近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(四)

 自民党は2月9日に来夏の参院選の候補者選びにいち早く着手した、という報道がなされた(「朝日」10日付)。予定を前倒しにする手回しの早さである。「小泉首相や執行部が昨年の総選挙の再現を狙って候補者の公募や現職優先の見直しを進める考え」とみなされている。

 小泉政権は果たしてファシズムの先駆形態か、という議論はじつは私だけでなく、言論界の一部ではすでにいろいろな形でなされている。統制の強化が著しいことがその徴候とみられている。参院選のこのような早めのしばりも前例がない。

 小泉政権を評価する人の中には、旧田中派に代表される自民党内の古い体質の大掃除が果された、という実績をあげる人が多い。この件は私も前回の参院選の直後に「評価に値する」と書いた覚えがある。しかし、前回の郵政選挙(衆議院解散)は大掃除の程度をはるかに越えていた。

 古い体質の改革ではなく、日本人の道徳の根幹にある地域の義理人情や保守政党としてのアイデンティティの元となる民族主義的愛国感情までをも破壊してしまった。そして、それを能率本位の市場競争の理念、アメリカニズムに取って替えようとした。

 あの頃から政界ではなく日本の一般国民生活に、さまざまな道徳主義的ご清潔主義がはびこりだしていることにお気づきだろうか。東京都が旗を振り出した迷惑防止条例というのがある。ポルノなどの性の自由を抑える規制も知らぬうちに強化されている。

 検察が何となく力をもち出し、国民感情をうまく利用して、秩序と道徳の先導役を果たして一般の人の喝采を浴びているというのもどことなく気にかゝる所である。小泉政権の大掃除は旧田中派だけでなく、大切なものをも一緒に掃き出してしまっていないか。

 ファシズムというと軍事パレードと独裁者の怒号のような演説を思い出す人が多いが、そういうものばかりではない。チェコの元大統領ハベル氏が、「手袋をはめた全体主義」と言ったように、高級官僚がソファーに坐って、事務机の前で手袋をはめたまゝ行うソフトな全体主義があり得る。国家統制だけ強まり、その中味は北朝鮮のイデオロギーだったりするのが一番恐ろしいのだ。

 『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』で私が抱いた未来への不安は果してただの杞憂だろうか。小泉政権は過渡期の政権、次の新しい体制への橋渡し役にすぎないといわれてきた。小泉政権はファシズムの露払い、その先駆形態ではないかという疑問を私は本書で述べているが、知友の多くは私の本の題名に首を傾げ、「どうせ9月にやめてしまう人だから心配ない」とか、「小泉さんはいささかクレージーだが、ファシズムとは思えない」などと反応を示す人が少くなかった。

 しかしここへ来て急に私の本に注目する人が出て来たようだ。SAPIOからの同書をめぐる一ページインタビュー記事の依頼があり、マスコミの人がこの題名に怖がらないことを証明した。来週にも会うことになった。

 さて、それに先立ち、昨年の暮のうちだが、『国家の罠』と『国家の自縛』の二冊で話題になった佐藤優氏が『世界』(2005.12)に私からの長い引用も含めて、小泉政権はファシズムか? をあらためて問う論考を掲げているが、さすがに見るべき人はちゃんと見ている。

 佐藤氏の短期連載の第6回しか私は読んでいないが、重要な判断が示されている。氏の考えを私なりに要約すると次のようになる。

 小泉政権がファシズムかという問いに対する佐藤氏の答えは「ノー」だが、しかしファシズムの前提条件は整いつつある。与党が議会で三分の二以上を占めているので憲法第58条の規定を援用すれば、与党が全議席を獲得することも理論的に可能である。

 しかも小泉首相への権力の集中も進んでいる。ファシズムの特徴は官僚支配の打破を唱えることによって、実際は官僚支配を強める結果をもたらす逆説にある。たゞし、支配力を強める官僚は総理に直接任命された新官僚である。例えば竹中平蔵のようなテクノクラートに代表される総理直属の官僚である。(過日も都内の一等地の公務員アパートの取りこわしを首相が命じたとの報があり、国民の人気を博しているが、このように外側から見える処で官僚打破を叫び、見えない処で官僚支配が強まる現象はファシズムの近さを暗示している。)

 そして既成の官僚が力を失い、新しい特定の官僚の元に外側からは見えにくい小政府が生まれる。しかし佐藤氏は、小泉政権にはファシズムに不可欠の要素、自国民に対する「優しさ」が欠けているという。ファシズムの語源となった「ファシオ」はイタリア語で「束ねる」という意味、国民を束ねる手段には二つあり、第一は排外的ナショナリズム、第二は社会的弱者、競争社会の「負け組」に対し国家が再配分を行う平等主義がそれである。

 ファシズムは「勝ち組」を国家の力によって抑えこむ傾向がある。竹中平蔵とホリエモンに代表される「新自由主義」はその意味でファシズムとは相容れないのだ、という注目すべき仮説を提起している。(そうなると今度のホリエモン逮捕はファシズムへの新しい段階ということになるのかもしれない。今回の皇室典範問題で小泉政権が露骨に示しつづけているのは君主制の廃止、共和制への指向である。これもファシズムに向かっていく薄気味の悪い徴候かもしれない。)

 天皇の制度は歴史概念で、ファシズムのような近代的概念とは一致せず、これをむしろ排除する役割を担ってきた。天皇の制度が廃止になったら、その次に異様な独裁体制が出現する可能性がなきにしも非ずと私は考えている。これは私の推理である。

 さて、佐藤氏によるとファシズム国家はその内側において国民の平等を担保するのが常であり、国民に対してのみ「優しい」のを戦略とする。この点において、「新自由主義」による競争肯定の小泉政権は「負け組」の面倒はみないのであるから、優しくなく、いまだファシズムとはいえないとの判定を下している。

 そして、私の論文からかなり長い部分の引用を含めて、思わぬ方向へ議論を次のように展開している。

「近刊『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』をめぐって(四)」への8件のフィードバック

  1. 現在、我が国において、植民地時代に宗主国が旧植民地に対して
    行ったことと同型のことが行われている。
    (基本戦略は、内部を分裂させること。)
    国内勢力によるファシズムなら、まだ救いがある。
    郵政民営化の時にかなり議論されたことだ。

    小泉はその無能さ、単細胞さ、狂気というものを連中にうまく利用されている。
    連中が誰かは書かない。

    連中は今のうちに、レールを引いておこうという腹であろう。
    皇室滅亡へ導くための皇室典範改悪についても諦めていないはずだ。

    官僚機構が乗っ取られたら、それでおしまいである。
    一般国民は、官僚悪しのプロバガンダには簡単に騙される。

    昨年の総選挙を見るまでも無く、劣等国民が過半数を占めている。
    政治の現状を見る限り、我が国に未来は無い。

    小泉政権が9月で終わるからなどと楽観視している連中は、
    おめでたい限りだ。

    我が国の民族存亡の危機を肌で感じることの出来る人間が果たして何人いるのか。
    そこにしか、期待できない。

  2. ピンバック: なめ猫♪
  3. ピンバック: 22で
  4. 日本におけるファシズムには「優しさ」というものがなくても成立するのではないか。太平洋戦争末期は軍部によるファシズムと呼べるが、国民に対する「優しさ」などは微塵もなかったように思う。佐藤優氏のその論はどうもピンとこない。

    私にはファシズムは日本なりの姿で存在し得ると思える。

    戦争末期、日本は指導部の戦略上の矛盾を一挙に解消する目的で、特攻というものを発明し、それを学徒すなわち大人といえないような学生にそれを押し付けた。指導部は率先垂範し自ら特攻することはまったくなかった。指導部は、あの戦争末期でさえ自らの権力に陶酔するばかりで、責任を自覚していなかったのである。指導者はまったくのクズばかりだったといってもいいのである。指導力、人間の高潔性ともに失格である。

    このような国家による人間における根本の自由が極めて制限され、抑圧された状況はファシズムそのものであった。そこには暴力による抑圧だけでなく、真実に対する隠蔽、欺瞞、歪曲、本質からの巧妙なずらしなどがあった。そして、国民を熱狂へといざなったのである。

    マスコミは特攻を礼賛した。それがどういう意味を持つかを冷静に考察しようとするマスコミは皆無と言ってよかった。こうした軍部以外の戦争加担者に対しても、本来厳しく批判されなければならないはずなのにまったくあいまいにされたままである。

    国民が政治に熱狂した時はほとんどが危機である。ほとんどが間違っている。尊皇攘夷、日清、日露戦争後の講和条約への反発、大東亜戦争中の熱狂。本当にあれは仕方がなった、のだろか?

    翻って、小泉政権を考えた時、郵政民営化などもそれがどういう意味を持っているのかを冷静に考察したマスコミは皆無だった。単に熱狂し、熱狂をあおっただけだった。コメンテータと呼ばれる人間のレベルもあきれ果てるほど低く、なぜあんなのがテレビに出てしたり顔に話しているのだろうかと多くの国民は思っていたのである。

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