佐藤雅美氏
それではここで何人かのゲストの皆様からご挨拶を頂きます。トップバッターは発起人を代表しまして、直木賞作家の佐藤雅美(さとう・まさよし)さんでございます。
覚悟の人―小栗上野介忠順伝
佐藤 雅美 (2007/03)
岩波書店佐藤さんは『大君の通貨』で鮮烈のデビューをされまして、江戸時代の造詣が深く、また十日ほど前には『小栗上野介伝(おぐりこうずけのすけ)』を岩波から出版されました。五月からテレビ朝日のゴールデンアワー、午後7時より、佐藤さんの小説がテレビドラマ化されます。まさに売れっ子作家でございます。
それでは佐藤先生、お願い申し上げます。
佐藤雅美氏のご挨拶
今ご紹介いただいた佐藤と申します。私ごときが、また畑違いのものが、こんなところでご挨拶させていただくというのは、まことに恐れ多いのですが、ご指名いただきましたので、一、二分時間をとってご挨拶させていただきたいと思います。
この江戸のダイナミズムが『諸君!』に連載されていたときに、ふと、本当にふと目が留まりまして、一度、二度、多分三度は読んだと思います。それで、早く本にならないかなとずっと楽しみにしておりました。その間に、先生のことは私は一ファンで存知あげなかったのですが、ご紹介いただいて、先生と親しくさせていただくようになりました。それで、いつごろ本になるんですか、とずっと尻をたたいていたというか、そう催促しておりました。
昨年の暮れ、来年の何月ごろかに出ると決まって、いくらか私も文藝春秋の方と親しくしていただいておりますから、自分で書評をやらしてくれ、というふうに売り込みました。売り込んで、なかなか返事がいただけなくて、ちょっと心配だったのですが、二ヶ月くらいたって、やっとお願いしますという電話がかかってきたときには、嬉しかったです。
もちろんそっくり一から読み直しまして、直ぐ書き上げて、原稿を送って、それがおかげさまでここに収録されております。内容については私は門外漢ですので、あれこれ言える立場にもおりませんが、特に私が感服したというのは、ちょっとこのくだりですが、書評に書いた部分を読んでみます。
といって内容は類書にありがちな、二、三行も読むと瞼が塞がる無味乾燥なものではなく、そこには巧まずしてストーリーがあり、倦ませることなく飽きさせることなく展開していて、こういっては畏れ多いのだが文章もこなれていて読みやすく、またはっとするほど、小説家も顔負けするほど、表
現や比喩に天性の上手さ巧みさがある。
これが私が内容もさることながら、非常に感服して言いたかった点であります。先生はご存知のように当時は超難関高校の小石川高校から、もちろん超難関大学である東京大学に進まれておられますから、当然のことながら思想というそちらの方へ進まれたと思うのですけれど、もし先生が私らのように、私らのようにと言えば失礼なのですが、私のように並みの高校から並みの大学に進んでおられたら、学問の世界に進まれるということがなく、ひょっとしたら小説でも書いてみようか、などと思われたかもしれない。挑戦しておられたら、大作家になられておられたかもしれない、という風に思ってもみます。
そんなことで、いろいろと今度の本も改めて読ませていただいて、感服いたしました。なんでも先生によると、あと10年は仕事を続けるということです。お酒もとても強くて、がんがん飲まれる、お仕事もこれからもどんどん続けていかれて、いついつまでも何冊も何冊も本を出して、読ませていただきたいと思います。どうも失礼しました。
佐藤先生、ありがとうございました。
当日、佐藤先生の話を聞いていて、ながらく西尾先生に関して私が思っていたある問いが、佐藤先生なりに卒直に語られていることをとても面白く思いました。私の問いというのは「西尾先生は作家・小説家を目指そうとされたことは果たしてあるのだろうか」ということですね。
それは偉大な著述家に対しての冷やかし的な関心ということでは全くありません。佐藤先生が言われるように、西尾先生の表現の各所は、文学的にもたいへん巧妙です。小説的世界の人間関係の配置の妙が、概念関係の配置の妙へとそのまま平行移動しているかのような巧みなストーリーテラーの世界が、私にとって西尾先生の著述の魅力の第一に他なりません。このストーリーテラーの世界の始まりは、いったいどこで形成されたのだろう、という関心ですね。
私は大学生の頃、神田の古本屋街で文学書を読み漁り・買い漁りしていた時期があって、西尾先生が1970年代に書かれた「新潮」の二葉亭四迷論や「国文学」の小川国夫論を読んで、(その頃はまだおぼえたてだった)西尾幹二という人は何て頭のいい文芸評論家なんだろう、と驚嘆したことをおぼえています。論理的な精緻だけでなく、文学にとって最も大切な情感や愛情という文学の大地にしっかり足がついていて、驚嘆した同時に、これほど文学を精緻に見通せる人間が、文学の実践活動、端的にいえば小説・戯曲を書こうとされたことはなかったのだろうか、ということを感じて、ずっと頭の片隅にしまっていた問いのまま十数年がすぎて、それが佐藤先生のスピーチを聞いて、不意に蘇るのを感じました。
二次会・三次会と、先生が小説あるいは戯曲を書かれる人間になっていたらどんな作品を書いていたのだろう、と思いながら、つい酔いがまわり、もっと刺激的な話題に満ちて、「先生が作家になっていたら・・・」という問いを西尾先生本人にとうとう聞きそびれてしまい、すばらしいことだらけの一日で、その点だけが、ちょっと残念でした。