管理人による出版記念会報告(四)

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 遠藤浩一氏の発言部分  (江戸のダイナミズムからの抜粋・朗読原稿)  

 遠藤でございます。書棚に置いていたと過去形で司会者が言われましたが、今も置いておりますので、お間違いのないように。どうぞ皆さん、右手のスクリーンをご注目ください。

(一)よく考えてみると過去において日本人が シナの学問で世界像を描き出し、西洋の物指しで世界を測定して生きてきた事実はいぜんとして残り、にわかに消え去るものではありません。

 日本人は自分というものを持っていないから かような体たらくに陥っているのでしょうか。今まで私はずっとそう思いこんできました。ところが、話はじつはひょっとして逆かもしれない、と、ふとあるとき、私の心にひらめくものがありました。日本人はある意味で秘かに自分に自信をもっている。自分を偏愛してさえいる。ただそれをあらわに自己表現しないだけだ。シナからであれ、西洋からであれ、外から入って来たものは外からのものであるとずっと意識していて、忘れることがない。日本人は外と内とを区別しつづけている。逆に言えば、「内なる自分」というものを終始意識しつづけているともいえるでしょう。

 いったいこの「自分」は何であるのか。日本人は自分がないのではなく、自分があり過ぎるからといってもいいのかもしれませんが、それも詭弁とされるなら、日本人は一面では自分を主張しないですむ、何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きているがゆえに、簡単に外から借りてきた西洋史や中国史でやり過ごしてきたのではないか。

 外国から借りて自分を組み立ててもなお自信を失わないで済む背景というものが昔から日本人にはあったのではないか、「何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」と言ったのはその意味ですが、それはいったい何か、というこの問いに生涯かけて立ち向かった思想家が、ほかでもない、本居宣長であったと私は秘かに考えているのであります。

(二)日本には「道があるからこそ道という言葉がなく、道という言葉はないけれども、道はあったのだ」に、宣長のすべてが言い尽くされているといっていいでしょう。

 しかしこの美徳は本来外へ主張する声を持たないはずです。言挙げしないことを、 むしろ原則とします。ところが宣長は原則を破り、このような日本人の道なき道を外へ向かって主張し、言挙げしようとしたのでした。

 「皇大御國」の一語をもって『古事記傳』の序「直毘霊」を始めた理由はそこにあると思います。自己主張を必要としたという点で彼は近代人なのです。さりとて、政治的偏向をもって宣長が非難されるたぐいの固定観念は、彼にはもともとありません。日本人のおおらかさ、言葉をもたない柔軟さ、道といわれなくてもちゃんと太古から具わっている道、宇宙の中の鷹揚とした生き方、自然に開かれ、自分の個我を小さく感じる崇敬と謙虚の念――こういったものを、野蛮な外の世界のさまざまなイデオロギーから、彼は守ろうとしたにすぎません。宣長の思想は最初から最後まで守勢的であり、防衛的です。

 さて、しかしさらに考えると、戦う意思を捨てて戦うというこうしたあり方は一つの矛盾であり、論理破綻ではないでしょうか。

立場なき立場こそが日本人の無私なる本来性であるなら、これを主張する立場というものを立てるのはおかしいのではないか、という疑問が生じます。

 言挙げしないという日本人の良さをあえて言挙げする根拠はどこにあるか。我を突っ張らない日本人の自我の調和をどうやって世界に向けて突っ張るのか。

 宣長の自己表現の激越さは、この矛盾、論理破綻そのものの自覚に由来するように思えます。そして現代の日本人がじつは世界人であろうとして直面しているさまざまな問題もここに関係していることを我々は直視しなくてはなりません。宣長の矛盾、論理破綻の自覚の共有は、われわれ現代日本人の課題でもあるのです。

(四)知るということの意味が富永仲基と荻生徂徠とでは決定的に異なります。そこに問題があります。

「知る」とは仲基にあってはすべての人間に開かれていなければなりません。客観的な目に見えるしるしであると同時に、万人に公開され、受け入れられることをもってはじめて「公徴」となるのです。仲基は開明主義的合理の人でした。

それに対し徂徠はまったく違う世界観の住人でした。彼は時間的にも、空間的にもはるかかけ離れ、隔絶した中華草昧の時代に絶対の「価値」を置き、そこへの復帰の理想は復帰の不可能の認識を伴っています。「古文を知る」と言いながら、じつは言葉の裏には知り得ない絶望を湛えています。その矛盾が仲基には見えません。徂徠が亡くなった年に仲基は十四歳で、宣長と秋成の間の『呵刈葭』のような討論本が可能でなかったのはとても残念です。

本居宣長と上田秋成との間、荻生徂徠と富永仲基との間には、それぞれ決定的に深い溝があり、どちらも歩み寄りが不可能な、世界観を異とする二つの別の精神態度といえるでしょう。

 興味深いのは、秋成は宣長の古代認識を批判し、否定する際に、仲基は徂徠の古代認識を批判し、否定する際に、いずれも「私」という語を投げつけていることです。今日のことばでいえば、主観に堕している、という非難になりましょう。あるべき客観的歴史認識を怠っているという批判になるでしょう。しかし宣長も徂徠も泰然として動ぜず、主観も客観もないですよ、そういうものに捉われて遠い、高いものへの理想を失った者は、万民向きの広い世界を見るという、そういう「私」に陥っているまでですよ、と言うでありましょう。

つづく

つづく

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