東京は新型ウィルスに襲われている

 春らしからぬ春が過ぎ、夏らしからぬ夏が近づいています。三月末のある夕べ、近くの公園に入りました。満開の桜の通りを覗き見しました。驚いたことに人の姿がまったくありません。夕方の五時ごろでした。国民が素直に政府の要請通りに自宅に籠っていた証拠です。
 
 六月の中頃、友人と久し振りに、本当に久し振りにレストランに入りました。もともとスペースの広い店なのにさらに隣の机を空席にし、非能率の客対応に耐えていました。私と友人はその上さらにテーブルを三つ並べて両端に離れて坐りました。店内に若い男女がビールの杯を掲げて賑やかに叫び合うシーンは見られませんでした。
 
 人の姿のまったく見えない桜並木は何となく不気味なものでした。賑やかな声の聞こえない会食風景は、不気味ではありませんが、若葉の美しい時節にどことなくふさわしくないものに感じられました。

 このどことなく鬱陶しい、神経症的な雰囲気は、全国同じとは思えません。東京は特殊なのかもしれない。

 新型ウィルスの襲来以来、私はわが身にもとうとう来るものが来たのかな、などといったあらぬ思いが心中からどうしても拭えません。

 一人の喜劇タレントの死が切っ掛けでした。私は病気持ちの84歳で、彼よりずっと条件が悪い。感染したら万に一つ助かる見込みはありません。二、三週間で、片がつくでしょう。その間呼吸のできないどんな苦しみに襲われるのだろうか、と生物としての不安が急に想像力の中に入って来ました。テレビはかの喜劇タレントがひとつの骨壺になって遺族に抱かれて自宅に帰ってくるシーンを映し出しました。彼の兄らしい人物が、「恐ろしい病気です。皆さん、気を付けて下さい。」とだけ言った。病中の枕頭への見舞はもとより、遺体との接見も認められなかった事情を言葉少なに語りました。
 
 死後直ちに焼却炉に入れられたという意味でしょう。屍体の取り違えは起こらないのだろうか、などと私はあらぬ空想に走る自分が恐ろしかったのです。中世末期のやり方と同じだな、とも思いました。その後やはりテレビでブラジルやアメリカやイタリアやスペインの乱暴な遺体処理の現場の遠景を若干覗き見ました。やはり中世と変わらないな、と再び思いました。

 しかし考えてみれば、死は一つであって、自分の死は他の人からどう看取られ、社会的にどう見送られるかのいかんで変わるものではありません。やはり自分の身にも来るべきものがついに来たのだな、とむしろ納得しました。そして夜、秘かに考えました。万が一、高熱が三日つづいて、PCR検査で陽性ときまり、入院せよという指示が出されたとします。私はいよいよ家を出るときに妻にどういう言葉をかけたらいいのだろうか。戸口で永遠の別れになる可能性はきわめて高い。このことだけは考えの中に入れていなかった、と不図気がついて、ゾッと総身に寒気が走ったのです。

 あゝ、そうか、そこまでは考えていなかったなぁ・・・と思うと、さらに想像は次の想像を誘いました。老夫婦二人暮らしのわが家では一方が感染すれば他方もまた必ず感染するに違いありません。ウィルスが家庭中に乱入したら防ぎようがないのです。そして、その揚句、私の住む東京のある住宅地からとつぜん二人の姿が消え、そしてそのあと何事もなかったかのごとく、街はいつもの静けさと明るさに立ち還るだろう。あゝ、そうか、そういうことだったな、とあらためて思い至ったのです。

 そんなこと分かり切っているではないか。お前はこの七月で85歳となることを考えていなかったのか。そう呼びかける声も聞こえて来ました。そうです。考えていなかったのです。あるいは、考えてはいても、考えを継続することを止めていたのです。

 生きるということはそういうことではないでしょうか。迂闊なのですが、迂闊であることは正常の証拠なのです。

 三年前の致命的な大病の結果から脱出しつつある今の私は、日々仕事に明け暮れていた昔日の自分の日常を取り戻そうとしている最中でした。すぐ疲れ、呼吸は乱れがちで、万事をテキパキ手際よく処理して来たかつての能力も今や衰え、あゝこんな筈ではなかったと途中で手を休め溜息をつくことしきりでありますが、毎日何かを果たそうと前方へ向かって生きているのは動かぬ事実です。今は伏せておきますが、私の人生譜の中に出て来なかった新しい主題や研究対象にも少しずつ手を伸ばし始めています。しかし公開する文章はどうしても今までやって来た仕事上のスタイルやテーマに傾き易く、掲載を用意してくれる月刊誌が求めるのも今までの私の常道であった世界と日本の現状分析です。こうして新型ウィルスの出現に揺れる世界と今の私の関係について、二篇の論文を発表しました。周知の通り「中国は反転攻勢から鎖国へ向かう」(『正論』2020年六月号)と、「安倍晋三と国家の命運」(同誌七月号)です。

 この二篇は、自分で言うのも妙ですが、今のところ大変に評判が良く、世界や日本の現実を疑っている人々の心を的確に捉え得ている分析の一例に入るだろう、と秘かに自負を覚えています。しかし「死を思え」と夜半に私を襲った不安の概念と直接には何の関係もありません。私は私を直かに表現していません。自分の生活にも触れていません。自己表現は現代政治論の形態をとっています。だから私の心を揺さぶっている本当のテーマに読者はすぐには気がつかないでしょう。けれども、とつぜん国境を越えた疫病の浸透とその世界史的震撼の図は、日本の一市井人だけでなく、トランプや習近平の胸をもかきむしる根源的不安をも引き起こす「不安の概念」と無関係ではありません。自己の実存のテーマに思いをひそめている人の文章であるか否かは、読者ひとりびとりの判断によって異なるでしょうが、それは読者ひとりびとりの「死を思え」の自覚のいかんに関わってくることだろうと考えています。

 と、そのように私はいま平然と偉そうに語っていますが、万が一感染を疑われ、玄関口を出て入院用の車に乗るあの瞬間に私は妻に何というだろうか、その言葉はまだ用意されていません。それどころか、言葉が見つからず思い悩んだというこの一件を私は彼女にまだ敢えて洩らしていないのです。語らないで済めばそれが一番いい。それが日常生活というものだ、と考えているからでしょう。そして私は日常を失うのをいま何よりも最大に恐れているのです。

(令和二年(2020)六月十八日)

「東京は新型ウィルスに襲われている」への3件のフィードバック

  1. 西尾先生
    久し振りの日録原稿ありがとうございます。

    コロナ不安は東京だけではなく、広島の小さな街にも押し寄せました。
    とにかく、子供たちが学校や幼稚園に行けないという静けさは、普通ではありませんでした。
    全世界がコロナ世代になってしまいました。
    でも、日本はアメリカなどの百分の一の死亡数です。医療も国民皆保険で、貧富の差に関わらず、希望する人はだれでも受けられます。そして医療費の支払いによって破産するということもありません。
    ワクチンや特効薬が開発されるまでは、この不安な状態も続くでしょうが、日本という国の良さが世界中に目視できる状態で知れ渡ったと思います。
    そしてかねがね先生がおっしゃっていた国境を低くすることの危険性も、それぞれの国が実感したことでしょう。
    今後とも、お仕事頑張ってください。

  2. 西尾氏の近年の文業を振り返って
    最近の西尾氏の著作にこの欄で幾つか拙い感想文を投稿してきたが、Amazon書評欄に書いたものを若干修正、加筆して転載することをお許しいただきたい。とてもこの巨大な思想家の「まわし」には手が届かないが、枯れ木も山の賑わいになれば幸いです。

    「日本の世界史的立場を取り戻す」
    日本の歴史の回復

    西尾幹二・中西輝政両氏には「日本文明の主張」(平成十二年PHP研究所刊)というわが国の歴史、精神史に深く錘鉛を下ろした本書の第一部とも呼ぶべき対談がある。その後17年の時を経て雑誌「正論二月号」の対談「歴史問題はなぜ置き去りにされるのか」で相まみえた後に西尾氏は「肝胆相照らした」という感想を洩らした。得難い知己としての中西氏を再確認した感慨に他なるまい。
    前書きで西尾氏は、「『世界史』も『世界史的立場』も決定された普遍的概念を持つものではなく、いま、われわれが参加し、苦闘し、創造していく概念です」と語っている。本書は、「世界の歴史の大波やうねりの持つ歴史的意味と日本の国内との関係、『世界史』と『日本史』との接点における相互関係」を内と外から照射し、その諸相と意味を明らかにする試みである。貧寒な「昭和史」とは隔絶した視野の広さとスリリングな認識の鋭さに、悪意に満ちた外の世界に向かって日本が今こそ自己主張すべき「世界史的立場」を、読者はしかと自覚することであろう。
    「近代」とは西洋が実現した輝かしいだけの文明を意味するのではない。それはキリスト教プロテスタンティズムとりわけピューリタニズムに収斂するする永続革命的なキリスト教原理主義と金融支配を通じて追求されたグローバリズム、更には帝国主義の結果として、それまで支配的であったイスラム文明を打倒することによって実現されたものである。言うまでもなくそれは、略奪と虐殺と謀略と植民地支配の歴史でもあり、人種差別と独善に満ちたものであった。だからこそ最初に西洋近代を相対化し、自己主張に立ち上がった日本は一九四五年に完膚なきまでに叩きのめされたが、「戦後七十年の世界史は『非西洋』にもう一度、立ちあがれと言って」いるのである。西洋近代がついに終わろうとする今、「大東亜戦争に象徴されるような『西洋近代の超克』という試みは、けっして間違っていなかったのだと」。
    中国文明の学習とそれからの離脱による自己発見、日本独自の古代の存在の再確認を通じたナショナリズムによって、日本は江戸時代に近代へと到達する。中国にしても、今後五〇年後に独自の近代を自覚する可能性がある。今後の世界はイスラムを含めた各文明の対峙と競争の段階へ進むことであろう。その幕は既に開いている。日本は「世界史的立場」を取り戻し、勇を鼓して立たなければならぬというのが本書のモチーフである。

    二十世紀に入ると第一次大戦を決定的な契機として『ヨーロッパ文明』が瓦解してゆく。第一次大戦後、ヨーロッパ人が必死になってフィクションにすがりつこうとして生みだされたのが、国際連盟(そしてその後継としての国際連合)と欧州統合という理念だった」が、「二十一世紀に入って、この両者とも結局、破綻し、国家の再浮上をもたらしている」のである(それは2020年のコロナウイルス禍への対処において、とりわけEUの元締めメルケル首相の言動によって、誰の目にも歴然とした)。
    一方、アメリカが「世界覇権国」という見果てぬ夢から覚めざるを得ないことがいよいよ明白」にな。った。「一九八九年に冷戦が終わったのち、湾岸戦争(一九九一)があったとき、アメリカの世界覇権主義はすでに前向きの目的を失って」おり、「帝政ローマのような『無思想のグローバル帝国主義』か、あるいは・・・『草の根的な孤立主義』のアメリカに戻るか、原理的に二つにひとつしか」なかったのである。「相対的には二十世紀後半と比べ、いまのアメリカの地政学的な国力、世界覇権国としての余力は低落の一途」を示し、「一九二〇年代と同じレベル、つまり『アメリカは百年前の水準にすっかり落ちてきている』」のである。もはやパックスアメリカーナの終焉は避けることのできない歴史的趨勢として決定づけられ、どんな指導者を以てしても覆ることはない。
    これは西尾氏が近著「国家の行方」で述べたことに直結している。すなわち、
    「アメリカ文明はロシアと中国、とりわけ中国から露骨な挑戦を受け、軍事と経済の両面において新しい『冷戦』ともいうべき危機の瀬戸際に立たされている」。「トランプ氏は世界全体を排除しようとしてさえいる。ロシアと中国だけではない。西側先進国も同盟国をも排除している。いやいやながらの同盟関係なのである。それが今のアメリカの叫びだと言っている」。「彼の露悪的な言葉遣いはアメリカが『壁』にぶつかり、今までの物差しでは測れない『自己』を発見したための憤怒と混迷と痛哭(つうこく)の叫びなのだと思う」。さらに「日本自身が『壁』にぶつかり『自己』を発見することが何より大切であることが問われている」としている。
    イスラム原理主義の出現は、同じ宗教原理主義としてパッククスアメリカーナの精神的・政治的背景を成したピューリタニズムに既に祖型があるパラレルな現象である。だとすれば、「強い吸引力と拡散力を持った、今の急進的なイスラムだって、数百年後の世界史の主人公になる可能性を秘めている。そういう世界史的な自己主張として見なければいけない」。「日本はキリスト教圏とイスラム圏の今後の対峙と競合の中で、どこに自らの立ち位置と軸足を置くべきなのか、これはまさに、『日本の世界史的立場』が問われる展望として受け止める必要がある」。イスラムとキリスト教圏の争いに首を突っ込み、欧米と「普遍的価値を共有する」(安倍首相)などと繰り返し表明する愚が指摘される。
    そして例えば南シナ海で既存の国際秩序を踏みにじって覇を唱える中国の現在は、「西洋近代」に真正面から挑戦する姿勢において、国際法秩序を破壊してパックスアメリカーナを打ち立てたアメリカの歴史に類例を持つ帝国主義志向として見なければならない。イスラム原理主義同様、世界史の主人公の座を占める可能性を持つのだ。
    「イスラムと中華という、二つの『反ないし非キリスト教文明圏』が、米欧への対峙勢力として、世界史的に抬頭してきたということを、より大きな文明史的展望において見ることが、日本には鋭く求められている」。「イスラムと中華によるユーラシア規模の枢軸が、たとえばいまの『一帯一路』などの帰趨に(よっては)米欧を圧倒する時がまもなく来るかもしれない」。
    しかし、「中華=イスラム枢軸と米欧キリスト教圏がぶつかることになれば、それは日本の『世界史的立場』の回復にとって、むしろ好条件をもたらすかもしれない」。「とりわけ『西洋近代』の呪縛から逃れるという意味において」。

    江戸から明治にかけて文明史的に完全に自立していた日本を拘束衣で縛ったのはワシントン会議である。米中の対日包囲網が突然不可抗力のように出現した。そして、1971年のキッシンジャー訪中はその再来であり、日本はいずれの時点でも「自立主体としての『世界史的立場』を奪い取られることとなった。高度成長後の日本がいよいよ自立に向かおうとしたとき、アメリカの対中接近に始まる中国の再抬頭に直面した」。つまり、「日本の『近代』を完結させるには、『中国との戦い』と同時に、『アメリカとの戦い』というもう一本の線を引かないと『日本の世界史的立場』は成立し」ないのである。

    アメリカの占領は、悪性憲法を強い、民族の根幹の皇室と神道の弱体化の仕掛けを施し、真珠湾、慰安婦、南京大虐殺等々の歴史の捏造で日本人の誇りを傷つけ、北方領土・竹島・尖閣諸島と近隣との紛争の種を蒔き、今に至るまで肥料を絶やすことはない。さらに、江戸期から明治にかけての「儒学から国学への展開、そして水戸学へと」いう日本の近代思想の自己発見のドラマは焚書という手段で徹底的に隠蔽された。「なぜアメリカが、あれほど水戸学的なるものを否定したか。それは、江戸期の日本が『古代』を取り戻しているということは、そこに日本のひとつのアイデンティティの軸ができている。この軸に沿って明治以来の日本の、アメリカに匹敵しためざましい興隆があり、そして将来、アメリカに対抗する日本が再生するかもしれない。何があっても、これはこの機会に完全につぶさなければ、日本人を金輪際、無害な『アメリッポン(アメリカ+日本)人」に変えることはできない。こういう戦略がアメリカの側に明確にあったからでしょう』。「ですから、この文明的な『アメリカの傘』の下にあるかぎり、中華に対抗しうる日本の『近代』を取り戻すことはできない」。
    「日本も、この多極化する世界で『一極として立つ』、つまり日本としての『世界史的立場』を取り戻すためには、明確に脱アメリカ・脱中国の方向性を意識することが大切」であり、「精神的に両方を超克することが必須不可欠なのだ。これが現在における『近代』の超克、われわれに課せられた使命」である。「日本がアメリカ、中国、あるいはロシア(中略)、とにかくそういった国々と渡りあうときに必要な普遍性を主張しうる精神の拠りどころ、これを発見し直し、明確に自己主張すること、それがいまも日本としての『世界史的立場』を取り戻す営みなの」だ。「大東亜戦争がなぜ起こったか・・・、満州事変、シナ事変、いろいろ個別の紛争があったけれども、一貫していたのは明治以来、日本人の側に『文明の自己主張としての“世界史のゲーム”をやろう』という意識があったから」に他ならないというのは本書の鍵となる重要な指摘である。
    「日本は再度、文明的な立脚点を築きあげないと、アメリカとも中国とも対峙して自己主張できない。・・・それがいま、決定的に明白になってくる時代に入りました。そのとき、われわれがもう一度、踏ん張って、世界史的な精神と文明の自立をめざす国民的勇気を奮い起こせるか。ここが、これからの日本の生存をめぐる最大の問題点ではないかと思います」。
    「日本の歴史を取り戻すことです。日本の歴史というものを、自己本位主義をもって再興することです」。
    かくて、西尾氏の前書きのキーワード「世界史の中の『日本』、日本史のなかの『世界』」をこそわれわれが自ら掘り起こす必要性に立ち至る。そのために、本書には両氏が獲得してきた歴史認識の精髄が語られ、われわれの自覚と行動を促す示唆に満ちているのである。

    なお、この重要な書物に誤植が多くAmazon投稿では気づいた点すべてを指摘しておいたが、ここでは省略する。

  3. 西尾先生。
    かつての盟友、よしりんの対コロナ論に目を通してみてはいかがでしょうか。
    日本では、コロナはインフルエンザ未満、いや比較にならないほど弱毒性のウィルスです。
    実際にグラフを見れば分かりますが、70代以上の罹患者でさえ、
    重症、死者はほんのわずかの割合しかいません。
    メディアでは絶対にそういった事実を表したグラフ等の資料は出しませんが……。
    コロナにビビるのであれば、インフルエンザにはどう対応するのか。

長谷川@日録管理人 にコメントする コメントをキャンセル

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