坦々塾(第十一回)報告

濵田 實
坦々塾会員、元大手コンピューター会社に勤務

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坦々塾の記録(感想)     

日 時 平成20年11月22日(土)14~18時半

 今回のお話は、それぞれ内容も豊富で、記録の量も、いつもの倍はあったようです。この内容が知れ渡れば、日本人もGHQの洗脳から覚めるのではないかと思うほどに濃密なものでした。以下、私の感想というかたちでお話の内容、雰囲気をお伝えします。

● お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」

        足立誠之氏(元カナダ三菱銀行頭取、元三菱銀行北京支店長)

● お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」

        西村幸祐氏(評論家・月刊『激論ムック』編集長)

● お話の3 「私の人生と思想」

        西尾幹二先生(電気通信大学名誉教授・評論家)

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お話の1 「アメリカの対日観と政策“ガラス箱の中の蟻”」 足立誠之氏

 出だしは田母神論文に関し、 ①日本侵略国家論 ②文民統制論 をおかしな動きとして縷々説明、「侵略論」の裏には村山談話にさえ無い何かが隠されているのではないかと私見を述べられた。またオバマ黒人大統領誕生に関し、何よりも国際連盟で「人種平等案」を提唱したのは他ならぬ日本であったことにも触れられた。

 氏は『閉ざされた言語空間』(江藤淳氏)や『GHQ焚書図書開封』(西尾幹二氏)を読むにつけ、食糧配給などで示したアメリカの「情報操作」を思わずにはおれなかったという。アメリカによる巧みな情報操作は、当時のいろはカルタにさえ「強くてやさしいアメリカ」などという表現で巧妙に情報操作がなされた。日本人の感覚では思いも浮ばないことである。

 渡米後遭遇した地下鉄大混乱(スト騒ぎ)では、大バリケードの光景をみて、アメリカ社会の姿にハッとしたという。それは「ガラス箱の中の蟻」を思わせるものであったそうだ(ガラス箱: 国民が目に見えない壁面のガラスを通して、投影された宣伝映画を見せ付けられているというイメージ)。その他、幼児の、ベランダからの転落死事件におけるアメリカ社会の対応を観察しても、戦後の我が国における「子供を自由にのびのび」とは正反対というお話を聞き、我が国社会は「当たり前」のことを戦後「奪われた」(戦前の日本にはあった)という思いを深くした。

 また氏は渡米して、今では当たり前のPOSシステムの前身を目の当たりに見て、アメリカ社会の戦略思考をまざまざと感じたという。かなり昔、ある雑誌でヤオハンの和田社長(当時)が、同社におけるブラジル等海外進出の動機はアメリカのスーパーチェーンシステムに刺激を受けたことであると読んだ話を思い出した。アメリカ社会を観る視点は徹底してその「戦略志向」にある。外国を学ぶとは、そういうことではないだろうか。私見であるが、日本人の外国の学び方、洞察の仕方に、深い疑義を抱いている。

 その他、イランにおける米大使館人質事件とその対応や、一発の銃弾もなしに人質事件が解決した背景に何があるのか? また谷内(やち)前外務省事務次官が、文芸春秋12月号コラム「霞ヶ関コンフィデンシャル」で当時、爆弾発言をされた話など、その背景に、アメリカの日本の潜在力に対する「脅威」が彼等の心に潜んでいるという興味あるお話もあった。この報告は面白いが長くなり、またブログで詳細文が載るとも聞くので、そちらを参照いただきたい。

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■ お話の2 「ジャーナリズムの衰退とネットの可能性」  西村幸祐氏

 ジャーナリズムのあり方については、西尾先生が『諸君11月号』で彼等の根本姿勢を批判され、佐藤優氏の感想文が本ブログでも紹介されていることは、皆さんご存知のとおり。西村氏は具体的に、戦後言語空間で覆われ反日の構造を挙げられ、戦後日本人の間で進んでいる記憶喪失や情操操作、隠蔽体質等に、メディアの質の劣化が潜んでいると批判された。

 2002年(平成14年)の小泉訪朝以来、国民意識は変わっていないという。ある知識人は、当時、『諸君』、『正論』、『Voice』などの雑誌が元気付いた傾向をして社会の右傾化と評したが、むしろ、本当は「左傾化」であると指摘された。世の中一般は、何となく右傾化、という風潮があるようだ。この説明は、社会の裏側をよく知る人たちには、ある程度気付いていたことだが(=世の中、ますます酷くなっている・・という)、あらためて新鮮は印象を抱いた。

 それは、田母神論文に関連して、マスコミの一斉批判とレッテル張り、田母神発言封じや、浜田防衛大臣が統合幕僚学校の教育のあり方を見直す(「偏り」を直す)という発言がその傾向を象徴しているというように、現職の自民党大臣がトンデモ発言をする御時世になった。まさに左傾化、政府の没落化であり、物事をみる視点が希薄になったことでなくして何であろう、という印象を持った。しかしその後、田母神氏の姿勢は止まるところを知らず、全国から講演依頼がたくさんきていると聞く。

 国民一般の田母神論文に寄せる感想は圧倒的に支持する意見が多い。田母神氏はサムライとして、内容に隠し立てする必要もなく、正々堂々と正論を貫き通せばいいだけのことだ。きちんと田母神氏をサポートしてゆけば、そのうち言論封じをした政府、マスコミの方が、不利になることは確実である。中韓両国も、田母神氏があまりに堂々としていること、及び今まで中国政府における毒餃子事件反論など、デタラメ対応をみせてきたため、自ら墓穴を掘り、へたにやると日本国民から批判を受けるとして、今回日本を正面から批判できないでいる。今までと違った空気である。

 先の谷内発言のバックに「アメリカが存在する」という暗示を指摘されたが、今後どのように日本政府が将来を切り開いてゆくのかも気になるところである。

 国籍法改正案問題についても触れられたが、某テレビ局は「女子供」をダシにした違法行為是認の偏向、歪曲報道を行い、感情を表に出して法の世界に風穴を開けようと意図的に情報操作した。自分自身が番組をみて、怒りを感じたので、恐ろしい動きがあることを実感しながらお話を聞いた。メディアもたよりにならない。然らば、インターネット(Uチューブなど)やファックスによって、風穴を開けよう(実際その効果が出ている)という西村氏の意見は、現実になりつつあることを、あらためて感じた次第である。

 最後、西村氏は「歴史(事実)情報が忘れられている。原理原則を忘れている。それが常態化していることが根本問題だ」だとして、お話を締めくくられた。

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お話の3 「私の人生と思想」  西尾幹二先生

 社会の「左傾化」はそのとおりだが、先生はある意味、楽観もしているということであった。今の合唱は「断末魔のヒステリー」として、村山談話はアジアの贖罪をアメリカに向って発したもの、それは自己処罰と、アメリカに対する恐怖感に由来すると、さらりと言ってのける先生の思考スタンスが面白い。麻生首相がいつの間にか安倍氏と同じになった・・とも言われた。

 いま、先生はGHQ焚書問題にも力を入れておられるが、その関連で、昭和40年(当時29歳)の雑誌『自由』で当選した「私の戦後感」という論文主旨が今日の言論活動と一本線でつながっていることを、私自身が発見した。さらに言えば、中学時代の先生の日記にも、今にも通じる歴史に対する思考スタンスが萌芽としてあったと感じるのは、私だけではないと思う。その歴史思考を先生は、私見ではあるが、人生の問題としても捉えているのではないかと思う。

 戦後、進歩的文化人が陥った思考の泥沼は、単純に言えば、過去を「否定」し、その後を「肯定(是)」する姿勢、自分だけ救われようという自己弁護である。そういう卑怯な自分をこそ問うべきである。そういう悪を否定する勇気、女々しさを否定する勇気が必要である。考えてみると、西尾先生の論調には、すべてこの批評精神が悠々と、一貫している、ここが真骨頂と思うが、いかがだろう。

 昭和45年の三島由紀夫事件についても、縷々面白い、微妙なお話もされたが、これは新著『三島由紀夫の死と私』(PHP/西尾幹二著)に詳しいので割愛する。

 アメリカ問題に対しても、けっこう時間を割いてお話しされたが、アメリカによって与えられた平和主義が戦後日本の生き方になり、そこに疑義も抱かず、その構造を今の日本人が忘れている。それ自体が、「日本の病理」の全てであるという指摘は、まったく同感である。先生の数ある著書、ブログ文章にも、繰り返し触れられている論点である。

 「自己決定」を避けようという姿勢が、日本人の精神、思考をして稚拙化している要因と思われてならない。その他、サブプライムローンに発するアメリカ及び世界経済の行方、80~90年代の日米関係の振り返り、村山談話をどう見るか、についてもお話をされた。

▼ 最後に一言

 3先生のお話に関して、私(濵田)自身が正直どう受け取っているのか、ごく簡単に書かせていただきます。

 基本認識は正直、殆ど同じですから違和感はありません。私自身が言論の世界で昔から違和感を懐いてきたことは、日本がこれだけ長い歴史・伝統・文化を持ちながら、外国に「位負け」し、自らを貶める言論好きの日本及び日本人に大きな違和感を懐いてきました。私なりにかなりの本を読み込んできた結果、日本の歴史・伝統・文化に強い「信」を懐いております(ミスクソ一緒ではない)。その意味で坦々塾は居心地がいいのです。最近気付かせていただいたこと、それは「真善美」に悖る保守人・・秩序、礼儀を無視する保守人といってもいいでしょう・・、『真贋の洞察』を欠いた保守人、『身近にある危機』を感じない、あるいは知らない(知らぬ振りをする)保守人の不思議な存在です。ここに保守人の劣化、稚拙化、危うさを感じています。最後に日本民族のアイデンティティを確かめるため、『古事記』の(本質的な)世界にもっと入り込んでいいのではないか・・・と個人的には思っております。                            
   以上
文:濵田 實

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