現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、許可を得て、管理人(長谷川)が西尾先生関連のエントリーを挙げています。
今回は、ブログ「株式日記と経済展望」から、西尾先生の本の書評を、許可を得て転載します。最初は「江戸のダイナミズム」についての書評ですが、本の引用が長いので三回に分けて、転載します。(一)からお読み下さい。
◆仏教の堕落
江戸時代になって日本の国のかたちを意識させたのは、先述のとおり儒教でした。しかしその儒教を背後からささえたのは神道でした。通例は神仏儒のイデオロギーの連合が強く出ているというふうに言われ、神仏は一体で祀られていましたけれども、しかしながら日本の国の全体の統一のまとまりを意識させたのは儒教だということを、今私はこれから少し説明します。
神道は単一体としてみれば、江戸時代に入ると旗色が悪くなる。それはなんといっても天皇家と結びついておりますから、神道が盛んになると幕府の存在がそれだけ相対化されます。時の幕府からは疎んじられていました。一方、仏教は国教化して、幕府に保護される。幕府はとにかく一向一撲もいやだったし、もう坊主どもやキリシタンが荒れ狂ったら手に負えないのを知っていたので、宗教をいかにして自分たちの保護監督下に置いて管理するかということに力を入れた。政治の知恵ですが、それ故に保護された仏教は堕落します。
たとえば檀家制度は民衆をお寺の管理下にくり入れるものであり、本末制度はお寺を本寺と末寺に分けて、住職の任命権を本山に限定するなどの制度ですが、どこまでも幕府がお寺を管理する制度です。これで政治による宗教の序列化がはっきりしましたが、ただ民衆の立場から言いますと、十六世紀まではろくなお弔いもしてもらえなかった。
偉い人たちはちゃんとお墓も持てたけど、庶民にはお墓もなかった。ですけれども江戸時代になると、とにかくいろんなことが現在のわれわれの生活に近くなってきて、庶民もまたお弔いをしてもらえるし、戒名が頂戴できるようになった。これはありがたいことであって、広い意味での庶民の救いにつながづたと考えることはもちろんできるだろうと思います。
お寺が民衆の日常の救いの場となり、ともあれ仏教が国民的宗教とレて確立した。現在残っているお寺の九〇パーセントは十六世紀、十七世紀の二百年問に創立されたと言われております。そのうち約八○パーセントは寛永二十年(一六四三年)までに成立しているということです。
江戸学者の尾藤正英氏が、この事実からすれぱいわゆる本寺、末寺の制度などとか、あるいはまた檀家制度などというものは、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立し、江戸幕府はただそれを政治的に利用しただけであったと見るのが妥当であろうと、大変お寺さんに好意的な評価を下しています。そういう一面もたしかにあったと思いますが、お寺が庶民にとってありがたい一方の存在であったかどうかはまた別の問題です。
というのは、お寺は、庶民に対してキリシタンでないことの証明をするかわりに、次々と彼らからカネを巻き上げるなどのことが多かった。庶民はそんな体質にウンザリして、お祈りの場としては山伏や占い師だとかに救いを求め、必ずしも仏教寺院を頼りにしないようになってしまった。つまり現在と同じような「葬式仏教」に堕ちてしまったのは事実のようであります。
なにしろ葬式を行う資格は、幕府によってお寺にのみ与えられたために、当然お寺は傲慢になり堕落します。民衆は民衆で、お寺とはべつのところの信仰に走る。姓名判断とか、家相を見るとか、お祓い、お浄めとか、陰陽道だとかが盛んになります。これは現代にまでずっと続いている民衆宗教の流れです。今と変わらない同じ構造ですね。江戸時代の民衆の心のかたちは現在とあまり変化がないと私は見ています。現代の仏教不信は、むしろ江戸時代に始まっている。
だから神仏分離が明治の初期に行われたときに、廃仏段釈(仏像破壊)が起こりましたが、政治的弾圧ということだけでは説明できません。政府の関与があったにせよ、民衆自らが率先して協力した側面もあったわけです。それだけ、お寺が憎まれていたということでしょう。(P30~P38)
西尾幹二『江戸のダイナミズム』より