続・つくる会顛末記 (四)の2

続・つくる会顛末記

 

(四)の2

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。

 第一回採択戦の敗北は第二回目よりも深刻ではなく、高森氏は「リベンジ」を宣言し、種子島氏も「自分は退くつもりだったが、この敗け方ではやめられなくなった」と言い、副会長の責任まで背負うことになりました。

 敗北の原因は(一)中韓の攻勢とそれに迎合する国内マスコミ、(二)地方教育委員会の事なかれ主義、この二つにあると要約されました。あのときは誰でもこの二つを口にしました。「拉致問題」が出現して情勢が変わるのはこの後です。再生の要は事務局であり、活動の原点は事務局長であるとはまだあまり明確に自覚されていませんでした。たゞ、事務局長は留守がちでは困るという声が圧倒的でした。

 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。

 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

 私は危いと見ました。高森氏は藤岡氏の攻勢を躱せないだろう。原因は大学の勤務その他と事務局の仕事とが両立しないことにあります。高森氏には時間の余裕がない。やはり両方は無理だ。事務局長は「専従」にしなければならない。多くの理事の提言でもありました。

 思い切って高森氏に話し掛け、当然不快の表情をなさりましたが、自分が専従になれないことも明らかで、あまり大きな抵抗も反対もなく、了承を得ました。彼は会全体のことを考える大人なのです。こうして、誰かいい人はいないか。毎日務めてくれる人はいないか、と見回していると、事務局にほとんど毎日アルバイトで来ている一人の真面目そうな人物の存在にあらためて気がついたのです。それが宮崎正治さんでした。

 「つくる会」には当時外国の教科書を研究する第二部会があって、じつに熱心な勉強会が展開していました。東中野修道さんもそこに名を列ねていました。私はアメリカとイタリアの教科書研究の発表の場に立合わせてもらったことがあります。その席上で宮崎さんとはかねて顔見知りでしたが、高橋史朗氏の友人だということ以外には何も聞いていませんでした。

 高橋史朗氏が宮崎正治氏の無職に心を煩わし、どうしたものかと悩んでいて、友情に篤い人だと感心し、高橋氏のために何とかしてあげたいという動機が当然私にもありました。一説では宮崎氏は本当に困っていて、高橋氏に肉体労働でもするしか他に手はない、と訴えていたとも聞いていて、深刻だと思いました。私が5年後の今日も彼の経済生活のことを気にかけ、種子島氏の乱暴な処断に反対していたのは、最初のこの一件があったからでした。

 こういうことは本当は書きたくないのですが、書かないと、あれだけ話題になった事務局長問題の真相を、そのバックグラウンドを含めて立体的にお知らせすることがどうしても出来ないので、止むを得ないのです。

 それに、毎日来てくれる人で、老人でなく、知識人でもある人、何よりも「つくる会」の運動を精神的に理解している人――ということになると、本当に人がいないのです。

 私は宮崎氏にお願いすることを自ら決断し、本人の了承を得て、新しい事務局長の任命を理事会に諮りました。

 以上の通り宮崎氏の選定に関しては、宮崎氏と会との両方の必要条件は合っていましたが、十分条件を満たしていたわけではありません。宮崎氏が運動家として有能であるかどうかは初めから考慮の外にありました。そんなことを考える余裕が会にも宮崎氏にも、双方にありませんでした。ある意味で行き当たりばったりで大急ぎで決めてしまったのです。そのことがどんな災いをもたらすか深く考えることがなかったのは、たとえ選択条件がいかに難しかろうと私のミスであり、私が組織運動などに無知な素人だったので、会員のみなさまには幾重にも謝罪しなければなりません。

 宮崎氏はたしかに読書人で、たゞの事務員ではありませんでした。性格が温順で、各理事に気配りがあり、私などは会の出張の一人旅で、バスの乗り継ぎひとつ迷わないように地元に連絡して下さるほど心憎いほど優しい人です。私の本もよく読んでいて、書名の相談にも乗ってくれました。もし私が会を「私物化」しているのであれば、名誉会長をつづけ、宮崎事務局長を守り、彼を私の「半・秘書」のようにする道がたしかに一つあったでしょう。私はそれほど彼から厚遇されていました。

 しかし私の精神は逆に動くのです。宮崎更迭の種子島提案があって以後、しばらく考え私は自分の選定のミスを総括的に反省しました。

 宮崎氏は近代社会の中で他人の釜のめしを食った経験がない人です。その半生を保守団体の知識人運動家として、今の言葉でいえばフリーターとして過して来ました。とかく目が伝統社会、神社の神主さんその他に向かい、企業や官庁が代表する近代社会に人脈もなければ、押さえ処も分らない人です。伝統社会も大切ですが、第二回採択戦はそこに力点を置きすぎて結局失敗したのではなかったのですか。

 それも大事だが、それのみではダメだ、と私も敗北後考えるようになっていて、種子島氏はこれを「事務局長のマンネリズム」という言葉で捉えていたわけです。

 けれども最初のうちは私もそんな風に明確な判断に立っていたわけではありません。じつは今日初めて公開しますが、9月4日という早い時期に、宮崎事務局長問題を真先に私が相談し、新しい人捜しを依頼した相手は、椛島有三日本会議事務総長、日本青年協議会元代表その人だったのです。

 次にこの重要な事実からお話しなくてはなりません。

「続・つくる会顛末記 (四)の2」への8件のフィードバック

  1. 「諸君」掲載の八木氏の論文読みました。彼がどこまで真相を語っているかわかりませんが,最後の部分だけは得心がいきました。

    (西尾先生は)学者・言論人としては今でも尊敬しているけどいっしょに運動する間柄としては厳しいものがある,という部分です。

    藤岡先生にしても西尾先生にしても大変厳しい方なのでしょうね。そういう方でないとあそこまでできないのは当然ですけどね。

  2. 西尾先生は、不実に対しては大変厳しい方であると存じます。政治的な利害得失による変節・曲筆はなさいません。
     であるからこそ、つくる会を創立されたのであり、できたのであると考えます。
     つくる会を「第二ステージに移す」と云う言葉にこそ、変節を曲筆により粉飾する不実そのものがあったと感じます。
     つくる会の会員が何分の一になろうと、つくる会が創立当初の理念を堅持する限り、つくる会は存続し、会が存続する限り、私は地方の一会員として、十年一日の活動を力まず弛まず続けてまいります。そこに色褪せぬ真実を見るからです。只それだけのことです。
    (蛇足 数少ない保守の世論においてすら、その大半は烏合の衆であると思います。今、千早城を囲んでいる大軍は、近未来、鎌倉攻めに馳せ参じる大軍でもあるはずです。世の中とはそのようなものでありましょう。そして、その中には新たな高氏も少なからずおりましょうが、頑固な楠公は、千早城の中にしかおられません。)

  3. 『考えられるモデル』
    ずっと話を読んでいて、いよいよ核心に届く内容になりそうです。
    今回の騒動は要因が一つではなさそうなので私のような単細胞には整理がつかないでとっても苦労しています。当事者ではないからあくまでも想像でしかないですが、次のようなことは要因として考えられるでしょう。私は自分が第三者的な客観性を持ってみていませんから、八木先生に対して点が辛いかもしれません。

    ①事務局長問題がいつのまにか「八木-西尾+藤岡」問題になってしまった。
    ②そのときに生じた支援団体による人事問題への口出し。
    ③西尾先生も八木先生も含めた先生方の組織活動体験の未熟。それをサポートできるはずだった企業経営経験者の役割発揮不足(原因は不明)。
    ④西尾・八木の師弟といってもいい間柄の愛憎で何かあった。
    ⑤八木先生のふがいなさに対する西尾先生の怒り。
    ⑥西尾先生の自己反省を含めた仲良しグループ的活動を破壊した再生活動。
    ⑦作る会会員や支援者による西尾先生のやり方に対する不信感・嫌悪感、藤岡先生への嫌悪感。
    ⑧八木先生の中国訪問問題。
    ⑨インターネットで面白がっている野次馬の存在。

    ①から⑨まで書きましたが複雑さや重要度や相互の誤解という側面は書いていません。戦略的には事務局長問題に端を発しているので、この問題の解決が出来なかったのが残念なことだったのでしょう。この原因として可能性としてあるのは色々なことが考えられますが、事務局長って結構重要なんですよね。そしてその重要性に気づいた方々が更迭を求めて、そうなりそうだったのが突然八木先生が心変わりした理由が何かあるのでしょう。

    更迭されそうになった事務局長が何か策を弄したか。それに八木先生が乗せられたか。わからんですけど。もしもそうだとしたらおそらくそれ以上にえげつない中国へ対応できるわけがないでしょう。

    きっとこれから出てくる西尾先生の掲示板の記事で理解は進むのでしょう。どちらにしろ八木先生の弱さや「牧歌的構造」というか「甘えの構造」は事務局長問題が解決しても、ご当人がご自分の盲点に気づかない限り別の問題を発生させていた印象がしています。

  4. 八木氏論文の最初のほうに出てくる「第二ステージ」へ向けてという文句が気になる。種子島氏のビジネス感覚であったそうな。今、日本は体質が変わりつつある。一言で言えばアメリカ化である。保守層がそれにつられている。保守層が持つべき深い思想性が消えつつある。いや、もともと思想性がなかったのがあらわになってきたということであろう。そこに西尾氏のいらだちがあるのではないか。
     主義主張のうらには権力への意思ってものが隠れていたりする。人より上でありたい、人を出し抜きたい、とゆぅ権力意識が根方にあったりする。同じ主義主張の者が集まれば、そのうち、これが表にあらわれて権力闘争へと発展するのだ。懐疑の精神を持たぬ者には要注意だ。

  5. 藤岡氏がブログで、
    西尾先生が嘘をついていると書いていますが、
    許せません!

    神社右翼=日本会議が宮崎氏を雇ってくれと言い、
    つくる会を曳き回してきたことは
    紛れもない事実です!

    藤岡さんは西尾先生に謝罪してください!

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