さて、拙著の題名の「狂気の首相」に括弧がついているのには意味がある。いわゆる「狂気の首相」とみなされている人、噂されている人という趣旨であって、私が「狂気」と断定しているのではない。先週もTVタックルで出演者のお一人が「小泉さんは頭がおかしい」という意味のことを言っていた。そういう声があちこちで聞える概念の総称を括弧づけで表現したまでである。
それを証明する一例を少し長くなるが引用させていたゞく。
栗本慎一郎『週刊現代』(2005.12.24)巻頭記事よりの引用で、Speak Easy社会というブログの「パンツをはいた純一郎」というタイトルの記事からとびとびに転送させてもらう。 栗本氏は人も知る首相のきわめて近い慶応大学在学中の同級生で、その関係は
「小泉の同級生のなかで、大学出てから小泉と同じ職場で働いた人間なんて私以外にいません。追って詳しく説明しますが、私は代議士として自民党に入ってしまった期間があり、そのとき、同じ職場で働いていました。ですから、客観的に見て私には小泉に関するものすごい証言能力があるでしょう。
栗本氏の証言は次のように展開される。
彼は一対一では誰とも話ができない。『コミュニケーション不能症』です。人間と普通に話すことができないのです。彼が人と付き合うには、立場が必要なんです。言葉を知らないから、友人としての話というは成立しない。だから「立場」しかない。
「オレが会長だ」「オレは何かを代表している」という立場なら演じることができる。ですから、彼は自分の性格上、権力は絶対に欲しい。権力欲がないようなことを言っていますが、それは大間違いです。「小泉は通常の意味で、とにかく頭が悪かった。本当は頭がいいんだけど、成績が悪いといったパターンがありますが、彼の場合、ただわかんないだけ。理解カゼロなんです。
彼がいかに頭が悪いか。私が’95年に衆議院議員として自民党に入党したときに、一時期彼の『押し掛け家庭教師』をやったことがあります『金融市場をどうするのか』、『戦後の日本経済のなかで、現在はどういう位置にあるのか』、そういったことについて、すでに名の知れた若手リーダーなのにあまりにとんちんかんなので、教えてやろうということになったわけです。
それで、最初は私がやったのですが、あまりにダメなので、懇意にしている別の有名教授に応援を頼んだ。先生と生徒があまり親しいとうまくいかないことがある。それを心配したのです。
それで某教授を呼んで、
『ひょっとしたら総理になるかもしれない男なのに、こんなんじゃ困るから』
と依頼したのです。某教授も小泉がそんなバカとは知らないので、日本のためにと、やってきた。でも、講義は、まったく前に進まない。しかたがないから、私が司会のように横についた。『これは○○のことを話しているんだよ』と、解説した。家庭教師に司会が必要だったわけです。
ところが、それでも話が進まない。私がそばにいるせいで格好つけているのかと思って、行きたくもないトイレに立って席を外してみました。しかし、戻ってきても進んでいない。結局、3時間ほどやって諦めました。
後で某教授に『どうですか』と聞いたら、『ダメだねえ』と言って困ってました。そして彼がこう断じたのです。
『これがわからないとか、あれがわからないということじゃなくて、問題がわかっていない』
小泉は採点のしようがないぐらいバカだというのが正しい評価です。前首相の森喜朗さんも頭が悪そうですが、彼は、自分がわかっていないことがわかるようだ。だから森のほうが少し上です。
皇室のことも、歴史のことも、経済のことも、結局首相は何も分らないで政治をやっているということになるのだろうか。栗本氏のあけすけな証言を読むと私は思い当るものがある。そのまゝ私が一年半前に予言的に書いておいた「小泉純一郎“坊ちゃんの冷血”――ある臨床心理士との対話」(『VOICE』2004.8)、これは上掲書にも収録した論文であるが、ここですでに指摘した問題点と、栗本氏の証言内容とはほゞ一致していることが分るからである。私は首相の一連の政治行動から推量しただけだが、栗本氏は実体験でこれを裏づけている。
なぜ郵政事業をこれほどまで犠牲を出しつつ民営化しなければならないか、何度小泉の演説を聴いても単純すぎてさっぱり理解できない。民間のできることは全部民間でと言うのなら、道路公団についてなぜあんなに適当にやるのかわからない。彼は郵政民営化について、中身はせいぜい5分しか話すことができないのです。何十年とそればっかり考えてきて、5分しか話せないんですよ。これは問題でしょう。
ところが、テレビに出るときは5分で十分なんです。発言が放映される時間は、せいぜい5分ですから。しかし、議論はまったくできない。だから、突然の断行強行になってしまうのです。
この内容は私が近刊の前掲書の「序」に書いたこと、衆議院解散の夜の首相のテレビ演説から私が直観的に感じ取ったこととぴったり同じである。栗本氏はさらに、
私は、一、二度、彼と二人だけで新幹線に乗りました。東京から京都まで、あるいは大阪まで、隣に坐ったわけですが、あれほど退屈な時間はなかった。彼はとにかく普通の話ができない。議員同士の世間話をしても、前日の国会の話をしても10分で終わってしまう。だからしょうがない。二人とも寝るしかない。
小泉の発言は明確だと言われますが、真相は長いことを喋れないから、話が短くて明確そうに聞こえるだけです。話がもたないから、すぐ結論を言ってしまうわけです。」
栗本氏の指摘は証言力に富み、説得力がある。郵政から皇室まで、というより子供時代から今日まで小泉氏は何も変わっていないのである。当然だが、同一人格である。いわば裸の王様である。
右往左往している国会がみっともない。危険にさらされている国民はたまらない。
注:なお近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(一)の文中の皇族の尊称については、曾孫からみた未来の物語なので誰にでもピンとくるように、あえてこのような書き方とした。
注を読んで、西尾先生の意図が分かり、納得しました。
時系列上の何処を起点として、誰の視点で見ているのか分からないと、あの表記の仕方ではあらぬ(よからぬ)誤解を受けてしまうので、「私(西尾先生)の言わんとするところ」の正しい意味を、他者にも正しく理解できるよう、丁寧に書くことは必要です。
単純な認識の誤解、「私の言わんとするところ」の意味の誤解が、根本的な対立の原因でありますので、語の用法について、慎重にならざるを得ないだろうと、そう思います(私自身、他者へ指摘できるほどのボキャブラリィなど、持ち合わせていないのですけど……)。
こりゃ駄目だ。
小泉首相はどうやって間違いを正すのだろう。
人間は間違う能力があるからこそ新しいことも出来るのだという側面があるけれど。
西尾先生の話を読んでいてイメージ的には次のような印象を受けました。
ポツン、ポツンと思いつきが断片的に波紋のように孤独に繋がりなく存在し、波紋が深みがない。
そうでなければ自分の間違えも質的なチェックできるのだろうけど。または波紋どうしが総合的に繋がっていれば広がりの総合チェックで大きな間違いはおかさないのだろうけど。
波紋が現在のテーマだとしましょう。色々なテーマが相互に繋がって広がっているわけです。すると深さはテーマの歴史的な時系列とでもいうのでしょうか。
現時点で見ても郵政民営化と道路公団改革テーマ相互に繋がりなく、歴史とも断絶している。
栗本教授の話では対話も出来ないというなら助言も聞かないだろうし。
人間のつながりも利用の関係だけなんだろうな。こうだったら血縁の家族しか小泉首相とは対話が出来ないというより家族もそれを知ったうえでやっているのだろうけど。どうしてこんな人が絶大な人気を得ているのだろう。
最近あちこちで「平成天皇」という表記を目にします。TVのテロップにも出ます。保守的と目されるブログでもしかりです。だれも西尾さんのような注記はしません。注意をしたら西尾さんでもそう書いているというでしょう。未来からみてというのは言い訳に聞こえます。碩学にこんな言い方は失礼ですが、皇室に対する言葉は正確にお願いしたいです。分かりやすくするには工夫が必要でしょうけれど。こんなところから皇室に対する敬意が失われるという気がします。
義弟と一度女性天皇の話題をしたことがあり、彼が言うには「女性天皇だろうが男性天皇だろうが国民がつべこべ言える立場かなぁ」と、私には少し新鮮な風となって届いた。
そうなのだ。本来なら私たち国民の側の問題ではないのだ。どんな結果となろうとも、皇室が決めたことは粛粛と受け入れなければならない。それを忘れていた。何故この問題を我々が背負わなければならないのだろう。それ自体が間違いではないだろうか。
我々は背負うのではなく、支えるべきではないか。
勘違いはそうした言葉の意味に顕れている。
私たちに何が決められるというのか?
よく見、聞き、理解したならば、普通なにも語れない・・・それが我が国の皇室ではないか。
私たちはそれをしていない。いみじくも義弟が言った「どちらでも良い」覚悟が欠けている。
彼が本当の意味を知ってそう語ったかは解らないが、結果的に彼は正しい。
清盛や義光だけが批難されるべき対象者ではなく、あけすけと土足で踏み入り、さしたる覚悟もないまま歴史を断絶する行為こそ最大の謀反ではないだろうか。
小泉総理のこの性格は、父親が婿養子だからという私の説です。
婿養子の息子の特徴として、
「身内に冷たい。」
「人を見る目がない。特に女性を見る目がない。」
「会話が成り立たない。10分以上続かない。」
「家庭が崩壊している。」
「文化の破壊者である。」
私の身内と符合する点です。
この性格が歪んでいるのは教養がないせいだと思っていたんですが、
最近、栗本氏の文章を読んで、それだけではないような感じをもっております。
「立場なら演じることができる」という所が恐ろしいと思いました。
昔、レーガン大統領は、役者上がりと馬鹿にされましたが、「大統領」という役を演じることはうまかった。本人は役を演じるだけでも、周りがしっかりしていた。
また、ヒトラーを思い出した。彼も「独裁者」を演じていたのだろうと思う。絵描きをしていた芸術肌の人間が、突然独裁者になる。きっと、裏に人形遣いがいて、「独裁者ヒトラー」というのを演じさせていたのではないか?
小泉首相の周りにも、巨漢の秘書官や実の姉などの人形遣いがいて、日本的大人気の首相を演技させている。小泉さんの本体が、あまりにも空洞のため、どんなものでも入ってしまうのだろう。国民はそれぞれの理想を、空洞である小泉首相にあてはめ、満足しているのだろう。これは、衆愚政治、ファシズム政治に直結する、恐ろしい道であることを。国民一人ひとりが、実感しなければ、マスコミと国民は、結局、第二、第三の「小泉さん的空洞人間」を探して来て、また、祭り上げるという暴挙を繰り返すだろう。