ご遺骨の前で、私は奥様と1時間ほど先生の思い出ばなしを交した。林先生はすべてにわたって淡々として、怒った顔もみせないし、悲しそうな顔もあまりしないし、愚痴ったり、ぼやいたり、弱音を吐いたり――そういうことがまったくない方だったという点で考えが一致した。
「世の中にはとかく礼儀を欠いた人がいるでしょう。」と奥様は仰言った。「夫と一緒にいて、言葉づかいなどでずい分失敬なものの言いようをする人に出会って、私は女だから『あの方ずい分失礼ね』なんて言うでしょう。すると林は『そうかねぇ』とひとこと言うだけで、全然気にも留めないみたいでした。」
ここに林先生の生き方の一つの姿が表現されているようにさえ思えた。
「先生は君子なのです。小人ではないのです。君子ということばがピッタリだなァ。前からずっとそう思っていました。」
「でも、林には一対一でお附き合いするお友達がいませんでした。会合には行きますが、飲み友達というようなものがなく、学者ってこういうものかなァ、と思っていました。」
奥様が結婚されたとき先生は65歳だった。もう少し前には酒場をはしごする生活もあったはずである。私より上の世代、例えば村松剛氏あたりとはそういう附き合いもあったのではなかろうか。
けれども西洋史学会の関係者が林先生を敬遠したことは間違いない。九里さんも言っていたが、西洋史も8割はマルクス主義史学者である。先生は若いころ東大の中枢に入っていたから、比較的被害は少なかった。「差別」はされない代わりに「敬遠」された。
先生はだから雑誌『自由』の福田恆存、竹山道雄、平林たい子、武藤光朗、関嘉彦、木村健康といった諸先生と交流を深め、『文藝春秋』『中央公論』のもの書き仲間と人間関係を深められたのであろう。私もそのグループの一番若い末席にいたのだった。林先生は若い私の書いたものもよく読んで下さっていた。
あるとき葉書が来た。イスタンブールの街に屯する浮浪者の群れを形容するのに私が「いぎたない」と書いたのを見とがめて、「いぎたない」は寝姿にしか使えないとわざわざ注意して下さったことがある。先生が思ったことをパッと実行して下さった親切な指摘である。
「『国民の歴史』を林はとても熱心に読んでいましたのよ。あの部厚い本を何日も何日も前にしていました。」と奥様は仰言った。ありがたい話だった。生前、読後感を聞いておくべきだったが、先生は多分ことば少なにしか感想を仰有らなかったであろう。そういう方なのである。素気ないのである。それが先生の持味である。拙著に強い関心を寄せて下さったという奥様の言葉だけでもう私には十分で、もし当時お目にかかっていたら、「あゝ、あれは面白かったです。」というくらいの感想しか返ってこないことが目に浮かぶのである。
先生はテレビ出演が嫌いだった。講演もあまり得意ではない。文章を書くことがすべてだった。飾りのない、論理的で、冷静な文章、つまり「素気ない」文章だった。「絶筆は何ですか」とうかがったが、これから調査しなければ分らない由。もうだいぶ執筆から遠ざかって久しい。先生のお宅にはインターネットはもとより、ファクスもコピー器もない。原稿用紙に手書きし、取りにきた編集者に直接渡すという、昔からの懐かしい伝統的方法で生涯の活動を貫かれた。
雑誌『自由』の新人賞――林先生は審査員のお一人――で論壇にデビューした私は、あの当時の知的に潔癖な反マルクス主義の知識人の偉大な先輩たちの跡を必死に追いかけて歩んできて、今最後に残ったその偉大なひとりを失い、言いようもない喪失感、自分の青春時代の大きな部分を失ったような思いに襲われている。
一日も早く『わたしの昭和史』を再開して、筆を伸ばしあの時代にまで書き及ばなくてはいけない、と思った。資料は揃っているのである。
13日の増上寺の本葬に私は行かない。葬儀委員長の名を聞いて憤慨した。南京虐殺の犠牲者は中国が100万人と言っているから100万人が正しいと論文に書いた人物である。なぜ林健太郎の葬儀委員長をかゝる人物が担当するのか。もうそれを知っただけで、行く気になれない。
先生は社会的位階が高くなるにつれて、かえって孤独になった。そのしるしのように思われる。先生は独立独行の思想家で、愛弟子に取り囲まれるということはなかったのである。
けれども先生は葬儀委員長が誰であろうと、「あゝ、そうかねぇ」と言うだけで、多分全然気になさらないであろう。
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