江戸のダイナミズムに寄せて(十一)

江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋
西尾 幹二 (2007/01)
文藝春秋

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guestbunner2.gif渡辺 望 34歳(1972年生まれ)坦々塾会員、早稲田大学大学院法学研究科終了
 
 西尾先生の画像説明にあわせて、再び、「江戸のダイナミズム」をゆっくり読みはじめています。読書というのは忙しく読んだ一度目に比べ、二度目、三度目と速度を落として読むと、いろんなことが思い浮かんできて、自分でも驚くくらいなのですが、主に顧炎武たち考証学者のことについて論じられている、日本人は自由すぎて「自由」を知らない、というくだりを読んでいるとき、不意に私は、三島由紀夫や坂口安吾の「本土決戦」論を思い浮かべました。

   三島や坂口は、日本は終戦の時点で、本土決戦という破滅的選択をするべきだった、というような逆説を繰り返し言っています。かつて三島や坂口の言説を読んで、私は終戦工作に奔走した鈴木貫太郎をはじめとする人達の物語を日本の政治史でもっとも美しい物語として考えているせいもあって、何をぬかすか、と感情的に反発したくなりました。しかし三島や坂口の考えというのは、私の感情的反発と別の次元で、私達が受け止めていかなければならない指摘なのだ、と最近は段々と思いを修正するに至っています。  

 原理主義の不自由があってこそ「自由」の意味を知ることができる、という意味において、日本人は「自由」を知らないのだ、という西尾先生の指摘は、異民族支配や宗教上のタブーを知らない、という別のところでの先生の指摘と同一のものです。私達は「原理主義」というと宗教や教条的学問を思い浮かべがちですが、異民族支配もまた、すさまじいほどの「原理主義」である、ということがいえましょう。  

 本土決戦を行えば、完全な焦土と完全な敗戦という「悲劇」が間違いないのは当然として、国土分割さらには皇室の存続の危機という破滅的事態の先に、少なくとも「北日本」へのソビエトの衛星国化・異民族支配という日本民族最大の「悲劇」が待ち受けていたのは明らかで、アメリカ側にしても、「南日本」への、現実の戦後日本に数倍するアメリカ化の原理主義の洗脳行為をおこなったのは間違いありません。日本人の幸運は昭和天皇の聖断や鈴木貫太郎たち賢人の奔走でそれを避けられたことにあることは間違いないのですが、しかし長所が短所に裏返るのと同様、最大の幸運は最大の不運に裏返るのですね。 

 坂口は戦後直後のなし崩しのアメリカ化を「自由」と勘違いする日本人の多くのあまりの浅さに、激しい懐疑を抱いていたに違いありません。また三島が、1960年代以降の日本人の、精神崩壊にすら意識的でなくなってしまった精神崩壊に、日本人の「自由」の認識のあまりの脆さにあきれ果てていたのは周知の通りです。だからこそ坂口や三島は、逆説的な歴史論として、「本土決戦をするべきだった」ということをいうわけで、私は「思想としての本土決戦」という主題が、日本人の「自由」の問題を考える上で存在するのではないだろうか、というふうにいつも考えています。

つづく

「江戸のダイナミズムに寄せて(十一)」への1件のフィードバック

  1. 『地球日本史』(西尾幹二責任編集)の第8章183ページに「フィリップ二世は大審問間のモデル」という節がありまして、
    いわゆるキリスト教の傲慢さを述べた訓が解りやすく書かれています。
    この本は歴史に纏わる文献ですから、本来なら史実を解りやすく読者に提供するニュアンスが、一般的にはもとめられるのでしょうが、残念ながらエントリーされている方々の文面には、そんな生易しい配慮はありません。とにかくどの章においても、いわゆる生温い歴史感は感じさせません。特に西尾先生の章は全てに於いて『挑戦的』な文体があります。
    8章では、キリスト教の原理主義に着目し、この宗教がいかに『自由』の束縛を先頭切って実在しているかを解説しています。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を皮切りに、シラーの『ドン・カルロス』などもまじえて、当時のスペインの主が、いかに自由の悲劇を演じているかを解いています。
    私は西尾先生のこうした鋭い着眼点が勿論好きですが、西尾先生の場合、必ず自身の着眼点の起因を説明し、その専門家の方からの説明を表現し、さらにそこに独自の想像活力とでも言えば良いのでしょうか、説明を与えた側に、おそらく唸り声が出るほどの、思想としての大きな窓を提供してくださるわけです。
    『自由』がいかに不自由かを知っているキリスト教という宗教を題材に、この本は対比して当時の日本の賢さを語ります。
    その代表的な人物が豊臣秀吉であり、なんと秀吉とフィリップ二世は五日と違わずに、1598年の9月に薨去(こうきょ)します。
    三島幸夫が今の法律の矛盾をついた作品もあります。14歳の若者が人殺しを計画し、それでも法律上罰せられない法律の弱さに盾突く作品も、いわゆる『自由』の悲劇の側面を語っています。
    因みに作品のなかから文章を抜粋してみます。

    引用開始

    「カトリックという宗教組織は人間への愛の背後に、人間への果てしない侮蔑の感情を蔵しているからかもしれない。そして、人間は自由を欲するよりも支配されることを欲する存在だということをとことん知り尽くし統治の哲学を具えている。その秘儀を知った権力者は、地上すべての人間を支配し、ローマ教皇自らが神になる自由にも耐えられるというニヒリズムを平然と体現し、駆使したのではないか。

    引用終わり

    つまり、人間は何かに縋る定めを生まれながらにして持ち、それを支配するキリスト教は現代のナチスやスターリンに繋がると解くわけです。
    実に着眼点が鋭く、しかも読み手の内面感情を洞察仕切った文体が綴られています。
    しかし、その事よりも、西尾先生の場合は、間違いなく相手の土俵に足を踏み入れる姿勢があるという点が素晴らしいわけです。闘いを惜しまない姿勢と度胸が、基礎中の基礎なのでしょう。

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