「株式日記と経済展望」からの書評(一)

現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
 
 今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た

書評 / 2007年07月09日

日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来た
のであり、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしている。西尾幹二

2007年7月9日 月曜日

◆江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋 西尾幹二(著)

 ヨーロッパというものの正体が何であったか、今にしてわれわれにはやっと分るわけですが、どうやって江戸時代の日本人にそれが分ったでありましょうか。しかし本能的になにかが分っていたのかもしれない。家康だけではなく先立つ秀吉にも分っていた。日本人の知恵、直感が働いていた。だからキリシタンの拒絶と、ポルトガル、スペイン船を近づけないという蛮族打払いの政策を実行することが可能であったわけでしょう。

 まあ、それはともかくとして、先の引用からも、ヨーロッパにだって未来は見えていなかったということを申し上げておきたい。

◆聖書と神道

 江戸の日本はヨーロッパをほんの少し知っていたけれど、しかしながらそれとは無関係に、自分の独自の価値観念を、閉ざされた江戸の空間のなかで追求していたのです。ヨーロッパも自らがどこへ向かうか分っていないと今申し上げましたが、日本は日本で、ヨーロッパはヨーロッパで、それぞれが独自の道を歩んでいたのであります。

 いいでしょうか、読者の皆さん。江戸時代は明治のための手段ではありません。それがまず最初に言いたかったことであります。

 明るい近代的なもののイメージを江戸時代に投影して、江戸を「初期近代」と呼ぶのも、みんな西洋からきた観念です。江戸を初期近代と言うといって、英語の研究書の中にそういうことが書かれてあるものだから、最近日本の国史学者たちは一部で、ああ、アメリカ人がそう言っている、イギリス人がそう言っていると慌てて近世の概念を疑うとか言いだしたり、江戸時代は初期近代だと言ったりしていますが、遅いんですよ。

 やっとそのレベルのことを言いだしていますが、遅いんです。遅いというのは、私はその逆を今言っているからです。つまり、江戸時代は近代明治のための手段ではなかった、と。江戸時代の人は明治を目的にして生きていたわけではない。

 徳川体制が壊れて、再び「朝廷の時代」がやってくるとは、江戸の人たちは想像だにしなかった。幕末になるまで、誰も考えていなかった。その時代にはその時代に閉ざされた特有の価値観があると、ランケが言いました。「各時代には各時代に特有の神がある」と。われわれは江戸時代を「近代的なるもの」の実現のプロセスの目盛りの程度で解くようなことをやめましょう。江戸の人が生きた、閉ざされた固有の価値観の内部でこれを評価しなくてはなりません。そこで第三の命題です。

 日本における「近代的なるもの」は日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、場合によっては西洋史よりも早く姿を現わしているということ、そしてそれが先進的であるのは西洋の場合と同様に深く自らの過去の歴史に遡って、そこから養分を取り、そこへ戻り、そこをばねとしていること、そしてまた各時代の閉ざされた固有の内部の価値観を通じて確立されていったということであります。

 それならその閉ざされた江戸の空間の固有の内部での価値観とは何か。一口で申しますが、それはとりあえずはまず儒教であります。室町から戦国時代にかけて成立したいわゆる神の国この神の国はいつごろできたかと正確にいうのは難しいけれども、江戸時代になると、ここに明らかに儒教が入ってまいりまして、この国のかたち、まとまりといったものを考えだす。儒教が日本という国のまとまりを初めて自覚するきっかけになるのです。

 ここでいう”儒教”とは、もとより西洋とは無関係であり、また中国の儒教とは現われ方が違うものでありまして、日本的な儒教でありますが、しかしながら儒教は儒教ですから、おしなべて中国研究であることには変わりはないのであります。そこらへんが非常に難しいのですが、同時代の中国では考えられないような方向へ日本の儒教は展開し、そこでは予想外に巨大なスケールの仕事がなされたのであります。

 日本という国は、いつどのようにして、この国の国家的まとまり、国のかたちというものを自覚するようになったのでしょうか。通例は江戸の儒教とは関わりなく、元寇のときに、北条時宗の鶴の一声でまとまり、あれが神の国の始まりだという説もありますが、すると平安時代のいわゆる国風文化はどう考えたらよいのでしょうか。ともあれ、神の国の自己認識がいつ始まったか、文献学的に議論しても仕方がありません。そうではなく、私どもによく知られている明らかないくつかの道標を思い出してみましょう。

 例えぱ、豊臣秀吉は、スペインのフィリピン総督に宛てた手紙で、日本は神の国だからバテレンの布教はまかりならぬと応答しております。さらに秀吉は、日本で初めて自ら求めて神社に祀られるこおくとを希望し、日本で最初に「神」となり、朝廷からは「豊国大明神」の号を贈られております。家康も自ら神になることを求め、日光東照宮において「権現様」となっている。どうも神の国は、戦国から江戸にかけてのこの前後ですでに確立していることは間違いがないようです。

 今、「明神」とか「権現」という言葉を申しましたけれども、本来的には神道は偶像を持たないものです。が、神仏習合という仏教の影響であの美しい仏像彫刻を見せつけられているうちに、神道のほうでも明神様とか、権現様とかやってみようということでそうなったようです。これは、仏教が神道に与乏た影響です。

 江戸の二百五十年のこの国の枠、国のまとまり、それをつくったのは、秀吉と家康の知恵です。秀吉がバテレンの禁止と中華秩序からの離脱を実行した。中国何するものぞという、秀吉の態度をそのまま、そっくり内向きに引き受けたのが、二百五十年間の江戸幕藩体制の外交政策です。

 この方針を決定したのは、精神的には神の国を言っているけれども、実は神道でもなければ、仏教でもなく、中国研究でもあったところの儒教であったという逆説を申し上げなければならないのであります。というよりも神道と合体した儒教というか、垂加神道というふうな名前で呼ぱれるものです。日本には、「外来の思想を厚化粧のごとくまとった神道」と「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」との二種類があります。

 「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうが、どちらかというと純粋な神道で、「外来の思想を厚化粧の、ことくまとった神道」は複合したものということなのですが、私の直感では、日本の歴史に二度大きな宗教が外から入ってきています。古代に仏教が先ず入ってきた。儒教も入ってきていますが、影響力はまだそれほど大きくない。そうして次に、室町時代以降に儒教、つまり朱子学が流入しています。

 その「外来の思想を厚化粧の.ことくまとった神道」は、最初は「本地垂迹の思想」という。垂迹というのは仏が本地、仏教が本体で、神としてそこに現われるというものであります。つまり両部神道といいまして、仏教と習合したということですが、やがてそれに対する反発が起こりまして、「化粧を落して神道本来の裸形に近くなった神道」のほうへ行く。これが、本来の神道であり、伊勢神道、または度会神道とも言いますが、反本地垂迹思想です。

 つまり仏教から脱するということで、神様が、本体で仏教がむしろ垂迹なんですから、仏教が外に現われるということになる。.神様が本体で仏教が外に現われる。いや、反本地垂迹といっても、脱仏教といっても、仏教を完全に離れるのではなくて、要するに薄くなるだけです。

 室町時代になりますと、こんどは道教、儒教、仏教合わせて全部一緒にしたごた混ぜのものになる。ある人に言わしめると、「錦織りの綴れ織りを鎧に纏ったような神道」となる。ここに「吉田神道」という巨大な伝統を持つ神道が生まれます。これもやはり反本地垂迹思想で、神が本体ということになる。ただ、神が本体であっても、ごたごた、こたといろんなものを身に纏っておりますので、こんどはそれを否定する、脱吉田神道が出てくる。再び、伊勢神道がもう一度、吉田神道の厚化粧を脱ぎ捨てて登場してくる。

 そこへ朱子学がどっと入ってまいります。そうしますと朱子学と神道がくっつきまして、それは林羅山、山崎闇齋などが代表する、儒教と習合した「垂加神道」や「理当心地神道」が生まれてくる。これらに対してしぱらく経ってから、いや、こんどは儒教も仏教もだめだ、『古事記』の神話に立ち戻れと言ったのが本居宣長の「古学神道」ということになります。彼の弟子の平田篤胤は、厚化粧のほうに回り、幕末になってキリスト教と習合するというおかしな話になってしまう。もっとも宣長も「聖書」を読んでいたという説もあることはあるので、キリスト教の影響もあったかもしれません。

 明治になると、厚化粧の神道は「国家神道」に向かい、戦後の神道は、憲法の規定などによって、存在するための根拠を失い、薄化粧というか、可哀相な神道となってしまった。森喜朗元首相の「神の国」発言でぐらつくほど頼りなくなっている。なぜそうなったかというと、たった一人、津田左右吉という人物が現われただけで、そうなってしまった。

 別に、津田左右吉が悪いのではなくて、自然科学というものに対して神道は防衛力を持っていなかったためでしょう。日本の神遺は何にでもまといついて、何にでも自然なかたちで習合する思想ですけれども、自已の存立のために戦う理論武装が弱く、本格的に思想家として自己防衛をしたのは本居宣長一人であったのではないかと思われます。

 過日、中西輝政氏と対談して、『日本文明の主張』という本を出しました。この中で、中西氏が、キリスト教にはたくさんの護教論(教義を護る議論)があるのに、日本の神道を守ろうとしたのは本居宣長一人だけだった、だから神道は脆いんだという指摘をなさいました。それはそうだと私も合点し、次のように付言しました。ヨーロッパの思想は、アンチクリストの思想まで実は「護教論」なんです。

 ドストエフスキーの『罪と罰』、二ーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』はみんなアンチクリストの流れですが、これらとても、結局は「聖書」のパロディです。カントの『純粋理性批判』は、自然科学を基礎づける書であると一方では言っていいわけですが、実は「信仰の領域」と「自然科学の領域」は別物だと指摘し、信仰の領域を守ろうとしている。

 そういう意味ではカントの『純粋理性批判』も「聖書」のパロディかもしれない、とあえて言ってみたくなるのが西洋の宗教世界なのです。何を論じても全部「護教論」に通ずるものすごい世界なのです。それに比べると、目本の神道には防衡思想があまりにもないということは認めざるを得ません。

西尾幹二『江戸のダイナミズム』より

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