日本人の自尊心の試練の物語 (五)

 日本人の自尊心の試練の物語(新・地球日本史より)の続きを掲載します。
(一)~(四)まではすでに掲載しています。それらをお読みになっていない方はこちらを先にお読みになり続きをご覧ください。

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 ――一度指した駒は元に戻らない――
 
 昭和16年12月8日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。

 「12月8日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。

 もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。

 二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。

 当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。

 開戦の日、私は満6歳5カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば8、9歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。

 今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。

 間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。

 昭和19年には6月にB29による本土空襲が始まった。7月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。

 子供心にもそのことは分かっていた。

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