管理人による出版記念会報告(九)

 
吉田敦彦氏のご挨拶(三)

 西洋で文献学が犯す破目になった、このような近代の理性の物差しを当て嵌めて見ることで、古代の真実を卑小化したり、雲散霧消させてしまう誤りに陥ることを、『古事記伝』で宣長は、彼が「いささかもさかしらを加えずて、古より云傳えるままに記されたれば、その意も事も言も相稱て、皆上代の實なり」と言う、『古事記』に記された「上代の實」に、後の代の意、さかしらによる批判を加えることを断固として拒否することで、すでに先んじて18世紀に回避していた。

 その『古事記伝』のことを西尾氏は、「宣長の『古事記伝』は形而上学的衝動と言語科学的分析が両翼となって、当時の日本においてもなにか説明のできない、人知を超えた巨魁のようなものを露呈されました」(254~255頁)と言われる。『古事記』が露呈させたと西尾氏が言われるこの「なにか説明のできない、人知を超えた巨魁のようなもの」は明らかに、ニーチェが「ディオニュソス的なもの(das Dionysische)と名づけたものに対応する。

 つまり宣長は、西尾氏が『古事記伝』の両翼と言われる一方の翼の言語学的分析で、ヴィラモヴィッツ・メレンドルフに比肩すると同時に、他方の翼の神話的始原を志向して止まぬ形而上学的衝動では、それに批判の痛撃を加えることになるニーチェの卓見もすでに先取りしていた。西尾氏の大著を繙く者は、そのことをまざまざと感知させられ、それによって宣長の卓抜した偉大さに、あらためて心の底からの強い感銘を覚えさせられる。

 宣長の『古事記伝』の価値をわれわれ日本人にとって、どういう価値を持つか、それがわれわれに一番大切なことであるわけですが、世界の思想史の中でも非常にユニークなものであるということを極めて見事に、博覧強記をもって明らかにしてくださった。

 そういうことで、この本はいわば現代の学問の一つの頂点を極められた大作ではないかと私は感動をもって受け止めさせていただきました。西尾先生にそのことを、心より感謝申し上げたいと思います。

 吉田先生、ありがとうございました。

 上記の吉田先生のお話は、この日の為の原稿と、実際にお話になったテープを元に再現している。原稿の方がかっちりとしているが、当日の話し言葉のほうが、私にはやはりよりわかりやすいような気がした。

 内容を読まれてお分かりのように、出版記念会での来賓のご挨拶なのに、まるで吉田先生のミニ講演会のようであった。

 吉田先生といえば、神話については本当に大変権威ある先生でいらっしゃる。出版記念会に出席し、直にご挨拶いただいたことは、西尾先生にとっても、大変名誉なことではないだろうか。(文・長谷川)

つづく

「管理人による出版記念会報告(九)」への2件のフィードバック

  1. 当日のパーティー参加者には吉田先生の読者が想像していた以上に多く、挨拶された諸先生の中で一番、読者が多いのではないだろうか、と思えるくらい、あちこちで、「今日は吉田先生が挨拶されるんだ」という声が聞こえてきました。
      
     私にとって神話解釈というのは、気にせず通り過ぎようとすると何となく気になってしまいどうしようもなくなり、逆に集中しすぎると現実がみえなくなってしまう、まことに厄介なものでした。レヴィ・ストロースの構造主義的、あるいは記号解析的な神話解釈は私の頭が追いつかず、フロイトの神話解釈は新たな神話つくりにしか思えない、そんな私のジレンマの中で、吉田先生の本はたいへん明晰な形で私に神話解釈の世界を与えてくれるものでした。
     
     ロラン・バルトに、「神話とは語源そのものであり言葉そのものである」というくだりがあったと記憶しますが、つまり、言葉・語源と言い換えていいような、私達が生きている現実世界の根幹をあますことろなく説明してくれるものとしての神話解釈の世界が吉田先生の著作の最大の魅力です。日本神話の造化三神から「無為の中心」を、さらにそこから日本人の和の精神を説明されたり、あるいはアマテラスの忍耐強い性格に、世界の皇室・王室でほとんど唯一とさえいえる日本の皇室の伝統的な温和な性格の起源を明らかにされる。吉田先生の神話解釈はバルトの言葉に忠実に、常に現実を説明してくれるもので、ゆえに多数の読者を獲得しえている、ということができるのではないでしょうか。

      ポストモダン思想ブーム華やかりしころ、私は大学生になりたてでしたが、ニューアカデミズムブームに乗る学生達の多くはは中沢新一さんや山口昌男さんたち「流行」の神話解釈モデルに乗っかって、吉田先生を読む私を「地味」呼ばわりしていたことを思い出します。私は意地になってでも「吉田派」でなんだか自民党の派閥みたいでしたが(笑)私に言わせれば、現在や自分にかかわりを持たない神話解釈学はどうでもよくて、日本人の素朴な表情を説明してくれるものはどうしても吉田先生の著作の方であり、神話と現実を橋渡しし「過去を行為」しようとする学問的精神のいったい何処が「地味」なのか、と何度も思ったことを憶えています。

      記念会の後何日かして、吉田先生の本を斜め読みしていて、「崇めることは、これはもう人間がそれなくしておそらく生きていくことができない、人間の文化が成り立ちえないような肝心なことであると思うわけです」(「神話のはなし」)というかつて読んだ一節をみつけました。これは吉田先生の当日のスピーチの内容に、意外なほど近い内容ではないかな、と思いました。つまり、ニーチェの文献学批判や、宣長の解釈方法に近いお考え、ということですね。今から考えれば、吉田先生の方がニーチェや宣長のある意味での激しい精神に近く、逆に流行理論をもてあそんでいた私の知己の方が、ニーチェや宣長の批判対象になるような硬直性をもっていたのではないかな、と、私は思います。

  2. 江戸のダイナミズム、読みました。今日図書館に返しますが、私のような漫画屋には難解でした。この本はどんな人に読んでもらおうと思って書かれたのか、考えてしまいました。ダイナミズムというからには、もっと題材を限定した史劇的な内容かと思いました。司馬遷の史記みたいにね。ちょっとガッカリ。でも空想を禁じたんですね。納得。

     しかし江戸時代って長かったんですよね。江戸の何のダイナミズムなのか。ダイナミズムって哲学用語ですか。題名と内容が合っていないと思います。江戸時代は中世暗黒時代ではなくて、支那からの学問が成熟して日本独自の学問が成立したことを強調したかったのかなあ。シナリオで言う起承転結の転の部分がいまいち見えない。でも、筆者が白文に挑戦したことは素晴らしいと思います。

     最後に、この内容であれば、この本一冊では完了しないと思います。江戸のダイナミズム1~3巻までないと。シュペングラーだって西洋の没落を2巻本で書いたではありませんか。

    では、またね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です