吉田敦彦氏のご挨拶(二)
19世紀の後半から20世紀の前半にかけてドイツで一つの頂点を極めた、ヴィラモヴィッツ=メレンドルフを代表者とする西洋古典文献学は、古典古代の事象を文化人類学に照らし解釈しようとした。フレーザーらいわゆる英国ケンブリッヂ学派の能率家揃いの学者たちの膨大な著作などには、傲然として一顧も与えずに、原典の厳密な本文校訂を達成した。
だが、一見すると「古代ギリシァのことは、あくまで古代ギリシァ語で」という、禁欲的な立場を見事に貫徹したように見えるヴィラモヴィッツ流のこの文献学は、西尾氏が「現代市民風の健全かつ凡庸な理性」(100頁)と喝破される、宣長の言う「後の世の意」を持って、古代ギリシアのことに終始対していた。それでその理性の常識ではそもそも、捕らえられようはずの無かった、明るい文明の表層の奥にある神秘と非合理の深層の把握がまったく欠落しているという、西尾氏が「想像を絶する一撃」と呼ばれる批判の痛打を、ニーチェから浴びせられることになった。
他方で聖書解釈学の方は今や、西尾氏が「われわれはイエスが実際に語ったこと、本当に行なったことに、解釈学の研鑽を重ねることによって、いったいほんの少しでも正確に近づくことになるのでしょうか。それとも相対化された不可知論の空虚の中に、すべてが放り出されたままに終るのでしょうか」(104頁)と述べられて表明された、懸念のまさにその通りの袋小路に入り込む結果に立ち至っていると思われる。
そのへんのことはたとえば、斯学のわが国における第一人者で世界的にも権威であられる、A氏の主著の一つを評して、門外漢だがきわめて慧眼のN氏がいみじくも、「猿がらっきょうの皮をせっせと剥いて行ったら、実が出てこなかったという本」と断じられた、至言に照らしても明らかであろう。
つづくつづく