戦争中の日本軍人の高潔な人格を描いた映画『明日への遺言』(小泉尭史監督)がいま評判である。B級戦犯岡田資中将が法廷で部下の責任を全部ひとりで背負って決然と死刑台の露と消えた実話を基にしたあの映画は、たしかに感動的だったが、ようやく日本映画もここまで来たと喜んではいけない。ここでも「敵」は描かれていないのである。
アメリカという理不尽な敵、許し難い敵の存在、そして日本の戦争の動機の善、あの時代の日本の「正義」などは、描かれていないのだ。描かれているのは部下の罪過を背負って死んだ一将軍の個人的に傑出した勇気と高貴さである。外国人にも通じるヒューマニティの高さである。自己犠牲の美しさという戦後社会にも開かれた一般道徳である。大東亜戦争の歴史の是非は問われていない。
だからこの映画はつまらぬと言うのではなく、これはこれでいいのだが、「敵」を見ていない点に限界がある。
これに対し同じ時期に完成した「南京の真実」第一部の『七人の死刑囚』(水島総監督)は、戦後社会とみじんも和解していない。旧敵国人の多くが拒否感情を抱くに相違ない描き方で、あの戦争の日本人の「正義」を正面から掲げている。あの時代の敵は今も「敵」なのである。そういうメッセージが伝わってくる。岡田中将のような分かり易い人間のドラマ的展開をあえて封印して、七人のA級戦犯の辞世の歌に忠実に、処刑の時間までを緻密に、リアルに描いた『七人の死刑囚』は、自己犠牲の美しさとか個人のヒューマニズムといった一般道徳の次元に逃げていない。法廷の場に日米和解の感情が流れるように描かれている『明日への遺言』と違って、和解などあり得なかったあの戦争の敵の実在、運命そのものを正面から見据えている。
一般興行用にはどちらが向いているかは分からないが、今われわれに必要なのは歴史を甦らせるこの視点である。カオスが再び近づいている今のわれわれの時局において、60年間忘れられていた「敵」と直面し、これと闘い、解決する知性と意思と情熱のいま一度の復活が求められている。
(「修親」2008.5月号より)
つづく