小冊子紹介(二)

 
 以下は『江戸のダイナミズム』からの抜粋文(一)~(十四)のうち、遠藤浩一さんにより朗読されたもの〔管理人による出版記念会報告(四) (五) 〕を省いたものです。

(文・長谷川)

 抜粋集『江戸のダイナミズム』の中から、ポイントをなす幾つかの文章を抜き出します。(出版記念会事務局)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(三)

 『大鏡』『愚管抄』『神皇正統記』・・・・これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇譜がまっすぐにつながっている歴史観の前提の上に展開されています。天皇譜と神話の神々の世界は一直線につながっている。つまり日本の天皇制度は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結しているのです。

 江戸時代の終わりまでの日本人は、他の世界の神話を知りませんでしたから、自分の神話だけを信じていればよかった。西洋的な比較神話学が導入されることによって、古伝承として神話を愛し守ってきた人々にはまったく知らない世界が目の前に突如として開かれてしまった。その結果、日本人が永年にわたって神話を信じ愛してきた観点は、新しい学問によって切り捨てられてしまった。

 神話は学問化されないなにものかであり、天皇の存在とつながった信仰の対象のはずでした。

 ここで厄介なのは、今日では神話を一所懸命尊重し、研究し、守ろうとしてくれているのは科学的な方法論をもっている神話学者たちのほかにはほとんどいないということです。しかし、これらわれわれの時代の学者たちと、『大鏡』『愚管抄』『神皇正統記』を読んで自分たちの国を「神と仏の国」と信じていた日本人、この両者が神話の中にそれぞれまったく違うものを見ているという事実ほど面倒な逆説はありません。

 西洋的神話の研究では、どんなに神話を好意的に研究しても、神話を歴史的に比較し、その神秘感を奪い、魅力を薄める動きと一つになってしまうという、とてもおかしなことが起こっているのです。神話学は西洋で生まれ、発達してきた学問です。日本でも、西洋でも、近代の学問というものは、元来破壊的な性格をもっている。学問は信仰を破壊する。(259~260ページ)

『江戸のダイナミズム』抜粋文(五)

 私は伝説や神話を排除したところから歴史が始まるとは考えていません。両者の間の境界はがんらい不明確であり、文字記録による歴史が始まった後にも、口承伝達は存在し、歴史と思われるものの中にも、伝説や神話は混在しています(中略)。

 孔子が近代実証史家と同じ価値観で、「怪力乱神」を嫌ったことなどと、貝塚茂樹の言っているようなことが果たして信じられるでしょうか。

 神話と歴史の関係において孔子の果たした役割はきわめて不分明で、謎めいていて、だからこそ多くの研究家はこの点に関しては寡黙なのです。孔子の責任がどこまで問えるかは分らないからです。しかしそれにしても、彼が三皇五帝の伝説を歴史に取り入れることをせず、動機は何であれ、歴史に境い目のラインを引いたことは紛れもありません。

 もしも伝説や神話のままにしておけば真実がより保証されたのに、これを歴史化し、かえって歴史の神話性を深めてしまったといえないこともありません。(304ページ)

つづく

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