日本人の自尊心の試練の物語 (六)

 ――戦後世代が陥った「第2の敗戦」――

 戦争が終わって不思議なことが起こった。各地で相当数の日本人が自決したが、内乱はなかったし、大量の集団自決も起こらなかった。米軍進駐が始まっても国民生活は平静で、波乱がない。

 「愛国心」の象徴だった国民服が姿を消す。「夷狄(いてき)」の言葉であった英語が氾濫(はんらん)する。「国体」と相いれないはずのデモクラシーが一世を風靡(ふうび)する。あっという間だった。北海道から鹿児島までの主要都市には民間人殺戮(さつりく)を目的とした執拗(しつよう)な絨毯(じゅうたん)爆撃があったし、二個の原爆投下がありながら、アメリカへの復〈心は燃え上がらなかった。

 これを奇蹟(きせき)としたのは英米など連合軍の側であった。血で血を洗う国内の殺戮混乱なくして日本の降伏は治められまいと、恐怖と緊張をもって上陸した占領軍は、あっ気にとられた。天皇の詔勅の一声で、たちまち林のごとく静かに、湖のごとく冷たく、定められた運命に黙然と服する日本国民の姿を見た。

 占領軍はこの静かなる沈黙にむしろ日本人の内心の不服従を予感した。敗戦の現実に対する日本人の認識の甘さが原因だと読んだ。戦争の動機に対する自己反省の不足が、内的平静さの理由だとも考えた。日本人は白旗を掲げたが、敗北したと思っていないようだ。日本人に「罪の意識」を植えつけなくてはならぬ。現に『タイムズ』はそう論じた。南京とフィリピンにおける日本軍の蛮行という占領政策プロパガンダが、新聞やラジオを使って一斉に始まるのは、終戦から三カ月程経ってからであった。

 日本国民の内心の「不服従」はある程度当たっているかもしれない。大抵の日本人はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連という主たる交戦相手国に「罪の意識」を抱かなかったし今も抱いていない。日本の戦争が一つには自存自衛、二つにはアジア解放であったことを戦後のマスコミの表にこそ出ないが、あの時代を生きた日本人の大半はよほどのバカでない限り知っていた。

 たとえ歴史の教科書に、平和の使徒アメリカが侵略国家の日本を懲らしめるために起ち上がったのがあの戦争だという「伝説」が語られていても、米ソ冷戦下で、アメリカの庇護に頼っている日本人は、まあ仕方がない、好きなように暫(しばら)く言わせておけよ、という二重意識で生きていて、本気にはしていなかった。

 戦後の経済復興をなし遂げたモーレツ社員、産業戦士はみなその意気込みだった。まさか自分の子供の世代が、日教組の影響もあって、この大切な二重意識を失ってしまうとは思わなかった。子供たちが教科書にある通りに歴史を信じ、日本を犯罪国家扱いする旧戦勝国の戦略的な“罠(わな)”にまんまと嵌(はま)って、抜け出られなくなるなどということはゆめにも考えていなかった。

 1985年頃から日本の社会には右に見た新しい世代が呪縛(じゅばく)された「第二の敗戦」というべき現象が発生し、今日に至っている。

 けれども、問題は戦争が終わってすぐの日本人の「林のごとく静かな」あの無言の不服従の不明瞭な態度にこそ「第二の敗戦」の主原因があるのではないかと、私は最近、やはり「第一の敗戦」の敗北の受けとめ方への日本人の言語の不在をあらためて問題にしなくてはならぬと考えている。

 なぜ日本人は戦後もなお自己の戦争の正しさを主張しつづけなかったのか。不服従は沈黙によってではなく、言語によって明瞭化されるべきではなかったのか。アメリカへの異議申し立ては、60年安保のような暴徒の騒乱によってではなく、日露戦争以後のアメリカの対アジア政策の間違い、たとえ軍事的に敗北しても日本が道義的に勝利していた首尾一貫性の主張によって理論的になされねばならなかった。民主主義はアメリカが日本に与えたアメリカの独占概念ではなく、古代日本に流れる「和」の理念の中により優位の概念が存在することの主張を伴って教導されなくてはならなかった。

 これこそが今後わが民族が蘇生するか否かの試金石である。

「日本人の自尊心の試練の物語 (六)」への1件のフィードバック

  1. 2610 無言の不服従 松五郎 2004/09/15 23:11
    男性 無職 62歳 O型 福岡県
    「日本人の自尊心の試練の物語」は西尾先生らしいフレーズに溢れていて読むほどにうなづいてしまいます。「無言の不服従」という日本人特有の感情があるという。悪く喩えれば「ハイハイ」と生返事をしてその実、実行しないことが多いのもそうなのかと思ったりします。小うるさい上司が着任してえらそうな空論を唱えてもけっして「お言葉を返すようですが・・・」と意見を言わないでひたすら恭順を決め込み時期を待つ。その時期とはその上司の任期明けなんですね(笑)。台風一過という言葉どおり、農耕民族の遺伝子は脈々と息づいているようです。悪く転がると、不作為をなし、あとで禍根を残す原因ともなりましょう。

    ところで、似非的恭順、事なかれ的不作為とはちがう、かの終戦という未曾有の民族的体験の中で、もうひとつの「無言の不服従」の実行があったように思えるのです。それは大東塾の十四烈士の自刃です。詳細はhttp://tkikan.cside3.jp/home/yukoku/y04/03/のとおりです。

    「大東塾十四烈士自刃記録」に吉田武という相武台士官学校の区隊長さんがふとしたきっかけで自刃現場の後始末を手伝うはめになり、その手記をしたためています。それによりますと急を聞いて駆けつけた警察官は帽子を脱いで威儀を正して一礼、合掌し言ったそうです。

    「私は代々木署の者です。大東塾については平素より、よく知っております。終戦後、何れ塾としての意志表示が何かの行動によって出てくるものと思っていました。我々は右翼と称せられる人たちの行動に注意して警戒していました。大東塾もその一つです。大東塾が平素の塾の信条にのっとり静かに最後の行動をされ、いささかも社会に迷惑をかけることなく、今回のこの挙に出られたことに深い敬意を表します」といって更に言葉を続け「大東塾を私は信頼しておりました。暴挙をするような
    塾ではないことを。私の期待通りでした」。・・・

    代々木公園のケヤキの木々の立ち並ぶ一角に自刃現場碑が立っています。米国に接収された日本領土のうち一番先に返還されたのがこの数坪の土地とか。接収が決まったあと、近接の町内の方々が鮮血のしみた土を持ち帰り、大切に保管をされていたとのことで、自刃現場碑の建立にあわせてその土が返されたというエピソードも残っています。

    これを西尾先生の「無言の不服従」といえるかどうか、少し違うかとも思いますが、松五郎がこのフレーズに触発されて想い起こしたある日本人たちの物語です。語り継いでゆかねばならないと思っている次第です。若い方のご参考になればと思い、いささか長くなりましたが、書かせていただきました。

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