非公開:私のうけた戦後教育(二)

直輸入教育の犠牲者として

 私達がうけた正規の授業は、大部分グループ教育、サークル教育の形式をとった。あるとき一学期全部を「アメリカ研究」というテーマに費やしたことがある。これは「総合教育」の成果として市の進駐軍から称賛されたばかりでなく、担任の先生はPTAの席上父兄を前に得意の一弁説をふるったという。私は県の教育関係者や県内各地の小中学の先生たちがさかんに私達のところへ視察と参観に来たことを覚えている。

 その経過を振返ってみたい。私達はまずアメリカ研究の方法について、相談役である先生の意見を参考にしつつクラス討論を行なった。実際はともかく、一応形は生徒の自主性で事を進めるという建前がとられていたのだ。それから各班がアメリカの工業、アメリカの地理、アメリカの家庭生活、アメリカの歴史といった研究グループにそれぞれ分れた。まるでクラブ活動みたいなものだ。時間割がないのだから、毎日がこの「社会科」である。国語などは、一ヶ月に一回ぐらいしかない。日本の地理や歴史は全然習わなかった。

 私が属したのは「アメリカの地理」というグループである。そこで何をやったか。私はことさらに誇張して言っているのではない。正規の授業時間中に私は何度も粘土や絵具を買いに町に出かけ(時間の利用は生徒の自由に任されている)、社会科教室約半分の大きさに北米大陸の模型を作り、粘土のロッキー山脈に色を塗り、紙で作ったニュー・ヨークや各都市の間に電気機関車を走らせる。要するに遊びである。遊びたい盛りの年頃にはこれほど楽しい学校はないわけだ。

 が、先生に言わせれば、地理を学びながら同時に図工を学ぶという総合教育の成果を上げ得たことになるらしい。また一つの研究目的に力を合わせることで民主的な共同精神が養われるという。それは知識教育では得られない貴重な生きた教育だという。三ヵ月後に各班が作ったグラフや模型を材料にして、研究成果(?)を発表し合ったが、参考書の丸写しにすぎない内容を読み上げることが、自分の意見を堂々と発表できる自主的な子供を育てるためだと説明された。

 まったくお笑いである。

 しかし、いまだから笑ってすまされるが、私達はていのいいモルモットであっただけでなく、じつは深刻な犠牲者でもあったのだ。学力の低下は著しく、私はこの二年間に手ひどい被害をこうむった。見るに見かねた両親が中学三年の始めにこの学校から私を退学させ、東京の普通中学に移したとき、二年間の空白は深刻な形で私を襲った。

 当時すでに東京では受験競争が始まっていたのである。私は温室のなかの民主主義から現実にほうり出されたほどの衝撃をうけた。アメリカ式新教育の途方もない誤解形式は、東京ではすでにある程度は是正されていたのかもしれない。受験準備の慌しい知識教育が今ほどではないが、可也り熱心にすすめられていた。

1965 年(昭和40年)『自由』7月号

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です