〈専門家への疑問符〉考(第三回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 

自分以外の分野は無知でかまわない
 
 露伴を雑学家とした見方に山本健吉はこう反論している。

 「なるほどそれは今日の細かく分化した知識をそれぞれ分担している専門家たちの学問とは、いちじるしく違っている。それらの人たちから言えば、露伴の学問には雑学的ともいうべき特色があるのは事実である。雑学的というのは、端的にいえば学問としての體系・方法を缺いた、雑多な知識の集積ということだろう。だが、露伴に果たして、體系・方法が見られないと言えるかどうか」
 
 われわれが生きている技術文明の高度化、社会機構の複雑化の進行はめまいを覚えるほどである。社会は新たな課題に応じられる新たな専門家の登場を要請する。

 技術と知識の膨張速度は凄まじく、個人は細かく分断された部分知識を持つことはできるが、全体的な知能と職能を獲得することは不可能となった。分担と共有は宿命的な図式である。が、これを逆にしてみると、個人は自分以外の分野はまったく無知であってもかまわないということである。分担される知識と技術はますます細分化し、専門家はその領域内で深い知識を獲得しているかもしれないが、社会が所有する知識の総和から言えば、個々人の知識と技術は著しく狭い。

 「近代人は古代の素朴な農夫に較べてさえ、個人的な知識と技術との著しい相対的減少が見られる。言い換えれば愚昧になっているとさえ言えるのである」と、山本健吉は人生全体の知恵の喪失を指摘しているのだが、問題が深刻なのは、狭隘な知識の所有者である専門家自らが、必ずしもそうは思っていないことである。
 
 感受性のある日本人なら、一人ひとりが充足完成することのない時代に投げ込まれている現実に、多少は嘆声を漏らしいらだちを覚え寂寞を感じるものであろうし、完結した生涯を持ちえない生、断片的で過程的でしかない人間と化していくことによろこびを抱き、そうした社会に賛辞を与える気持ちは持ち合わせないはずだが、考えの機械的にして精緻なる人たちはそうではないようだ。

 まず、人生における全的人間としての知恵など時代遅れの古い人間の繰り言と蔑んでいるだろう。少なからず彼らは進歩主義者なのである。専門を担っているという自負以上に、誰もが持ちえない専門知識の保持者として社会に貢献しているという高ぶり、専門領域外への無関心、外部からのいかなる発言もゆるさない不寛容という合併症を患っているのではないか。

気にかかるゲーテの言葉

 露伴が雑学的な物知りに見えるのは、一面ではやむをえないと言えるのかもしれない。

 柳田国男は民俗学者として身を立てようとしたわけではないし、内藤湖南も泉下で「私は歴史家として生きた」とは思っていないだろう。南方熊楠となると何が専門なのかと言うことができない。「すぐれた菌糸学者」などと言おうものなら本人は大笑して「俺は革命家だ」というかも知れない。
 
 露伴はどうか。田邊元博士は今でも「博士」という二文字を付けなければ格好がつかないが、露伴は文学博士であるものの、幸田博士と呼ぶ人は皆無である。つまり、博士はよけいなのである。
 
 ちなみに、西尾先生は自分をライターと呼んでいる。物を著すときはただの評論家だ。実際は何も付いていない。西尾幹二は西尾幹二である。たくさん仕事をすると肩書が簡単になり取り払われるのは自然の理である。専門家は相変わらずの肩書主義なのである。

 露伴には雑学的というべき特色はあるが、今日の専門家がする学問に較べて、より全体人間的であり、人生万般的な知識の所有者であった。しかも、近代的細分化される以前の知識風土において、その時代が思索しておかねばならない対象をとらえ、直観力を持ち合わせ、物事の帰趨を決めつけずに限界をはみださない〈反措定〉という節持を自らに課していたといわれる。
 
 そうした節持を今日の専門家は理解しない。限界をはみださない姿勢は「自説に自信を持てないからだろう」くらいに思っている。そうではなく、露伴は問題の立て方が違うのである。学問的というべき答が出ないのは承知で広い立て方しかしていないのである。「完全さに達するのは、学ぶ者のなしうることではない」とゲーテは言葉を残しているが、これを晩年の負け惜しみととらえるほど私はひねくれていない。

徂徠が夢にも思わなかった学問の概念

 露伴が日本の古代中世ばかりか支那の文献、インドの仏典などを縦横無尽に織り込んで物語るとき、誰もがその博識に驚かされるのだが、薄められた知識をひけらかす趣味人の厭味といったものはない。物事の結末をあらかじめ見て取って筆で読者をねじふせるといった押しつけがましさはないように思える。

 卑近な人生の場面から形而上的な理念の探究――それはたとえば「運命」と呼ぶしかないようなものを含んで読者に迫る。露伴に體系や方法といったものがないのではなく、人が生きるための體系と方法が横たわっている、と山本健吉は抗議した。 
 
 「見聞広く、事実に行きわたり候を、学問と申事に候故、学問は歴史に窮まり候事に候」は荻生徂徠の有名な一節である。小林秀雄はこれを読んで次のように書いた。

 「徂徠の学問に、厳密な方法がなかったという事は、裏返して言えば、何の事はない、今日の学問より遙かに生活常識に即していたという事なのだ。(中略)今日の学問では、広大な人間的経験の領域を、合理的経験に絞るのを眼目としているから、学者は、必ずしも見聞を広める事を必要としない。いや、人情を解せず、人倫を弁えなくても、学問の正しい道は歩けるのである。徂徠等の夢にも思わなかった学問の概念である」

 徂徠の「学問は歴史に窮まり候事に候」という深淵な部分を今ここで扱うのは目的の外である。また、容易に手に負える課題でもなさそうである。小林がいう「必ずしも見聞を広める事を必要としない」今日の学者のほうに着眼点があるのは言うまでもない。見聞を広めようとすると雑学家の烙印を押されてしまう。西尾先生が以前の日録に「私は知りたがり屋なんです」と書いていたことを妙に思い出してしまう。
 
 「鴎外とか露伴といふ明治己来三代で嶄然と衆峰を抜いた大文士の作品を読んでごらん。日本だけの精神生活の高み深みがこの二人に極まってゐると思ふでせう。しかしこの外にも近代を象徴する詩文はいくらもある。おしくるめて、人めいめいその立場を妥協せずに、書いて、生きて、愛した人達のものが歴史に光って残るのです」
 日夏耿之介は露伴が逝った年(昭和二十二年)にこれを『風雪の中の對話』で書いている。

 簡潔な文章だが滲み入ってくるところがある。田邊博士の露伴評とは正反対である。オーソドックスなことをオーソドックスに表現するのはむずかしい。最後の文節は碑文のように美しいといったら嗜好に寄り過ぎるだろうか。

つづく

文・伊藤悠可

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