続・つくる会顛末記 (四)の1

続・つくる会顛末記

 

(四)の1

 高森明勅氏は学者として、知識人として、教科書執筆者として立派に生きてこられた方で、私は個人的にも敬愛の念を抱いています。

 会では唯一の貴重な古代史学者で、彼がいなければ教科書はできなかったし、『国民の歴史』その他の私の仕事にも協力して下さった私の恩人の一人です。

 最近、女系天皇を容認した数少い古代史学者の一人として、保守思想界の一部から非難を浴びているのは気の毒です。皇位継承をどう考えるかは人の自由です。ある人が、かつて私に女系を唱える高森氏は「つくる会」理事にふさわしくない、と語ったことがありますが、皇室問題でこうした一定の枠で他人を囲い込み、仲間社会から排除するような人を危険なファナティストというのです。

 大月隆寛氏が病気で行き詰って代りに高森氏が事務局長に選ばれたときの会代表は私でしたが、選抜したという記憶は私にありません。他に人がいなくて、みんなでがやがややっていて、ならばお前やれ、誰がやれ、という声掛け合いの中から自然に高森さんが適任者として浮かび上がったのだと思います。大月さんが選ばれたときも、そういう手順だったでしょう。理事の間は平等で、上意下達の会ではまったくありません。任意団体で、今どきそんなことが通用する会が何処にあるでしょう。

 ただ辞めてもらうとき、あるいは交替を指示するときには、厭なことばを口にするのですから、会代表の強い一声が必要です。

 高森氏は事務局長のかたわら一年かけて坂本多加雄氏と二人で教科書執筆の基礎稿をつくりました。二人は仲が良く、呼吸が合っていました。「つくる会」の講演やシンポジウムも例の歯切れのいい大きな声で、雄弁家を誇っていました。

 ではありますが、事務局長としてはどうかというと、他方でこれだけ数多くの仕事をこなしているのですから、いかんせん事務局にいる時間が少ない。それが不評を買いました。また前に種子島氏あてのメール(本稿(二)9月2日2:29AM)に述べたように、経理上有利であり過ぎるという批判が多数の事務系職員から出たのも事実です。

 事務局長が事務所にいない日が多いのは、その頃から会の活動が広がりだして、事務量も多くなったので、困惑と障害をもらすようになりました。いつからか明確に分りませんが、種子島理事が高森氏の欠席日に、週二日ていど代役を果してくれる約束が成立しました。

 さて、実業家種子島氏はどうして私たちの会に参加してくるようになったのかを語っておかねばなりません。種子島氏は日本BMWの社長も、フォードの相談役も務めあげ、自由の身でした。彼が早くから自分の後継者として育てあげ、世に送り出した人の中に、話題のダイエー会社に抜擢された林文子さんがいます。ビジネスの世界では種子島氏は有名です。自信家でもあります。

 彼は大会社のエスカレータに乗った官僚型実業家ではなく、アメリカでモーターバイクを単身で売りまくった「モーレツ社員」、高度成長期を築き上げた戦士の一人でした。アメリカ、ドイツと渡り歩き、今でも目を患って半眼がよく見えない苦労を越えて、世界を飛び歩いています。話もうまく、自分の人生を語った講演は惚れぼれするほど聴かせます。

 会社から離れて、「つくる会」の周辺で有能な英語力を生かして、南京事件関連の文書の翻訳を手伝ったりしているうちに、会のメンバーと親しくなりました。「つくる会」の理事は大半が文学部出身者で、およそ経営のセンスがありません。私が乞うて理事になってもらいました。ビジネスマンのセンスが会には必要だと考えたからです。

 彼の目に「つくる会」の世界はどんな風に映ったでしょう。詳しくは聞いていませんが、恐らく驚いて、揚句どう言っていいか分らない不審の思い、戸惑いの果ての判断ミスもやむを得ぬ困難の日々であったでありましょう。

 種子島氏は東大教養学部(駒場)時代の私の同級生でした。このことは周知と思いますが、私たちの共通の師に小池辰雄先生というドイツ語の先生がいて、この方が内村鑑三の無教会派キリスト教の流れをくむ伝道者であり、武蔵野市で「曠野の愛社」という修道の場を拓いていたことはまだ語られていません。

 Himmel(大空、天空)というドイツ語名詞がありますが、その形容詞himmlisch(大空の)を先生は一年生のわれわれに「天的」とお訳しになり、宗教的意味をこめて熱情的に語られたのでさっそく「天的先生」という綽名がつきました。それからGeist(精神)というのももう一つの綽名です。なにしろ初級文法が終るとすぐにゲーテ『ファウスト』をテキストに使い、宗教的講話が授業の半分を占めるので、このGeist、ガイストという音の響きが先生にぴったりで、私たちには忘れられない恩師、亡くなるまでお慕いしました。

 なぜこんな話をするのかというと、「キリストの幕屋」の創設者である手島郁夫師も内村鑑三の流れに棹さす無教会派で、小池辰雄先生とは生前深い交わりがあり、手島師がお亡くなりになる前に後事を託された由にて、幕屋はその後ずっと小池先生の信仰上のご指導を仰いでいたと聞いています。

 「つくる会」で「キリストの幕屋」と最初の接触を持った人は藤岡氏でした。幕屋の方からの接近で、『教科書が教えない歴史』の先生としてだと思います。そのあと私が小池先生の弟子だと聞いて私にも親愛感を抱いて下さるようになり、同じ弟子の種子島氏が聖書の集会に出席するようになって、さらに信頼が深まりました。

 種子島氏は「つくる会」の理事になって以後幕屋を通じ信仰に近づきました。私の蔵書の三分の二は何らかの意味で宗教に関係があるのですが、私自身は近代日本の知識人の宿命か、すべての宗教は相対化され、文化的知識欲の対象となるばかりで、今後のことは分りませんが、信仰への敷居を越えることはできそうにありません。ですが、もし仮りにキリスト教徒になるなら、プロテスタントは嫌い、カソリックはぎりぎり我慢できますが、多分そういう場合には無教会派を選ぶだろう、などと勝手に空想しています。

 種子島氏は週に二、三日ほど「つくる会」事務所につめて高森氏不在の日の事務局長代行をして下さるようになりました。高森氏が辞めて宮崎事務局長になってからもしばらく事務所には財務担当理事として顔を出していました。それだけに他の理事よりも事務局の実態についてよく知り、事務局長の良し悪し、指導の仕方、統率力、職員の働きぶり、部屋のムードの明暗などに対し敏感で、あまり口うるさい批判はしない人でしたが、じっと見るべき処は見ていたはずでした。

つづく

つづく

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