〈専門家への疑問符〉考(第五回)

ゲストエッセイ 
伊藤悠可(いとうゆうか)
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講 坦々塾会員

 

百科事典は宇宙的ではない
 
 『江戸のダイナミズム』の思惟の内にあった西尾先生は、前掲し引用したグンドルフがいうところの「宇宙的なるもの」のなかで呼吸をしていた、と私は感じていた。

 「宇宙的なるもの」とは最近、流行らない表現である。NASAだとか宇宙開発だとか、そっちの平板な科学に行ってしまうが、まったく違う。コスモスへの観照、民族の直観による世界探究というものに近いと思う。

 先生が「古き神を尋ね、それをときに疑い、ときに言祝ぎ、そしてときにはこれの背後に回り」と表現した言語文化ルネッサンスのドラマは、グンドルフなら「世界建立的な行為者」や「世界視観的な形成者」の情熱や衝動によって行われる仕事ということになるのだろう。人間態の全体に向かえるものは「宇宙的なるもの」だというのである。

 そして、グンドルフはこう区別している。

 「ある目的とか體系とか方法とかを一切の素材に適用することが宇宙的であるのではない。完備ということが完全ということではない。百科事典は宇宙的ではない。総じて、包括的であると言っても、それが血と魂とに於いてでなく、目的と素材とに於いてであるものは、ことごとく宇宙的ではない。組合や学会や連盟はたとえ世界を蔽うにしても部分的である。宇宙的でありうるものはひとり人間のみである」(『英雄と詩人』)

 保守系論者とされる学者が「水平思考は駄目だ、もっと垂直思考でとらえ直さないと」ということを書いたりしているが、床に広げた歴史年表の上を水平に移動し指さすようなことをして、それが垂直思考だと言っている。歴史も素材漁りをする人たちからあれこれ窮屈な扱いを受けている。

 彼らの褒める聖人や偉人は、彼らの思い出す歌や詩は、なぜこうも生命を欠いているのか。歴史の人々もわれわれも「形作りつつ形作りかえられる」(同上)という交互作用の中で生きていることを知らない人が多すぎるからであろう。「歴史は動くもの」と言われた西尾先生の言葉は平易ではあるがなかなか理解されにくい。
 
 思想家は愈々、ひとり悲壮な戦いを続けていて、専門家の多くは愈々、生活を志向しているように見えることがある。

(了)
〈専門家への疑問符〉考

文・伊藤悠可

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