非公開:『GHQ焚書図書開封 2』をめぐって(二)

 1月11日高校の親しい友人の集まる新年会があったが、私は欠席した。

昨日は残念でしたね。19名(うち女性5名)、いつもながら、いつものように楽しく一夕過ごしました。

次回は、2010年1月17日(repeat 17)(日)16:00、同じく「吉祥日比谷店」なので、今から手帳にご記入ねがいます。
「焚書図書開封2」読みました。戦後、あの短時日でよくもまああれだけの、「的確な」本を選んでいたものと感心します。(第1巻のときもそう思ったのですが・・)第1巻に紹介があったと記憶していますが、「協力者」の知的レベルが別の意味で相当の水準だった、ということでしょうか?

 1月12日にこういう書き出しでメールを下さったのは友人のK君である。私は世話役のK君に釈明のメールを打っていた返事だった。

 10日には既報のとおり坦々塾があり、六本木でカラオケをして疲れたからといって本当は翌日酒の席を避けるほどのやわではまだない。じつは『WiLL』と『諸君!』と『撃論ムック』の〆切りが迫っていて、ギリギリ延ばして18日(日)夜がデッドラインであることが分っていた。合計100枚くらいにはなるだろう。

 私はにわかに焦っていた。坦々塾のための講演の準備で8日も9日も雑誌論文には手をつけていない。なぜこんなに急迫したかというと年賀状の処理に時間がかかることを計算していなかったのである。

 毎年のことなのに何という不始末なのだろう。パソコンで絵も文字も宛名もひとりでやるというのは初めてである。今年は100枚減らして900枚。私のパソコンの技術も上達したものだ、とひとり悦に入る。

 とはいえ講演と宴会とカラオケの疲れで11日はやはり論文の執筆は開始できず、それから10日間悪戦苦闘がつづいた。本日22日正午に最後の追い書きの校正ゲラの最終チェックを『諸君!』編集部にファクスで送って、すべてが終了した。あゝ、何という毎日だったろう。

 「追い書き」というのは次のようなやり方だ。今回は原稿用紙で約束の30枚までを20日正午に渡して、大きなテーマ展開になったのであと10枚を書いてもよいと許諾される。21日午後2時が10枚の制限時間であった。編集部からは30枚までの校正刷が午前中に届けられていたがそれを私は見ないで午後2時の時刻を守った。その後30枚までの校正刷を見て、編集部はその夕方にこれを印刷屋に送るのと同時に10枚の追い書きを合わせて印刷に回した。22日正午に私は戻ってきたその最終チェックをしてファクスで送り、終了した。ファクスと電話を用いたいわば時間の綱渡りである。

 編集部に迷惑をかけるこんな仕事の仕方はいつもやるわけではないが、緊急事態の許された処理法である。その間に調べを要する疑問が校正部から回されてくるから書きながら研究するようになる。後からふりかえると息も詰まるような時間であった。やはり三誌をいっぺんに書くのはもう無理なのかもしれない。

 三つの雑誌評論の内容については次回に少し語ろう。私の仕事の舞台裏を今日はちょっと紹介してみた。私が同窓会を欠席して自分の仕事時間を守ろうとしたいきさつを、K君をはじめ友人たちに分ってもらいたくてこんな報告をした。

 「20日正午」「21日午後2時」という時刻は絶対に揺るがせに出来ない時刻であった。いつも犬を連れて散歩に行く時間なので、ワン公は待ち切れず、書斎のドアを鼻で開けて這入ってきて、催促するようにピタリと足許にうずくまっていた。

 さて、K君の手紙だが、『GHQ焚書図書開封 2』について次のようにつづく。

インドシナのあたりの記述、大変興味深く拝読しました。
今から思うと、ベトナム戦争のあたりまでは、白人(フランスにアメリカが変わっただけ)の「侵略」の図式が続いていたように感じられます。同国の本当の?独立は、ベトナム戦勝利以後のことかも知れません。小生は、ベトナム、インドと勤務しましたが、それぞれのローカルの人たちは旧宗主国(それぞれフランス、英国)に対して、いうにいわれぬアンビヴァレントな感情を持っていました。少なくとも「文化的」にはしっかりと「刷り込み」をやったのですね。
以上新年会ご報告かたがた、簡単な読後感です。

 K君は東京銀行に勤務していて、丁度ベトナム戦争の最中の危険な時期にサイゴンにいた。当「日録」を読んでくれていて、たびたび登場する足立誠之さん(坦々塾の前回の報告文にも出てくる)は、自分より8年後に入行した東京銀行の同僚であると言っていた。東京銀行は三菱銀行と合併した。ただ面識はないらしい。

 上記の文の「アンビヴァレントな感情」が気にかゝり、私はどういうことかと質問のメールを送ったら、大変に面白い次のような返信が届けられた。

「アンビヴァレントな感情」について。
貴兄が第2巻で述べられた植民地支配の第3段階で、ベトナムはフランス式、インドはイギリス式の教育、法制その他もろもろを導入しました。(いまの若い人はどうなのかわからないが、まあ、あまり変ってはいないような気がする)小生が付き合った年頃の連中(ある程度のインテリ)は、たとえば学校教育で、むしろ宗主国の歴史の方を詳しく習っています。(ベトナムではその辺のおじさん、おばさんでも、たとえばジャンヌダルクのことなど、普通の日本人よりはるかに詳しい)宗主国の搾取?の歴史は勿論知っているが、文化的な帰属意識をかなり西欧においている。

たとえば、インドのカルカッタには、ヴィクトリア女王没後に、イギリスが「ヴィクトリア・メモリアル」という、壮大な建築物をつくったが、独立後もこれは中身もろともそのまま保存され、観光(カルカッタはよほどの物好きでないと、観光には行かないにせよ)の目玉になっています。

カルカッタは州政府がずっと共産党だったので、中央政府の援助があまりなかったり、中印紛争、バングラデシュ独立などで難民が入り込み、ご存知のようにマザー・テレサが「活躍」した、全市これスラム街のような都市であるにもかかわらず、地元市民は、このメモリアルに結構プライドを持っています。(なかの展示には、ヴィクトリア女王関係、またその時代の展示物のほか、悪代官?であった歴代の総督の肖像画なども飾ってあるのです。)

かれらは、アタマでは西欧の支配を否定していても、宗主国の文化には「胸キュン」となる場面があるような気がします。このあたりが小生のいう「いいしれぬ・・感情」というところです。

 ここで指摘されたことはかなり重大な内容である。西洋文化は調和と進歩、文明と破壊の二つをもつ双面神だったので、進歩と破壊だけが入ってきたのではない。背後にある調和と文明も同時に入ってきた。日本に対しても同様である。

 しかしそのことの区別の不明瞭が今われわれの歴史認識を惑乱させている問題の核心につながっているのである。「追い書き」で間に合わせた『諸君!』3月号の「米国覇権と東京裁判史観が崩れ去るとき」でも文明論上のこのテーマに少し触れたので、次回で考察をつづけることにしよう。

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