現在西尾先生の筆による、日録は休載しています。お知らせ参照のこと。
西尾先生の許可を得て、秀逸なコメントをエントリーとして挙げていきます。
渡辺 望 年齢(34歳、1972年生まれ)坦々塾会員、最終学歴(早稲田大学大学院法学研究科終了)
前半部分、本居宣長のところの少し前まで、読ませていただきました。私なりの考えでは本居宣長論の部分が本著のクライマックスと思いますので、まずはそれ以前の部分に関して、考えた感想を記したいと思います。
非常に面白いと思ったのは、荻生徂徠に関しての評価の部分です。「なりきる」と「かぶれる」ことは思想実践において全然違うのだ、ということですね。徂徠は気が触れたかと思われるくらい、異常なほどに中国の儒学世界に接近した。これを「かぶれる」ことと評価する人間が多いのですが、しかしこの異常な接近はどうも「なりきる」ことだったようです。「なりきる」ということは、実はギリギリの追求地点において「なりきれない」ことを知ることですね。徂徠は訓読み否定運動などを通じて、「儒学を身につける」とは何か、ということをほとんど死にもの狂いで追求したのだ、ということが西尾先生の指摘からよく伝わってきました。
多くの儒教専門家が指摘するように、儒教は本来、中国の伝統的社会構造と密接なもので、他国人がそう易々と受容できるものではない。徂徠の知的冒険というのは、裏返しの意味において、そうした儒教の性格を伝えるものであったわけです。それを指摘ということにとどめず、ニーチェのギリシア文献理解と鮮やかに対比展開するところが、さすがというか、「西尾学」の「ダイナミズム」ですね(笑)。和・漢・洋を読みこなす人でなければ日本人の自画像は描けないのだ、と私は日頃から思いますが、西尾先生はその一人だということを改めて感じる著作なのだな、と私は思いました。
文献学と歴史学の相違という冒頭近くの指摘は、気づいているようで、なかなか私たちが意識的になれないことです。徂徠をはじめ、数々の文献学者を筆致豊かに語られる前半部分の中で、私が思い浮かべたのは、私たちの実際の生き方の中で、「文献学」的な生き方と、「歴史学的」な生き方ということが、いろいろと混在しているんだろうなあ、ということです。どちらが優劣ということではないのですが、私自身は文学や思想書を、時間蓄積的に読むことをあまり好まない人間で、テキスト自体の不安定さとの直接対決を読書の本質と考える人間です。「歴史学的」な視点が強すぎると、何でもかんでも理解して、実は何も理解していないということが起こりうると思うのです。もちろん、これは文献学や歴史学そのものの評価とは別のことですけれど。
西尾先生がかつての著作で、(世界観が全く異なる)ガブリエル・マルセルとサルトルを平然と並行して語れる学者というのはおかしい、といわれていたと思いますが、こういう理解は、私からしてみると、過剰に「歴史学的」なのです。そう考えると、江戸期におけるわが国の文献学評価を通じて歴史評価を再考するという西尾先生の知的戦略はなかなか面白いものであるように私には思われます。