非公開:私の29歳の評論と72歳のその朗読

 「花田紀凱ザ・インタビュー」というテレビ番組の再放送が本日23日(日)の午後7:00から8:00の時間帯にあり、私が出演します。

 TOKYO MXテレビ14の放送で、普通テレビ受像機では9チャンネルです。東京以外に電波がうまく届くのかどうか私は知らないのです。

 新聞をみると、少し羞しいのですが、「ザ・インタビュー(再)『これから成すべきこと』72歳論壇の雄・西尾幹二が明かす今後の計画」と書かれています。

 私が一般地上波テレビに出演することは滅多にないので、私の残りの人生の抱負を語る番組としてあえておしらせしておきます。この中で私は29歳のときに書いた大江健三郎批判の評論の一部を朗読しています。

 1965年(昭和40年)の『自由』7月号の「私のうけた戦後教育」からの朗読です。この評論は単行本に未収録で、今まで世にまったく知られていません。

 私の新人賞論文がのったのは同誌の2月号で、「私のうけた戦後教育」は二作目でした。大江健三郎は昭和33年に芥川賞を受賞し、小説の他に『厳粛なる綱渡り』というエッセー集を出していて、それを私が批判しました。今なら大江健三郎への批判は珍しくありませんが、当時はだれもまだ思いつきません。彼はほめちぎられていました。

 以下に全文を掲示します。大江への言及は終結部分に出てきます。

私のうけた戦後教育(一)

「民主教育」という愚かしく、腹立たしい体験から私は何を得たか。あるべき教育を訴える

 新制中学での体験

 私は戦前の教育を知らない。

 私のうけた教育は大半が戦後教育である。大半と言ったのは初等教育の最初の三年半が戦時中であったからで、私は「国民学校」に入学し、「尋常小学校」を卒業した年代に属するからである。中学は、「新制中学」であった。まだ戦禍の跡も生々しく残る昭和23年、私は疎開していた水戸市の茨城師範附属中学に入学し、二年後東京に戻ったが、その二年間に私が附属の教育をうけたということは、いまいろいろな意味で回顧に値することのように思える。

 戦争直後、アメリカ式コア・カリキュラムや民主教育の呼び声が怒濤のように流れ込んできたとき、鋭敏に反応し、まっ先にそれを受け入れたのが附属の教育である。学校全体がいわば新教育の実験場であった。附属というようなところには必らずといっていいほど熱心すぎる先生、教育理念にとり憑かれたような先生がいるものだが、私の担任もそんな一人だった。

 当時は社会風俗もひどく混乱していた時代だ。新教育のいき過ぎは社会の安定に伴いその後かなり是正されていったであろうから、以下の報告はいまではほとんど信じてもらえそうもない昔物語かもしれない。しかし、戦後の民主教育がたどった諸傾向のある意味における原初形態が、このとき私が体験したもののうちにあったことだけは認めてもよいだろう。

 教室における机の配置。通例の形式をとらず、三人づつ向い合う六人一組のグループ(男女各三)を八組ぐらい編成し、教室内に適当な間隔をあけて配置する。黒板に背中を向ける生徒もいるわけだ。教壇は取り払われ、先生の机は窓ぎわに移された。私達の学校は陸軍歩兵隊の兵舎跡を使っていたので部屋数にはかなりゆとりがあり、廊下をはさんだ向い側に、私達のクラスはもう一つの空き部屋「社会科教室」を与えられていた。

 特定の学科をのぞいて一切の時間割が廃止された。いま正確には記憶していないのだが、数学、理科、音楽の三科目をのぞく残りのすべての学科を総称して「社会科」とよんでいたように思う。たんに歴史や地理だけではない。国語も英語も体育も図工も社会科のうちの一部門にすぎなかったのだ。各科目を有機的に連関して教えてこそ生きた教育ができる、ということだったらしい。が、時間割というものがないのだから、クラス討論会のようなもので午後一杯をつぶすこともあれば、全然英語の授業のない週が二、三週間つづいたりする。

 要するに新教育の理念の名においていろいろ奇怪なことが行なわれていたのである。

 生徒の自主性を育てること、単なる知能教育を排して総合教育を行なうこと――これは当時さかんに言われていた「理念」であった。

 平等ということも新しい教育標識の一つであった。まず生徒同志の平等、次いで先生と生徒の人格的対等という関係。優等制度は廃止され、学年末には皆勤賞と努力賞だけが与えられた。先生が任命する級長はなくなり、生徒の互選する委員長が生まれた。先生は教えるのではなく生徒と共に考えるのである。先生はつねに生徒と友達のように話し合おうとする。生徒の犯した罪は叱るのではなく、生徒の立場に立って理解するのである。

 どうもそういうことだったらしい。終始先生は私達の考え方に耳を傾けようとする姿勢を示して、アンケートのようなものをさかんに行なったが、子供の確乎とした考えがあるわけではなく、私達は教師の暗示につられて、結局は教師のしゃべっている「思想」を反復しただけではなかったろうか。どうもそんな気がする。

 私は子供心にも終始はぐらかされているような不快感をかんじていたことだけを、いまはっきり記憶しているからである。先生は私達子供を一人前の大人のように扱うことによって、師弟の対等な人格関係という民主教育の理想を体現しているという自己錯覚に陥っていたのではないか。先生の理想のために、子供の私達は利用されていたにすぎない。私達はけっして一人前の人格として扱われていたのではない。子供を一人前の人格として扱うべきだという民主教育の実験材料にされていただけなのである。しかも材料として操られていたのは子供達だけではない。先生もまた民主教育という観念に操られていた犠牲者の一人なのである。

 一般に大人が意図するところを子供に気づかせずに、意図した結果だけを子供に信じさせようとしてもそれは無理な話である。子供はそんなに単純ではない。いや、ある意味では子供ほど敏感なものはない。大人の意図をことごとく見破ることはたしかに子供には不可能なことかもしれない。しかし、大人が大人らしくなく振舞えば、それが何を意図するのかは分らないでも、なにかが意図されているということだけは子供は誰よりも早く敏感に感じとるものである。

 そこには不自然さがある。というより、嘘がある。新教育に熱心な先生に私がたえず感じていた子供心の反撥心は、そこになにか嘘があるという説明のできない不信感であった。先生が先生らしくなく振舞えば、子供はそこに作為しか感じない。先生と生徒との間には、厳とした立場の相違、役割の相違がある。そういう暗黙の約束があることを誰よりもよく知っているのは子供である。先生が役割にふさわしく振舞ってさえくれれば、子供は先生を信頼し、先生に人格を感じる。子供の人格を尊重すると称して、いたずらに理解のある態度を見せ、まるで友達同志のように話し合おうとする先生には、子供は人格を感じないばかりか、結果として子供の人格も無視されることになるのである。そこには非人間的な関係、抽象的な人間関係しかないのだ。

 あるとき私は、先生をしている友人に右のような話をしたところ、そういう弊害が起るのは日本の民主主義がまだ完成していないからだ、と言われたことがある。何という観念的な考え方だろう。民主主義が完成しようがしまいが、大人の心、子供の心に変りがあり得ようはずがない。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

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