林健太郎先生が8月10日にご逝去された。このことは知っていたが、私は東京に不在で、今日やっとご霊前に赴き、1月に訪れたあの同じ家でご焼香をすませた。奥様が喪服でお迎え下さった。犬が飛び出してきた。1月にお別れしたときも犬が迎えてくれ、送ってくれたものだった。何もかも同じだった。ただ、先生だけがいない。
東京大学が主催する正式のご葬儀は9月13日である。奥の座敷に、ご遺骨が置かれ、「瑞光院浄譽祥学健徳居士」と記された仮のご位牌の前で香が煙を上げていた。少し高く掲げられた遺影は、横向きで、やや笑っておられる。いいお顔である。
「お幾つのときでしょうか」
「72歳のころ、参議院議員のころです。」
西洋史の弟子の九里幾久雄さんと私が連れ立って1月25日に先生をお見舞いしたのはムシが知らせたのだろうか。享年91歳、いつこうなってもおかしくはなかった。私たちが訪れた日先生は和服を着替えて、待ちかねるようにして私たちを迎えて下さった。「あの日は朝からいつ来るのか、いつ来るのか、と待ち遠しそうでした。あんな楽しそうな様子は最近なかったのですのよ。」と、奥様は思い出すように仰言った。
何日か後に私は「九段下会議」の宣言文の載っている『Voice』3月号を届けたが、先生にはそのときはお目にかかっていない。ご関心を寄せてくださったようだが、それがどの程度のものかは分らない。
ご夫妻はあれから二度ほど歌舞伎座に芝居を見に行っているそうである。肺炎で二、三度の入退院を繰り返しもした。近所のお医者さんが点滴に毎日ご自宅に来て下さることになり、入院生活は止めた。永年住み慣れた趣味のいい和風の家で療養する決心をした。あと1、2年は大丈夫ですよ、とお医者さんは言っていたそうである。
7月の末に先生は異様に「生きたい」と何度か仰言った。今思えば死期が近づいた予覚に違いない。庭先の木立ちに梵字が見えるとも言った。死の一週間ほど前に、突然、福田恆存先生の名前を一日に何度も口にしたという。良きライヴァルであったお二方のことである。何を思い出されたのか分らないが、自然なことである。
昨日は遠山一行氏が、明日には村松英子氏がご焼香にお出でになるとか、そして、数日前に福田先生のご子息の逸さんが見えたとき、うわ言のように名を呼んだ一件を奥さんが伝えた。「そうですか、帰ったら母に報告します。」と逸さんは言って帰ったそうだ。
8月10日の午前2時ごろ先生は奥様の手を握り、満面に今まで見せたこともないような笑顔をみせ、それから寝たままの姿勢で両手を堂々と行進するときに人がする大きく振る振り方をしてみせ、黙って指で上を指さした。「あら、鼠でも天井にいるかしら」と奥様はごまかすように言った。
そして先生は静かに夜の眠りに入った。翌10日の午前10時ごろ少し具合が悪くなった。お医者さんを呼ぼうとしたが、10時は診療所の診察時間ですぐにはこられない。お昼過ぎにかけつけてきてくれた。点滴を脚にしていたので、その作業に入ると、奥様には先生の首の血管の鼓動が止まっているようにみえて、あわてて叫んだ。医師は脈をとり、居ずまいをただして「ご臨終です」と言った。
深夜のあの仕草が「自分は天に行くときが来た」という奥様への合図であったことは今にして明らかだといえる。