坂本多加雄選集のこと(四)

 解説――恐るべき真実を言葉にする運命
 

坂本多加雄

 本書では、たとえば、日本でもっぱらドイツの良心を象徴するものとして称賛されるヴァイツゼッカー演説に関しても、ナチスの他民族への巨大な犯罪が、ドイツ人全体への復讐を招き寄せることを防止するために、懸命になって構築した論理の所産であることを指摘する。すなわち、ドイツの戦後処理の態度を、高潔な倫理観のあらわれというよりも、あくまで、そのしたたかな政治的意思の発顕として理解するのである。著者は、さらに、ドイツの日本に対する「悪意」にも言及しているのだが、そうした著者の姿勢に、「ドイツに見習え論」とは逆の、ドイツへの執拗な批判の意図を感じとる読者もあるかもしれない。

 しかし、著者の本意は、おそらくそこにはない。著者は、むしろ、日本が、ドイツを含めて西洋諸国に真に学ぶべきことを主張し、しかも、それは、「ドイツに見習え論」などが言うところとは、まったく別のことだと説くのである。その点は、著者が、本書で、西洋に「学ぶ」ことを、「崇拝」することから厳格に区別しながら、次のように述べていることに示されている。「われわれが学ぶべきは現実に対する西洋人の対応の仕方、リアリズム、自国民を守ろうとする生命力であって、その歴史観や戦争観などではない」と。言い換えれば、西洋の主張している個々の言説の内容を学ぶのではなく、そのような主張の背後にある精神の構えを学ぶべきだというのである。

 ところで、西洋人のそうした精神の構えの根幹にあるのは、いま引いた部分にある「生命力」に他ならない。ちなみに、「生きるため」とか「生きようとする意思」といった言葉は、著者の多くの文章に見られるものであるが、私たちは、ここで、著者が、ニーチェの専門的研究者であることを思い出すべきなのかもしれない。すなわち、著者の念頭にあるのは、個人や人間の集団が自らの生存を賭けて行動する姿勢には、外側からの安易な毀誉褒貶(きよほうへん)を超越するような、ある厳粛ななにものかがあるという認識であり、そして、このことをいささかも心に留めない言論は、どこか軽薄なものとなるという思いではないだろうか。

 著者の見るところ、ドイツの戦後処理の仕方にも、このような懸命に「生きよう」とする激しい意思が発顕しているのである。本書の意図が、世上の「ドイツに見習え論」を逆転して、単にドイツ批判を展開するところにあるのではないことも、以上のことを考慮すれば、自ずから了解されるであろう。

 さて、そうした見地から、改めて、日本の戦後処理の仕方を問題とするような議論を見てみると、そこには、当のそうした議論が全く自覚していないような、別の深刻な問題がうかがわれるように思われる。すなわちそうした議論は、自らの生き残りを賭けて行動しているドイツの姿の全貌に眼が届かず、ひとえに倫理的な模倣像のみを投影して、それに倣(なら)えと説いているのだが、実は、それは、今日の日本が、国家として「生きる」ということの切実さに対して、あまりの鈍感に陥ってしまっていることのあらわれではないのかということである。そして、それは、ひょっとすると、戦後の安楽な環境の中に置かれ続けてきたことで、日本自身の「生命力」が衰弱しつつあることを暗示しているのかもしれないのである。本書は、そのように訴えているように思われる。

 先にも述べたように、本書は、論争の書である。にもかかわらず、著者自身は、自分が、その文章の厳しい表現のはしばしから推測されるような「硬骨漢」ではないことを示唆する。確かに、「硬骨漢」といった言葉は、著者の言論人としての本領を充分に語るものではないかもしれない。それでは、著者の言論人としての活動を導いているものは何か。それは、おそらく、「なにものかに動かされたかのごとく、当時の世人の意に逆らう恐るべき真実を次々と言葉にするしかなかった『運命』」であろう。これは、著者自身がマキャヴェリと韓非を論じた文章の一節にみられる言葉である(『人生の価値について』新潮社)。本書は、そうした著者、西尾氏の「運命」から紡(つむ)ぎだされた貴重な一冊に他ならない。

(学習院大学教授)

年末のお知らせ

 あまり気のきかない話ですが、『江戸のダイナミズム』の事項索引の作成に年末までかゝり切りになり、私の手を離れたのは26日でした。担当の編集者はまだまだ作業がつづき、校了は年明けになるそうです。すべての作業が三冊分あるので、いつまでも身軽になれません。それでも、私はやっと年末に解放されました。

 そんな事情で今月は他にたいした仕事も出来ませんでしたが、店頭にはかろうじて三つほどお知らせするものが出ています。WiLL2月号の「無抵抗主義で国家も国民も自滅する」という評論が今月の新作です。

 『撃論』(西村幸祐・山野車輪責任編集オークラ出版)というコミックオピニオン誌が出はじめ、Vol.①で「日本はナチスと同罪か」と題し、私の論文の一部がマンガ化されています。

 関岡英之編『アメリカの日本改造計画』(イーストプレス)に私の今年の評論のひとつである「保守論壇を叱る」が「巻末特別収録」として再録されています。とても大事なテーマを語った一篇なので関岡氏の慧眼に感謝しています。

 日本文化チャンネル桜12月31日(日)夜8時~午前0時「日本の未来 アジアの未来――再び日本の核武装を語る――」に出演します。4時間討論のパネリストは黄文雄、田久保忠衛、西岡力、西部邁、西村真悟、平松茂雄、宮崎正弘の諸氏、それに私です。

 司会は水島総氏です。

 
 良いお年をお迎え下さい。

「坂本多加雄選集のこと(四)」への1件のフィードバック

  1. 坂本先生はさすがですね。西尾先生のドイツ批判、あるいはドイツの狡猾さへの批判が、実は根源的な意味での「日本批判」であるということを、実に的確に指摘されているんですね。もちろん、ここで言う「批判」は、自虐史観や戦後民主主義が安穏と繰り返す批判とは全く無縁なものです。批判が「悪口」に過ぎないとすれば、それは不毛な自己肯定にしかなりません。批判は、自分を育てるものでなければ、決して本質的にはなりえないんですね。私がどうしても保守的な言論を言う若い人達に不満が集ってきているのは、「批判」が自己肯定にしかならない、というニュアンスが増してきていることですね。確かにナチスのホロコーストの責任逸脱のしたたかさは厳しく指摘しなければならないし、日本とドイツの戦争責任の違いは指摘して指摘しすぎることはない。ですが、この「批判」が、自己を育てることと無縁なら、結局、飽食と曖昧な平和に埋没している自己を不毛に肯定しているだけ、ということになってしまいます。西尾先生の本を読めば、この類の不毛さを、いかに嫌悪されているかが深く理解されるはずです。しかし、大半の読者が、どうも浅い部分しか読みこまないで、「日本とドイツは違うのだ」という「批判」しか言わないようになってしまっているように思えてきます。
      ヨーロッパ批判が、ドイツに限らないヨーロッパの国々がもつ文化の形式の背後に、驚くほど生々しい、時として毒々しい生命力があることを、私達がいかに学んでこなかったのか、という自己「批判」に行き着かなければ、結局、「悪口」にしか過ぎないわけですね。ドイツのホロコーストにしても、ではドイツ以外の国がホロコーストとは無縁か、ということは全然いえない。かつて中世に早々とユダヤ人を追放虐待してきたイギリスや、おぞましい収容所国家を20世紀につくりあげてきた東欧・ソ連の各国家を少しでもみれば、私達が抱く「ヨーロッパ」が崇拝や模範ではなく、それをそう思い込んだ私達への「批判」にならなければならないわけですね。西尾先生が「全体主義の呪い」で、共産体制が解体した東欧で、共産体制と変わらないような「共産体制狩り」が行なわれていたり、あるいはナチス批判が「ナチス的」なニュアンスをもっている、という指摘に私は深く感銘しました。ヨーロッパの原像とは、そういうことにこそ、見出されなければならないのですね。「共産体制が終わった」「ナチスはおぞましい出来事だ」ということだけでは、何一つ私達を育てるヨーロッパ批判にはなりえないのですね。
      話のスケールをディティルにしても、たとえばカントの哲学書を、聖人君子の書としてありがたがって読む日本人がいまだに絶えませんが(と思えますが)、少しでも実感をこめて読めば、カントの哲学というものが、カント自身の厳しい人間観察・多くの思い込み・野心的な観念構築、そうした生々しい激しさをもっているある意味で、危険な書であるかがわかるります。危険な書であるからこそ、哲学書なんですね。アイヒマンが裁判で、「自分はカントの定言命法に従いユダヤ人を虐殺した」と言ったとき、日本人の多くは狂人の戯言と思いましたが、決してそんなことはない。ヨーロッパ人の哲学は、そういうギリギリの激しさのもとにある、そういうことを大半の日本人は未だに理解できない。ヴァイツゼッカー演説のしたたかさに気づかない日本人は、おそらくアイヒマンの言葉も理解できない日本人ではないか、と思います。そこには確かに、「生命力」としか言いようのないヨーロッパの原像があると思います。原像に気づくためには、自分を育てる「批判」を言わなければなりません。西尾先生や坂本先生がおっしゃる、「崇拝」でなく「真に学ぶ」ということは、こうした原像に気づかなければならないという、本当の意味での批判の必要性、ということなのではないか、と私は思います。 

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