ぎたため投稿を控えたが、幾つかに分割して載せさせていただくことをお許しいただきたいと思う。

    これは皇室に対する著者の長年にわたる洞察と敬意に満ちた書物である。著者が引用し、解説する陛下のお言葉や御製から次第次第に肉声が響いてきて、陛下がおっしゃってきたこと、詠まれてきた御製への目を開かせられる。
    ご即位の折、またその後も繰り返し「日本国憲法を守り」とおっしゃってきたことに、当方も違和感を禁じ得ずにきた一人である。一二ヶ月前本欄で池田さんが引用された福田恆存「象徴とはなにか」にも同感してきたが、日本国憲法と安保体制が貼り合わせになった御代を運命として担われた陛下ご自身がお努めを果たすためには、この「稀代の悪文」(福田恆存)を踏まえて立つ以外にないことに得心がいった。福田の言葉は、福田自身が「私の血肉というべき書」(筑摩叢書版p18)と呼ぶロレンスのアポカリプス論(「現代人は愛し得るか」)と共振している。ロレンスはヨハネ黙示録を引用し、違和を表明している。
    「『視よ、白き馬あり、之に乗りたまふ者は』-ここで私の記憶は急に中断し、つぎの言葉を故意に抹殺する。『忠実または眞』と称えられ・・・。私は子供ごころにも寓意を憎んだ。したがってまた、白馬にうち跨がり『忠実また眞』と称へられる得体の知れない、いはば単なる質の名称を担った人々を嫌ったのである」(筑摩叢書版p27)。
    「忠実また眞」を「象徴」と換えれば福田は同じことをいっている。しかし、憲法典により「象徴」と規定された立憲君主でいらっしゃる御存在ご自身としては、そこから逃れることはおできにならない。そして、「憲法に『日本国民統合の象徴』と規定された以上、日本国民を統合するために天皇は何らかの役割を果たすべきだが、具体的に何をすれば国民を統合することになるのか。明確な指針は憲法に明記されなかった」(江崎氏書p291)。
    「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」(p291「平成二十八年八月八日『象徴としてのお努めについての天皇陛下のおことば』」。以下「平成二十八年八月八日おことば」)。
    「このように陛下は、国民統合の象徴たる天皇の役割は、≪伝統の継承者≫として皇室の伝統を守り伝えると共に、国民の期待に応えていくことだとお考えになってきた」(p291)。
    「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた自らのありようを深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じてきました」(p294「平成二十八年八月八日おことば」)。
    「皇室が国民統合の象徴であり続けるためには、国民の側にも、皇室、特に皇室の伝統を理解しようとすることで『皇室を支える国民の務め』を求められている、ということだ」(p294。傍点引用者)。
    「しかし、国民の理解なくして皇室は続かない。
    そう考えられた陛下は、全国各地に出向かれて、直接、国民一人一人に理解を求めてこられた。(中略)世論調査でも、国民の大多数は皇室を支持しているが、それは、ひとえに全国各地を訪問されてこられたことも含め、陛下の超人的な努力のおかげなのだ。その間、政府は何をしたというのか。
    戦後の皇室は、昭和天皇、天皇陛下、皇族の方々の懸命な『務め』によって支えられてきたのであって、国民は一方的に皇室に甘えてきたのだ」(p295-296)
    「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
    国民の理解を得られることを、切に願っています」(p299「平成二十八年八月八日おことば」)。
    「注目すべきは、≪象徴天皇の努めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ≫という一節だ。現状のままでは、象徴天皇の務めが『途切れたり』『安定的に続』かない恐れがあるとお考えになっているからこそ敢えて陛下はこのような言葉遣いをなされたのではないか。
    よって政府がなすべきことは、(中略)旧皇族の男系男子孫の皇籍取得をはじめとして、現行憲法下で改悪された皇室制度について見直し、憲法解釈とその運用なども改善することであったはずだ。
    ところが政府は、天皇陛下の『譲位』を実現することだけを議論し、特例法を成立させただけであった。天皇陛下の問題提起を正面から受け止めることなく、『譲位』という問題に矮小(わいしょう)化させてしまった政府の不作為は、厳しく問われるべきだ」(p299-300)。
    まことに深く行き届いた読みである。著者は随所で繰り返し政府の不作為を批判している。
    私は思い出す。女系天皇容認を打ち出した有識者会議が開催されていた平成十七年か十八年初めではなかったかと思う。日比谷公会堂での集会の後、女系天皇反対の示威行進が日比谷から日本橋まで行われた。氷雨が靴の中まで浸した行進を終えた時、西尾幹二氏が乗用車の中から「皆さん、ありがとう」と慰労の声をお掛けくださったことを。「ああ、西尾先生は最後までおつきあいくださったのだ」というのが私の気持ちであった。当時出版されていたのが「狂気の首相で日本は大丈夫か」(PHP研究所)であったはずだ。

  3. 本書は、第一章でまずルソーの紹介者中江兆民が皇室の存在意義を何度も力説したことを紹介する。たとえば、
    「天子様は尊きが上にも尊くして外に較(くら)べる物のある訳のものではない、畢竟天子様は政府方でも無く国会や人民方でもなく、一国衆生の頭上(とうじょう)に在(ましまし)て、別に御位(みくらい)を占させ給ふて、神様も同様なり。(中略)天子様は常に一天万乗の君にて、国会の未(ま)だ開けざる今日(いま)と二十三年後と、少も変る訳の物では無きと心得可し」(p27岩波書店「中江兆民全集」第一〇巻からの引用)。
    次いで、制定されるべき憲法を巡って国論が揺れた明治十年代に「政府の指導者層が、金子堅太郎を通じて(エドマンド)バークを知ったことで『日本は日本の歴史と伝統と慣習を踏まえた法制度を作らなければならないのだ』という議論が、政府の中でようやく定着していくことになった」(p39)。これを言論、思想の力を証するものとしてはいけないであろうか。言論は必ずしも空しくはないのではないか。
    第二章ではその「帝室論」に表れた福沢諭吉の「二重国家体制論」が確認される。政治的権力と精神的権威との二元統治論である。「文明開化を先導した福沢諭吉は、『欧米文化摂取と資本主義・自由な議会による富国強兵』路線と、『神武天皇以来の国家の安泰と国民の安寧を祈る皇室のもとでの国民福祉の増大と精神文化擁護』という二つの国家路線の両立を提示した。これを皇室と政府という二重国家体制と呼ぶことができよう」(p56)。
    坂本多加雄を援用して、別の光を当ててみたい。
    「日本国憲法における『象徴』という言葉は、直接には、占領軍によって作成された日本国憲法の原案にあったものである。そうした原案と福沢の皇室論を結びつけてみてもあまり意味はないとも考えられるが、天皇が、直接政治決定に与(あずか)らず、文化的中心として君臨することで、かえって高度の政治的統合機能を果たすという考え方そのものは、大正期以来、山路愛山や和辻哲郎、津田左右吉のような論者によって、折にふれて表明されていた。天皇の役割について言われる『象徴』という言葉についても、和辻や津田は日本国憲法以前から用いていたのである。このように視てくると、福沢の『帝室論』が、こうしたタイプの皇室論をかなり早い時期に理論化して展開したものであること、そして、それが、その後の様々な論者の論議と相俟って、皇室論の一つの伝統を形作っていったことが明らかになろう。その意味で、福沢の『帝室論』は、単に明治期の皇室論であるということを超えて、その射程は二十一世紀に及ぶのである」(慶應義塾大学出版会「福沢諭吉著作集」第9巻解説)。
    吉野作造も同じ認識で国家経営を論じている。
     「真に誤りない道は西洋の諸君主国に於いて取れると同様に一方には国君が其国家的使命の明瞭なる自覚の下に国民を率い給うこと。又一つは人民が極めて透徹なる合理的確信の上に君権を中心として国家の経営に全力を致すことである」(p63、石田圭介編著「近代知識人の天皇論」からの引用)。中江兆民も吉野作造も、時の「憲法典」にではなく、「日本の歴史や伝統や文化に則った国柄そのものとしての憲法」(p130)の上に立つリベラルであったのだ。

  4. 第三章から十章まで、敗戦以来の皇室の戦いの歴史が辿られる。日本国憲法の下で将来的な「天皇制」廃止に向けて皇室制度がどのように改悪されたか、憲法を含む法制度の改変、経済的基盤の剥奪、道徳や宗教性を含む精神生活の中心としての機能の奪取による弱体化がそれであり、今に続いていることはいうまでもない。それに対する昭和天皇の戦いについては本書にあたっていただくとして、政府による占領軍に対する抵抗を記しておきたい。憲法第四条で「天皇は」「国政に関する権能を有しない」と規定されたが、第六条【天皇の任命権】、第七条【天皇の国事行為】によって天皇が引き続き元首たる解釈を可能とし、さらに日本政府は積極的にその条文を解釈することで天皇と国政との関係を維持しようと努めたと著者は述べる。明治憲法で規定されていた天皇の憲法上の地位は「統治権の総覧者」である。「なぜこうした大権が憲法に明記されていたかと言えば、非常事態を想定してのことであった。たとえば、終戦の御聖断が示すように、国家の存亡がかかった非常時で、しかも政府が決断に迷った時点で、最終的に天皇が乗り出される仕組みとなっていた。帝国憲法における「統治権の総覧者」という規定は、政府が機能しなかったり、意思決定能力を失ってしまうような非常事態において政府に代わって天皇が乗り出し、日本を守る、緊急事態条項だったのだ」(p77)。「もし天皇が国務に関する権能を失ったら非常事態のときに日本は立ち行かないという危機意識を、当時の政府の要路の人々は共有していた。心ある人々が日本の命運と天皇との結びつきを何としても現行憲法に残そうとしたのである」(p100)。
    しかし、昭和五十年代に入ると、東大宮澤憲法学の支配、内閣法制局による行政上の憲法解釈権の壟断によって、憲法典(成文憲法の条文)の字義通りの政教分離が行われ、憲法(日本の歴史や伝統や文化に則った国柄そのもの)の圧殺が行われる。大嘗祭は国家儀式としての挙行を否定され、三種の神器の践祚は概念自体が制度にないとされた。皇室や宮中祭祀に関する憲法解釈を占領期よりも後退させていったである。
     しかし、いかなる憲法典も「憲法」、すなわち歴史や伝統や文化に則った国柄そのものによって制約されるのであり、解釈がなされなければならない。「天皇陛下が日本国憲法に言及されるとき必ず歴史に触れられていることは、極めて重大な意味を持っている」(p142)。そして、「昭和天皇の戦争責任論が再燃しても政府が全く頼りにならない中で、『昭和天皇の御心を引き継ぐ』と宣言することは戦争責任という問題を受け継ぐこと」であり、「断絶を回避されたのである」(p157-158)。また「皇位を継承された時点で、昭和五十年から始まった宮中祭祀の形骸化を阻止し、皇室の伝統を再び復活させようとされた」(p158-159)。

    平成二年、皇后陛下の御歌。
      神まつる昔の手ぶりを守らむと旬祭にたたす君をかしこむ

    「これは明治天皇の次の御製を踏まえたものだと拝察される」(p159)
      わが国は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ

    「内閣法制局が現行憲法の政教分離条項に基づいて宮中祭祀を形骸化しようとしてきたとしても、われわれは断固として皇室の伝統を守り抜くのだという固い御決意がそこには伺われる」(p160)。  
    昭和四十年代から政府が変質していく中で、初めて日本国憲法下で皇位を継承した天皇陛下は、次のようなことをなされたのだ。
    皇室の歴史と伝統に基づく『象徴』の解釈を打ち出された。
    日本国憲法を排撃するのではなく、憲法と憲法典の違いを踏まえつつ歴史に立脚した解釈を貫くことによって八月革命説や天皇ロボット説を乗り越えられた。
    リスクを厭わず、国家国民のために尽くすことを象徴の使命と宣言され、その通りに行動された。
    昭和と平成の断絶を回避し、昭和天皇の御心を受け継がれた。
    昭和の時代に形骸化が始まった宮中祭祀の伝統を復活しようとされた。
    -これが、ご即位に際して天皇陛下がなされたことなのだ。すさまじい思想力である」(p162-163)。
    「問題は、天皇陛下のこうした思想的な戦いを、特に宮澤憲法学や内閣法制局との戦いを、国民の側、特に政府要路の側がほとんど理解できていないように見えることだ。はたしてそれでいいのだろうか」(p164)。

  5. 「いま私が最も感慨深く思うのは、もちろん皇太子、皇太子妃時代からずっと続けてこられた長い道のりの結果としてでもありますが、象徴ということがはっきり見えてきたということです。私たちは戦後ずっと、天皇陛下を日本国の象徴と聞かされてきました。けれど、それは子ども心にも、説得力に欠けた、実感のない言葉のように思われて仕方がありませんでした。
    しかし、平成二十年のいま、象徴という全く抽象的だと思ってきたその言葉が、はっきりと実体になり、その言葉でしか表現できない存在として、両陛下がいらっしゃると思うようになりました」(p166-167。末森千枝子「『子どもの本』へのエール」からの引用)

    叙述は「第六章 平成の御巡行」「第七章 慰霊の旅」「第八章 沖縄とのかけはし」「第九章 災害大国を癒やす力」「第十章 敗戦国という苦難」と続き、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」というお言葉の超人的な実践の数々の意味を噛みしめている。なかんずく、江藤淳も強い衝撃を記した昭和天皇の御製を巡る考察が秀逸である。

    やすらけき世を祈りしをいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

    「いまだならず」と詠まれた「やすらけき世」とは何か。著者は、昭和天皇最晩年に至るも戦没者を心から悼み慰めることができぬ世、靖国神社を訪れることがかなわぬ世だとする。「昭和天皇の戦争責任という問題について、『そういうことはお答えする立場にないと思っております』とおっしゃることで断絶を避けるだけでなく、昭和天皇の『五内為に裂く』という、国民の苦しみに寄せた御心と、終戦の御聖断や戦後の御巡行で示された国民のための捨て身の行動を引き継ぐことが、皇室として為すべきことであり、国民のために尽くすことだという明確な御心がそこにある。(中略)
    このようにして陛下は、日本史上稀有な、同時代の死者に対して冷たい時代にあって、記紀、万葉集、平家物語を経て、さらに昭和天皇から天皇陛下に至る『祈りと悲しみの歌』の伝統を、死に物狂いで引き継ごうとされている」(p199-200)。

    「日本を代表する意志として、政権維持のために歴史を断罪して憚らない政府しか存在しなかったとしたら、国民精神はとめどなく分裂して、心ある国民も自暴自棄に陥ったかもしれない。しかし有り難いことに、日本には政府を越えるもう一つの意志が存在した。ひたすらに戦没者や遺族のことを思われる天皇陛下の御祈りである。(中略)
    今、改めて当時を振り返ると、陛下が断固として慰霊の意志を示し続けられたことが、わが国にとっていかに重大なことであったかがわかってくる。陛下の『孤高の戦い』によって、死者の霊魂は唯一の安らぎを得た。そして、『死者と共に生きる』感覚を無意識的に保ち続けている日本の国民精神は、ぎりぎりのところで守られたのである」(p209-210、打越和子「祖国と青年」平成十一年八月号からの引用)。
    今回のご譲位に際して陛下は、「個人として」(平成二十八年八月八日おことば)国民に直接語りかけ軽々と憲法典を超越されたように拝察する。

    天皇皇后両陛下のあまりにも超人的な実践は後世に引き継がれ得るだろうかという心配が一方に生じる。WiLL4月号の対談で、岩田氏が現代の若者は日本に皇室があることの“ありがたみ”を感じているには程遠い状況だと述べた後、西尾氏は懸念を表明している。「今上陛下はその危機をお感じになって、自ら実践して皇室の存在意義を知らしめるために、色んな努力をされた。そのことはよかったと思いますし、国民の目を開かせた。でも、それはひょっとしたら陛下のおこころざしと違う結果を生むかもしれない。同じようなレベルのことが次代の皇室に実行できなくなったら、かえって危ない。陛下が努力しなくても安泰な状態をつくらないといけない」(WiLL4月号p232)。
    江崎氏の本では、最後に、平成三十年二月二十一日の皇太子殿下の誕生日記者会見のお言葉が引用されている。以下はその一部だが、謹んで拝し奉りたい。
    「今後とも、両陛下の御公務に取り組まれる御姿勢やお心構え、なさりようを含め、そのお姿をしっかりと心に刻み、今後私自身が活動していくのに当たって、常に心にとどめ、自己の研鑽に励みつつ、務めに取り組んでまいりたいと思います」(p301)。

     最後に西尾氏の言葉を引用したいと思う。これを読むに当たって、始めの方で引用したように、陛下が「国民の側にも、皇室、特に皇室の伝統を理解しようとすることで『皇室を支える国民の務め』を求められている」ことを思い出さければならないだろう。「一番怖いのは『無関心』」、「根源的無関心」(WiLL4月号対談、西尾氏の言)だからである。
     「そもそもその権威は外国によって庇護されるものであってはならず、日本国家が本当の意味での主権を確立し、自然なスタイルで天皇のご存在が守られるという、わが国の歴史本来の姿に立ち戻る所から始めなければならない」。
     「天皇、皇后両陛下が昭和天皇に比べても国民に大変に気を使っておられ、お気の毒なくらいなのは、国家と皇室とのこうした不自然な関係の犠牲を身に負うているからなのである。
     ではどうすればよいか。日本国民がものの考え方の基本をしっかり回復させることなのだ」。
      「1945年までの日本人は、たとえ敗北しても、自分で戦争を始め、自分で敗れたのだ。今の日本人よりよほど上等である。この『自分』があるか否かが分かれ目なのである。『自分』がなければ何も始まらず、ずるずると後退があるのみである」。(「日本は自立した国の姿取り戻せ」産經新聞平成31年3月1日)

  6. 陸奥の奥
    喜怒哀楽の
    墓標塚
    唄乗せ纏うも
    御霊忘るか

    日の本の
    景映す鍵
    濁り銀
    民湧き出
    三拾壱音

    言薬
    早咲き龍の
    刻経てば
    径拡ぎ役
    毒にて了す

    少年の
    耳目に刻み
    真善美
    記し閉じ門
    吹け涅槃西

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