ヨーロッパを探す日本人(六)

 

 ヨーロッパにやって来る日本人は、いつでもなにかを探しているのだ。なにか面白い経験、有意義な証拠物件、あとで話題になる事件や出来事をもとめてうの目たかの目になっている。バーゼル時代のニーチェの住居をみつけようという私の動機にしたところで、この種の話題さがしの一つに過ぎまいから、写真狂の教育視察団を私はどうして嗤うことが出来よう。

 じっさい私はバーゼルでほかにすることはなかったのだろうか。美術館を観てしまえば、これほど退屈な町はなく、意地でもニーチェの下宿を捜し出すでもしなければ時間のうめようがなかったが、それにしても、これを見つける難しさを種にして、あとで日本の読者に「話題」を提供しようなどと計算していたわけではなかったから、外国旅行中は少しの時間も無駄にせずに何かを探したずね、歩きつづけずにはいられないというのは、もう動機を抜きにしても私の習性となっていたのかもしれない。

 私にはその習性がにわかに不思議なものに思えて来たのだった。私は外国経験の不思議さを考えた。先に来た者は後から来た者に、長く居る者は短く居る者に、心理的な暗示を掛け易い。前者が確信を以て言うことばを覆すには、後者もかなり長く滞在し、それに見合ったある程度の経験を自分でも積んでみなければどうにもならないのである。

 私は通訳などで出会う短期旅行者が、年齢にかかわりなく、私の拙い経験談を熱心に、面白がって耳を傾けるのを見るにつけ、ふとした私の言葉が暗示になって、かれらのドイツ観なりイタリア観なりがある一定の方向へ動き出して行くさまを恐ろしいものを見るような思いで見つめることが幾度もあった。

 外国ではそれほど感情がナイーブになり、稚気に返ることがあり得る。ただ大抵の人は帰国すると、忽ちそのことを忘れてしまうだけである。

 自分の二年間の生活をふり返ってみても、最初の時期にはどれほど感情が動揺し、他人の言葉に左右されていたかを思い返すことが屡々ある。だからわれわれは「経験」をもとめることが慣い性になるのだとも言えよう。自分の経験で、自分の不安定な裸心に保護膜をできるだけ早くつけようとする姿勢は、安定を得ようとする生物的本能なのかもしれない。

 そしていったん安全なヴェールを纏って、現実感覚を手に入れてしまうとそれに落ちつく人もいれば、さらにそれを破って、新しい現実のイメージをさらに獲得しようと努めなければ不安でたまらぬ人もある。前者は大抵ひとつの町に落ちついて日本人社会との交際に寧日なき有様になるし、後者は、次から次へと旅行プランを考え、与えられた僅かな滞在期間中に、狂気じみた衝動で、次から次へと押し寄せるさまざまな経験に身をゆだね、統一感覚がなくなり、自分でも何をしているのか判らないような気持で、なにものかを探し求める(傍点)習性に引きずられて暮らすようになる。二年ていどの留学期間では、たいていこのどちらかの型に属する人が多いように思える。

 通訳などで出会う短期旅行者を笑うことは易しいが、また私は、私よりも多く経験している人に笑われはしまいかという不安におびえていた自分をこそ笑わなければならなかった筈なのである。他人を笑うこころと、笑われまいとするこころとは同じ精神構造なのだが、しかし、こうした不具な感情から完全に自由な日本人というものは、私の知るかぎりひとりもいなかった。

 日本人が数人あつまってレストランに入った場合、年齢にかかわりなく、先に来ている者がボーイに注文し、あとから来た者は遠慮してドイツ語を口にしないというのは、単に言葉に対する自信のなさから来るのではないだろう。現実感覚のうすさに対する自分への不安から来ているのに違いない。そしてそういう不安にいったん取り憑かれたが最後、人間は不安をうめようというバランスへの生物的本能から、経験の量を重ねようとする一定路線をまっしぐらに走りはじめることになるのである。それは仕事の量、旅行の量、外国人との交際の量、観劇の量、その他いろいろな形態をとる。

 日本では厳格な顔をしている老先生が外国ではすっかり童心に返り、旅先の町々で動物園まで見学してくるようになるのは、それがまさしくその人の現実感覚のバランスを支える「生活」の内容と化しているからである。だから日本では映画館以外に劇場というものに入ったことのない人が、帰国までに大のオペラ・ファンになっているという珍現象も、それだけではいかにもおかしいものにみえるが、外国にいた期間中は、それが彼にとって動かせない現実の重みを備えていたこともまた否定できないのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です